――― ズゥ……ン!!
唇を重ね合ってる瞬間、二人はなにかぶつかるような激しい音を聞いた。
衝撃で船が揺らぐ。
「セリカ……!!」
クリスは何か落ちてくる気配を感じて、セリカを庇いながらさっと横に逃げた。
ドンッ!!
落ちてきたものを改めて見たクリスは、思わず息を飲んだ。
「氷山だ……」
クリスの呟きに、セリカも驚いてそれを見つめる。
周囲に目を向ければ、船縁すれすれに氷山が立っていた。落ちてきたのは、その一角だ。
「ぶつかったの……?」
「多分ね。今の衝撃はどう考えても……」
呆然としたセリカの問いに、クリスもぼんやりと答える。
(船が氷山にぶつかる ―――― ?)
嫌な予感がクリスの脳裏を横切った。
「でも、大丈夫よね?」
「どうかな……。ともかく、中へ入って船員の話を聞こう」
押し寄せる不安を隠して、二人は船室へと急いだ。
救命具を着て下さい ―――。
一等船室の廊下を急ぎ足で回っている船員が、そう叫んでいた。
うろうろしている船員を一人捕まえて、クリスは状況を訊く。
「いったい、どうなってるんだ?」
船員は最初、言いにくそうに視線を彷徨わせていたが、クリスの顔を見るとやがて意を決したように告げた。
「この船は……もって、2時間です」
もって2時間だって……!?
「急いでボートに乗って下さい!」
船員はそう言うと、また急ぎ足でどこかへ向かった。
周囲では、何が起こったのかまだ状況の飲み込めていない客たちが騒ついている。憤然と船員に文句を言っている者。困惑した表情でうろうろしている者。恐怖に怯えている者 ――― 様々な表情がそこには浮かんでいる。
「セリカ、外にあるボートの様子を見に行こう!」
クリスは、つないだ手を引っ張って、混雑する客の間をすり抜けていく。
外の方では、船員たちが救命ボートを降ろそうと、必死になって掛け声をあげていた。緊張した顔には、切羽詰まったものが見受けられる。
「どういうことだ?」
ふと、クリスが訝しむようにそう呟いた。
「どうしたの?」
「ボートの数が少ないと思わないか?」
セリカはそう言われて、改めて繋がれているボートの数を見る。
確かに、クリスの言うとおり ―――――― その数はざっと数えてみても、20あまり。それも乗れるのは20人ぐらい。だけど、この船の乗客数は1500人はいるはず。なのに ―――。
不吉な予感が脳裏をかすめる。
「そうか、思い出した。確か、この船の設計士が言ってたよ。外観をよく見せるために、ボートの数を極力少なくしたってね。この船が沈むはずないからってな」
あまりにくだらない自慢話しだったんで、すっかり忘れていた。
だが、結果がこれか。船は後2時間で沈む……。
「セリカ、僕は父の様子を見てくる。君はボートに乗るんだ」
振り向いたクリスは、両手を彼女の肩に置いて言った。
「いやよ。私も一緒に行くわ」
「よく聞くんだ。どう見ても、あの船には全員は乗れない。だが、今なら君は乗れる。僕は君だけは絶対に助かって欲しいんだ」
だから、そう続けようとしたが、セリカは首を横に振った。
「私一人だけ助かるのはいやよ。ボートに乗るなら、一緒がいいわ」
「セリカ……」
困ったようにクリスが彼女を見ると、セリカは思い出したように言った。
「それに ―― 、私。メニエを探さないと」
彼女を放っては、行けない。
「クリス。あなたはお父様を。私はメニエを探して、またここで会いましょう」
「でも……っ!」
止めようとしたが、セリカはさっと身を翻して船の中へ戻っていった。
ひとり置いていかれたクリスは、やれやれと苦笑しながら、父の元へ足を向けた。
この時はまだ、誰一人として船が沈むという実感を感じていなかった。
セリカが二等船室の自分の部屋へ戻ったその時には、船が沈みかけてることに気づいた客たちが騒ぎ、混乱していた。
「メニエっ!いるの!?」
ドアを勢いよく開けて、親友の名を呼びながら部屋を見回す。だが、応えは返らなかった。
(どこに行ったのかしら……?)
