3年後 ―――、
セリカは用意された楽屋で、髪をブラシで梳きながら彼女に話しかけた。
「ほんと、ミレーヌにはなんてお礼を言えばいいのかわからないわ」
微笑む彼女に、ミレーヌは大きくなったお腹を撫でながら答える。
「いいのよ。代わりに、私の旦那様のクラブで歌ってくれるんでしょう?」
「それぐらいしか、できないけどね」
セルズニック号沈没の後、セリカは愛する人を失ったショックに、しばらくは立ち直れなかったが、二人の親友のおかげで、今は世界トップを誇る歌姫と呼ばれるようになった。
メニエも世界の賞を取れるくらいの素晴らしい女優になり、今も世界中を駆け回っていて忙しそうだが時折、近況を書いた手紙をくれる。ミレーヌにいたっては、実に意外なことがわかった。
彼女は以前から交際していた男性がいたらしいが、周囲の反対にあった。だから、一時別れたふりをし、クリスと結婚すると言ってセルズニック号に乗ったらしい。そして、こっちで会って駆け落ちするつもりだった、という。
船が沈んでしまったのを機会に、ミレーヌは親族に見つからないよう早々に彼と結婚してしまった。今は愛する人の子供をその身に宿して、幸せそうな毎日を送っている。
「今日は、セリカ以外にも特別なゲストを呼んでるのよ」
ミレーヌは含むような言い方をすると、席から立ち上がった。
「だれ? まさかメニエ?」
問い掛けるセリカには答えず、「じゃあ、私も向こうの席で聞いてるわね」と答えてから、楽屋を出ていった。
心地良い緊張感がクラブの中を包み込む。
セリカはマイクの前に立つと、軽く頭を下げた。
「今日は私の親友が主催するクラブの開店パーティーにお越し頂き、ありがとうございます。今夜は私、セリカがお客様のために心を込めて歌をお聴かせいたします。どうぞ、おくつろぎ下さい」
そう言うと、明るい音楽が流れはじめた。
……客たちのリクエストも交えて、様々な歌を唄ったセリカは、彼らの満足そうな顔を見渡すと、フィナーレに移った。
「では、皆様。最後はこの歌でお別れしたいと思います……」
そこに招かれた客たちは、セリカの言う最後の歌が何かは知っていた。
セリカが、この世界でトップの歌姫と呼ばれるきっかけになった歌だった。今もたくさんの場所で流されてはいるが、滅多に生で聞くことのできないこの歌を、今日この場で聴けるということを、とても楽しみにしていたのだから。
静まり返った空間の中、セリカの美しく澄みきった声が響きはじめる。
《 あなたに出逢って 初めて知ったわ……
息をすること 自由に生きること
(クリス、私はいつもこの歌を唄うとき、あなたのことを思い出すの)
(初めて出逢ったときの、あなたの優しい微笑み ――― 。)
私にとってまるでこの愛が全てだわ…… 失くしたら生きていけない
(私を素晴らしいといって、興奮した顔……。愛してると言った真剣な顔。)
でも そうね
あなたが傍にいなくても 二人の愛は永遠だから
(あなたがいなくても変わらない想い ――― 。)
あきらめないで きっと 生きていくわ
私たちを引き裂くものがあったとしても
二人の想いは永遠に続いていく ――――――――
それをたどっていけば きっと逢えるから
あなたに出逢って 初めて知ったわ
この愛があれば 私はどこまでも
強く生きていける……》
セリカが歌を唄い終えると、鳴り止まないほどの拍手がわき上がった。
涙を浮かべている者。堪えきれず大泣きしている者。けれど、その表情には優しい微笑みだけが浮かんでいる。
そんな彼らを見る度に、セリカは歌を続けて良かったと心から思った。
「これを受け取ってもらえませんか?」
不意に舞台袖に下がろうとしたセリカに、沢山の赤いバラの花束を抱えた男性が声をかけてきた。
「ええ、喜んで……!」
笑顔を浮かべ頷いて、受け取ろうと両手を伸ばした瞬間、彼の顔を見たセリカは驚きに言葉を失った。
「……ミス、セリカ?」
動きが止まった相手を、彼は悪戯っ子のように目を輝かせて見ていた。
淡い茶色の髪に、黒く澄みきった瞳 ―― クリスにそっくり……。
「もう、僕のことなんて忘れてしまったのかな?」
その言葉に、セリカは我に返った。
「ク……クリス?」
呆然と呟くセリカの瞳からは、透明な雫がこぼれ落ちていた。
答えを聞くよりも先に、それが彼だということを体中で感じていた。ただ、死んでしまったと思っていた彼が、目の前にいることが信じられなくて ――― 。
「本当はもう少し早く、会いに来たかったんだけどね。父上と約束したことを守るまではと思って……。…………ごめん」
なんで ――――― ?
繰り返すように、彼がこの場にいることへの疑問は溢れてきたが、急にクリスの腕の中へ抱き寄せられる。
「……会いたかった」
こめられる想いに、囁かれる言葉に、セリカも彼の背中に腕を回し、何度も頷いた。
「私も、ずっと……ずっと、会いたかった」
伝わるぬくもりから、これが幻じゃないということを確かめる。
……客席からは、やっと巡り会えた恋人たちへの祝福が、暖かい視線と拍手になって送られていた。