月華草 〜 月光 〜


次の瞬間、目を開けた僕は見覚えのある道まで帰ってきていた。

 (ここは僕の家の近くだ……。)

もうあの一面に広がっていたススキは、どこにも見当たらなかった。まして少女の姿も、
影ひとつなかった。

あるのはただ、先に続く小道と伸び続ける雑草だけ。
僕は呆然とする時間を惜しく思い、家に向かって駆け出していた。

全速力で走り続ける。家を飛び出したときと同じように ――――― 祈りながら。

頼むから、死なないでくれ……っ。
僕は妹のことだけを思い、懸命に走った。

道の向こうに少しずつ、家の明かりが見えはじめる。
最後に力を振り絞りダッシュをかけて、息も絶え絶えに玄関のドアを開けた。

先生が不安げな表情で、椅子に座っているのが見える。

 「先生っ……」
 「瑞希君、よかった……」

戻ってきた僕を見て、先生は安心したのかホッ、と安堵の息をついた。

 「瑞穂はっ!?」
 「今は一応、落ちついとるよ。会ってあげるといい。瑞穂ちゃんはずっとおぬしの名前を
 呼んどったんじゃよ」

意気込む僕の肩に先生は軽く手を乗せて、瑞穂の部屋へと僕の背中を押した。
僕は頷き、瑞穂の部屋のドアを開けてゆっくりと中に入った。

 「瑞穂……」

 「…………お兄ちゃん」

僕の呼びかけに、妹が小さく答えた。ベットの側まで行く。
同時に今まで瑞穂の側についていてくれた人たちが、僕らに気遣うようにそっと、
部屋から出て行ってくれた。
パタン、とドアが閉まる。

 「大丈夫か?」
聞きながら、ロウソクの炎に照らし出される妹の顔色に、僕は恐れと不安を感じた。

―――― こんなにも、妹の顔色は白かっただろうか?
雪にも負けない白さ……。
まるで雪のように消えてしまうのではないかと思えるほどに妹がはかなく、もろく見えた。

 「……私ね、夢を見たの」
 「夢……?」
首を傾げる僕に、妹は壊れてしまいそうなくらい弱々しい笑顔を浮かべた。

 「そう……。お兄ちゃんがね、広いススキ野原にいるの」

 (……どっ、どうしてそれをっ!?)

僕がさっきまでススキ野原にいたことを、知るはずのない妹が知っていたことに
僕は驚いていた。

けれど、その先を聞いて安心する。

 「その中でボッー、としているお兄ちゃんの側に、私が笑いながら走っていくの。
 そしたらお兄ちゃんは、ポケットの中から今まで私が見たこともないような、とても綺麗で
 不思議な花を一輪だけ出して、私にくれるの。私がそれを受け取ると、お兄ちゃんは
 家に向かって、走り出すの。

 もちろん、私も追い掛けていったのよ。でも……」

そこで瑞穂は一度、言葉を切った。言いにくそうに僕を見る。
僕は妹の髪を優しく撫でてあげながら、その先を聞いた。

 「でも?」
 「でも、消えちゃうの……。突然いなくなっちゃうのっ……ゴホッ、ゴホゴホッ…」

激しい咳が妹の言葉を奪う。
咳が苦しいからか、夢のせいか、妹の目から涙が流れる。あわてて先生を呼んだ。

 「先生っ、瑞穂が!!」
 「どうした!?」

ドアの外で待機していてくれたのか、先生たちはすぐに部屋の中に駆けつけ、
瑞穂を診てくれた。

 「大丈夫じゃよ。少し興奮しただけみたいだな」
しばらくすると先生は息をついて、安心したように笑顔で僕に言った。
僕は安心しながらも、妹の命が後二日しかない、という現実に引き戻された。

 「……お兄ちゃん…………」

小さな声で呼ぶ妹に、髪をそっと撫でてあげることで答える。
そのとき僕はふと、あのススキ野原で少女がくれた花のことを思い出した。
入れておいたポケットから急いで取り出す。

 「瑞穂が夢の中で見た花ってもしかして、これのことか?」
瑞穂の目の前にそれを差し出すと、驚いたように瞬きをして頷いた。

 「そう……。すごい。どうしたの……、この花」
 「もらったんだ。すごく、可愛い女の子に」
妹はそれを受け取ると、近くで見たり遠くで見たり、信じられないものを見るかのように
見つめていた。