少し考えて、彼女が船で知り合ったという恋人のことが思い浮かんだ。
(確か、下の階にいるって言ってたわよね……。)
緊張がセリカを包み込んだが、やがて意を決したように手のひらを握りしめると、下の階へ向かって駆け出していた。
ぐらり……。
船が船尾に傾きはじめる。例えようのない恐怖が乗客たちを追いつめはじめていた。
「……父上っ! ミレーヌ!!」
上流階級たちばかりが集められたホールで、二人を見つける。
「おお、クリス。一体、何が起こったというんだ?」
今だ状況の飲み込めていない父は、眉をひそめていた。ミレーヌは不安げな表情で顔色は血の気を失い青褪めている。
「父上、どうか冷静に。船は後2時間足らずで沈みます。速やかにボートに乗って下さい」
落ち着いた口調でそう告げると、流石に少し青ざめた顔になった父は、信じられないといった口調で言う。
「本当なのか!?」
「こんな冗談は言いませんよ。いいですか、乗客たちが混乱をはじめる前に早くミレーヌ嬢とボートに乗って下さい」
さあ、早く。
ホールの外へ誘導するクリスは、不安そうに震えるミレーヌが袖を掴んできたのに気づいた。
「心配ないよ、ミレーヌ」
優しい声で言うと、彼女は少しほっとした顔をする。
すると、何か伝えようとミレーヌは思い切って顔を上げ、クリスと視線を合わせた。
「クリス様。私、本当は……」
だが、ミレーヌはその先を言えなかった。
今にも消えてしまいそうな彼女の声は、別の声に遮られた。
「クリス! そこにいるの、クリスでしょ!?」
驚いたような声が聞こえてきた方向に視線を向けるとクリスは、思わず声を上げた。
「あなたは、セリカの親友の!」
「メニエよ。ねえ、セリカはどこなのっ?」
姿の見当たらない親友に不安を覚えて、彼女は尋ねる。
「セリカは貴方を探しに行ったんです! 会わなかったんですかっ!?」
メニエは首を横に振る。
「私はセリカの歌を聞きたくて、こっちに紛れ込んでたの。私を探しに行ったって……」
ふと、メニエは親友の行動を想像した。
(私が部屋にいなかったら、セリカは……。)
見る見るうちにメニエの顔色が青くなっていくのに、クリスは気づいた。
「どうしたんです?」
「大変! あの子、きっと私が恋人の所にいると思ってるわ。だとしたら、三等船室に向かってるはず。ダメだわ。あそこはすでに混乱してるから船員たちが柵を……!」
最後まで聞かないうちに、クリスは走り出していた。
「お、おい! クリス、待ちなさ……っ」
止めようとしたレイズ氏を引き止めたのは、ミレーヌだった。
「仕方ありません……、おじ様。放っておきましょう」
彼女の意外な言葉にレイズ氏は驚いたが、しかし彼もまた諦めたように肩を落とした。
―――― どこ、どこにいるの!?
