番外編(一)夢見る桜

一、忘却(1)
 雨が降る前に決着をつけておく必要があった。雨は、咲き誇っていた桜の花びらを湿らせ、より早く散らせる要因のひとつとなり得るからだ。
 香穂は、花姫の張っている結界の境界線となっている、その外、ぎりぎりのところで佇んでいた。精霊の結界でありながら、人間――村人を守るためのそれは、所詮は“魔”を呼び寄せる狼煙みたいなものでしかない。だが、真人になってなお、欲を膨らませることがなければ、ひっそりとした村の出来事などに興味を惹かれることもないというのも事実だった。香穂に言わせれば、結局は“魔”を引き込んだのは、人間だ。見つけた玩具で遊びたいと感じるのは、“魔”ならずとも当然の感覚。本来なら、放っておくのに、と心に決めたにも関わらず、あがくようにそう思ってしまうのは、それこそ香穂の本能かもしれないと感じて、苦笑が零れた。その本能に抗うように、手の平に風の精霊を呼び寄せる。

「さっさと出てこないと、引きずり出すわよ」
 目の前の空間を睨みつける。様子を窺うように、けれど隙があればいつでも襲い掛ることができるよう、覗き見している気配をしっかりと掴んでいた。その気配が高魔であることもわかっている。
「あたしの存在に気づいて、あまつさえ、挑んでくるなんて、命知らずだね」
 嘲笑を浮かべて姿を現したのは案の定、美しさを纏った、女性だった。短い漆黒の髪は風に逆立ち、瞳は愉悦を含んだ光を浮かべ、笑みの形に刻まれた唇は薄っすらと紅く、白磁の肌は、滑らかに女性特有の曲線を描いていた。
「仮にも、精霊使いですから」
 高魔特有の威圧的な空気に押されることもなく、同じく笑みを返して堂々と言い放つ。
「ああ、単なる余興に忌々しい使い人までおびき出せるとは思わなかったよ」
「本来なら花姫 ――精霊が護る領域に高魔は近づけないはずだもの。妖魔を送りこんだわね?」
「偶然見つけた精霊結界に興味をそそられてね。壊してやろうと思ったのさ」
 見つけた以上は徹底的に愉しむ、その気持ちはわかる。けれど、今の香穂にはそれは許容できることじゃなかった。
 秋が妖魔の攻撃を受ける前に高魔を倒す必要がある。
 その想いを前面に出して身構えると、高魔は警戒するように鋭く香穂を睨みつけてきた。
「所詮、人間如きがあたしと戦おうって?」
 鋭い視線に対して、香穂は口端をあげて笑みを形作る。同時に、手の平に集めていた風の精霊を一気に高魔に向けて放った。
「ふざけたことをっ!」
 高魔は嘲笑を浮かべ、手の平を突き出した。

 "魔"本来の力が放たれ、風の精霊とぶつかり合う。力は相殺され、空中で消えた。

「なにっ!」
 明らかな動揺を見せて、高魔は息を呑む。
 使い人とはいえ、"魔"の力を消せるほどの力などもっていないはずだ。たとえ精霊の力を借りていようとも、所詮は、人間なのだから。力そのものを自ら作り出せることと、それは比較にならない。しかも、高魔の力と同等など ―― 。
 困惑している高魔は、再び精霊の力を感じて咄嗟に空間移動し、その場を避ける。だが、姿を現したその場所に狙いをつけたように力がぶつけられた。
「 ―― っ?!」
「あ、やば」
 わずかに逸れた力の塊は高魔の半身を傷つける。まともにぶつかっていたら、とっくに消滅していたところだった。
「……ぐぅっ!」
 半身を抑えて地面にうずくまる高魔をよそに、香穂は舌打ちしたい衝動を覚えた。今の一瞬で勝負が付いていたはずなのに、それだけの力を放出したにも関わらず、秋の血の匂いを感じ取ってしまって狙いがはずれた。昔の名残りともいうけれど、思惑がはずれるのは最も嫌な気分になる。
「おまえは、」
「恨むなら偶然此処を見つけた自分と、あなたが作り出した妖魔が秋を傷つけたことにして」
 高魔がなにかを言おうとする前に、香穂は苛立ちを感じるまま、力そのものを手の平に集めて放出した。
「この力は、まさかっ――!」
 高魔を取り込んだ力の塊は、眩しい光を放ちながら一気に爆発した。

「しまった!」
 香穂はハッと我に返って、咄嗟に風の精霊に呼びかける。周囲に結界を張り、爆発を抑えようとしたけれど、精霊の力を借りたものでは自ら作り出した力に敵うわけもなく、たちまち巻き込まれてしまった。


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