 「……きれい。まるで、お月様を見ているみたい」
弱々しい微笑みを浮かべて、夢を見ているような瞳をしながら瑞穂が言う。

 「どれ、どんな花かな? ぜひ、ワシにも見せてくれ。…………こ、これはっ!!」
覗き込むようにその花を見た先生が、驚きに声を上げた。

 「どうしたんですか、先生?」
問いかける僕に、先生は花を指して逆に聞いてきた。

 「瑞希くん、その花はいったい何処に咲いていたんだね!?」
先生の言葉に、そういえば少女が意味ありげなことを言っていたことも思い出した。

 「ある女の子からもらったんですけど、その娘はこの花を先生に見せれば
 知っているかもしれないって言っていたんです」

 「そうか……」

僕の話を聞いた先生は少しの間、考え込むように黙っていたが、急にぽつりと
言葉をもらした。

 「ひょっとしたら、瑞穂ちゃんは助かるやもしれん」
 「本当ですか!?」
勢いよく聞き返す僕に、先生はなにか確信を得たかのように力強く頷いてくれた。

 「瑞穂ちゃん、ちょっと花を借りるよ」
先生は妹から花を受け取ると、部屋から出て行った。

 (本当に妹は治るんだろうか……?)
不安と疑問だけが、僕の心の中をうめつくしていく。
しばらくして、先生がひとつのスープ皿を持って戻ってきた。

 「……これを、瑞穂ちゃんに飲ませてあげなさい」

手渡されたスープには、あの花についていた金色の輝きを放つ綿帽子のような花びらが、
綺麗に散らばり浮かんでいた。
僕は先生の言葉を信じて、瑞穂の体をそっと起こしてあげてから、そのスープを匙で
すくって飲ませてみた。

 「おいしい……っ!」
瑞穂が感激したように、嬉しそうな笑顔を浮かべる。

今まであまり食べ物を口にしていなかった瑞穂は、そのスープ皿をカラにし、
満足そうな顔をすると眠いと言って、そのまま静かに眠ってしまった。
とてもついさっきまで死と向き合っていたように思えないほど、その様子は幸せそうだった。
それを見ていた先生はホッ、と息をつき僕に言う。

 「もう大丈夫じゃ。おそらくはこのまま、回復にむかっていくはずだからな」

 (回復に向かう……っていうことは妹は……!)
「妹は、治るんですね!?」
先生は優しい笑顔をそえて、首を縦に振った。

ああ ――――― 神様っ!!
 「ありがとうございますっ、先生!」

信じられない奇跡に、僕は嬉しくて先生の両手を握ってすぐにお礼を言った。
すると、先生は静かに首を振る。

 「いや、お礼ならあの花をくれた方に言いなさい」

そこで僕は先生に聞いた。
どうして、たった二日だと言われていた瑞穂の命が、あの花の入ったスープを
飲ませただけで助かったのか。
妹に奇跡をくれたあの花はいったい何だったのか、を。

先生は妹を助手に任せると、僕を部屋から連れだし、台所にあるテーブル椅子に
座らせると、自分もその向かい側の椅子に座った。

 「あの花の名前を知っているかな?」
 「あっ、はい。確か……。月華草って言っていましたけど」

そうだと先生は頷き、知っていることを教えてくれた。

 「月華草はな、ありとあらゆる病を治してくれる花なんじゃ」
先生の言葉を聞いたとき、僕は驚きよりも先に悔しさを感じた。

 「もっと早くそんな花があるって教えてくれていたらよかったのに……っ」
そしたら、どんなことをしてでも僕が摘んできたのに……。
あんな深い絶望を味あわなくてもよかったのにな。
妹もあんなに苦しい目にあわなくてすんだんだ。
そんな思いを読み取るように、先生は笑って言った。

 「ははっ。そんな花がどこかにあり、誰にでも摘めるようだったら、わしら医者は
 必要なかろう?」

そう聞かれて、僕には困った顔しか作れなかった。
僕の困惑する顔をおもしろそうに見つめながら、先生は言う。

 「あの花はな、月の王女にしか育てられない花なんじゃよ」
 「月の王女?」

 「そこには月の城と呼ばれるものがあって、その城に住んでいるのが月の王女でな。
 普段はその城からあまり出ることはないらしいが、時々はそのススキ野原へススキを
 摘むために出掛けると言われてるんじゃ」

先生の話を聞いてるうちに、僕の胸が早鐘のように鳴り出す。

 「その姿は月の光が紡ぎだしたように、とても美しい姿をしておるそうだ。そして、
 その王女の純粋な心が月華草を育てているらしい ――― と、しかし今こんなことを
 知っているのは、わしくらいなもんじゃろ」

そこでふと、先生は気づいたように言った。
 「瑞希くんが会った少女というのはもしかしたら ――――― 」

最後まで言われなくても、先生の言おうとした言葉はわかっていた。

  そうか……。これで全ての謎が解けたような気がする。つじつまが合う。
納得する僕に向かって、先生は最後に一言だけ、微笑みを浮かべて付け足した。

 「月の王女に会えるのは、よほど純粋なものだけなんじゃよ」