半ば混乱しながら、それでもセリカは親友の姿を探していた。
恋人の部屋にも彼女はいなかった。それからずっと、三等船室の部屋を探しているが、やはりどこにも見当たらない。
その間にも、船が船尾の方に傾いていってるのが感じられた。
ピシャ、ピシャと次第に廊下を浸している水の量が増していくのに気づいた。今はもう膝まできている。
「メニエっ、お願いよ! 返事をして!!」
しん、とした廊下にセリカの声だけが響く。
「……っ、……!!」
不意に声が聞こえて振り向くと、こっちに向かって走ってくる人影が見えた。
「クリス!?」
はっきりと顔を確認すると、セリカは驚いたように名前を呼ぶ。
駆け寄ってきたクリスは、彼女のぬくもりを確かめるように、抱き寄せた。
「セリカッ、無事で良かった……」
安堵に息をつくクリスの腕から、セリカは身を捩って少し離れる。クリスの顔を見上げると、切羽詰まったように訴えた。
「私は無事なんだけど、メニエがいないのっ!!」
「メニエとは上で会ったよ。君の歌が聞きたいからって、ホールに紛れ込んでいたらしいんだ。無事だったから、心配ない」
今度はセリカが安心したように、息をついた。途端、太股まであがってきている水の冷たさを感じる。
「セリカ、僕たちも急ごうっ!!」
クリスはセリカの手を取ると、2階へと続く階段に向かう。だが、来た道を戻ろうとしたクリスは、階段のドアが水圧で揺れてるのに気づいた。
このまま階段の所に行くまで、あのドアはもたない。あそこが破られたら、水流に巻き込まれてしまう……。
「クリスっ、確かこっちにも階段があるわ!」
反対側を示すセリカの声に、クリスは急いで踵を返した。
その瞬間、『バンッ!』と激しい音を立てて、ドアが破られた。同時に海水がクリスたちを追い掛けるように、勢いよく迫る。
「こっちだ!」
今にも濁流に巻き込まれようとした瞬間、クリスが脇道に逸れた。
全てを飲み込むような勢いで、海流が突き進んでいく。二人はなんとか流れに抵抗しながら、階段を上っていった。
2階まで上がり終えたセリカは、とりあえず海水から逃げられたことに安堵する。しかし下を見れば、水量が増えてきてるのは一目瞭然。
「セリカ! 急げっ」
セリカの手を引きながら、クリスは船上に上がる階段を探した。
ギィィ ――――― 、
船が水の重さに耐えきれなくなったように、揺らぎはじめる。
廊下を行ったり来たりしている乗客たちが、悲鳴をあげた。混乱する乗客たちにぶつかりながらも、二人は人が集まっている場所にたどり着いた。
「ここを開けろ!」
甲高い叫びがクリスたちの耳に入る。
「どうしたの?」
「どうやら、この先の階段の所で柵がしてあるらしい……」
セリカの問いに、クリスが少し青褪めた顔で答える。
柵を挟んで向こう側にいる船員たちは銃を持って、乗客たちの騒ぎを治めていた。
「ここは、ダメだな。どこか、他に…………」
考え込みながら、セリカの手を引いてその場所から離れていくクリスをよそに、セリカはそこに立ち並んでいる乗客たちをちら、ちらと振り返った。
子供たちを抱きかかえながら、諦めた顔をしている母親、涙を流しながら抱き合う恋人たち。まだ諦めるものかと、怒りをあらわにする男たち。
(なぜ、こんな事になってしまったんだろう……。)
本当なら、今頃は幸せな夢の中へいられたはずなのに ――――。
「……っ? セリカッ!」
名前を呼ばれて我に返ると、クリスが心配そうな表情で見ていた。
「大丈夫か?」
「……え、ええ。なんでもないわ。大丈夫よ」
笑顔を浮かべて頷くと、クリスはまた歩き出す。
どこか、上に行ける場所を探して、二人はとりあえず、もう一つ階段がある方へ向かった。そこにもやはり柵がしてあったが、諦めた後なのか、前に群がる人たちはいなかった。
「……くそっ!」
柵をガシャガシャと動かし、クリスは思わず舌打ちした。
「セリカッ、クリス!」
諦めて戻ろうとしたとき、二人は呼び止められた。
振り返ると柵ごしにセリカの親友、メニエが立っていた。
「メニエ! 良かった、無事だったのね!?」
柵の所まで駆け寄って、セリカは親友との再会に喜ぶ。
それとは反対に、メニエは怒ったような顔で答えた。
「それは、こっちのセリフよ!」
セリカの無事な姿を見て、メニエは知らず涙ぐんだ。
「メニエ、再会は後でゆっくりしてくれ。それよりも、この柵何とかならないか?」
クリスの問い掛けに、メニエは思い出したように手に持っていた鍵を柵の鍵穴に差し込んだ。
「それ、どうしたの?」
「船員の目を盗んで、奪ってきちゃったの」
メニエは軽くウィンクして答えた。
カチャ……っ!
柵が開くと同時に、3人は急いで階段を上がった。
船上はもはや、混乱の渦に巻き込まれていた。
なんとか人混みを切り抜けて、船員たちが救命ボートを降ろしている所まで辿り着く。
「女子供が優先です! 男性は下がってくださいっ!!」
高らかに響く船員たちの声に、セリカはぎゅうっとクリスの手を強く握りしめた。
「セリカ?」
彼女の異変に気づいて、クリスは立ち止まった。
射抜くような強い視線で彼の瞳を見つめながら、セリカは言う。
「私だけ、ボートに乗るのは嫌よ。絶対に離れないから!」
決心したような真剣な表情に、クリスは思わず苦笑を浮かべる。
(初めて自分が心から愛した女性 ――― 。)
自分がこんなにも、一人の女性を真剣に愛せるとは思わなかったが……。
セリカを想う愛しい余韻に浸りながら、クリスは強く彼女を抱き締めた。
「クリス……!」
彼が理解してくれたと思ったセリカは、微笑みを浮かべてその腕に身を任せる。
セリカを強く抱き締めながら、クリスは周囲に視線を向けた。
沈みかける船尾から逃げ惑う人々……、泣き叫ぶ声 ―― 。
一瞬それらを振り切るように目を強くつぶると、クリスはそっとセリカの耳に囁いた。
「セリカ……愛してるよ」
クリスの愛が込められた言葉に、セリカはぬくもりを感じながら応える。
「私もよ、クリス」
二人は深い口づけを交わした。唇が離れた瞬間、
「 ―――っ!?」
セリカは腹部に鈍い痛みを感じた。
「ク…リ……ス……?」
崩れ落ちるセリカを抱き留める。
その頬にもう一度キスをして、クリスはボートに乗っていたミレーヌとメニエに彼女を託した。
「頼むよ、ミレーヌ」
ミレーヌは彼女を受け取りながら、少し困ったような表情を浮かべた。
「心配ないから」
クリスはそう言って、彼女を安心させた。
「彼女のことなら、任せて下さい」
ミレーヌは笑顔で頷いた。メニエも微笑んで「大丈夫よ」と請合う。
「ボートを降ろすぞ ―――――― ! 離れろっ ―――――― !!」
船員たちの掛け声とともに、ボートは海へと降りていく。
その様子をクリスは最後まで見送っていた。
セリカたちの乗ったボートがセルズニック号から離れ、残り2,3隻のボートが船から降りると、セルズニック号はその処女航海に幕を閉じた。
セリカ……愛してるよ ――――。
私もよ、クリス…………。
「……!?」
冷たい風に、目が覚める。
意識を取り戻した彼女に、ミレーヌが気づいた。
「ミス・セリカ?」
「ミ、ミレーヌ!? クリス……クリスはっ!?」
慌ててボートから周囲を見回す。しかし、夜の冷たい風だけが吹き荒み、辺りに船は見当たらなかった。ただボートだけが数隻浮かんでいる。それを見ながら、ミレーヌに訊く。
「クリスは? 違うボートに?」
縋るような視線を向けるセリカに、黙ったままミレーヌは首を横に振った。
「じゃあ……じゃあ!?」
呆然とするセリカは、気づいた。
周囲から聞こえてくる女性たちのむせび泣く声に……。それは愛しい人たちを失った悲痛な叫び ――――。
(まさか……まさか!!)
「いやぁ ―――――――― っ!!!」
夜の闇にセリカの泣き声が響き渡った。