11. 月の国
 月の国、城の奥深くで第一王女は格子窓の向こうを見上げていた。
 真っ暗い空。空かどうかさえ、わからないほどの深い闇。昔も同じように闇はあったけれど、光に煌いていた。眩いほどの、光。そのなかにおいて、更に輝く月はまあるく、美しく。いつも見上げるたび、見惚れていた。
『―― お姉さま』
 やわらかく、明るい微笑みをのせて、振り返る。いつも妹の微笑みは周囲を和やかにさせて、心を穏やかにする。
『アレス様との婚約が決まったそうね、おめでとう』
 妹の身体がぎくりと強張るのが目に見えてわかった。
『……お姉さま』
 微笑みは消え、物憂げな表情が浮かぶ。どうしてそんな顔をするのかわからなくて、彼女の頬に触れた。わずかに湿っているように感じるのは、泣いていたから?
 大切な妹が泣いていたと気づいて、胸に鋭い痛みが走った。本来なら、愛する男性と結ばれることに喜んでいいはずなのに。
『シア……』
 呼びかけると、彼女はそっと首を振り、言わないでとささやくように言った。
『アレスのことは好き。愛してるわ。それは未来永劫なにがあっても、変わることのない想いよ。だけど、私は』
 躊躇うように瞳を揺らし、先ほどまでそうしていたように、再び月を見上げる。つられて見上げた今夜の月は、煌く星の光の中、とても寂しげに輝いていた。まるで目の前の王女の悲しみをうつしているよう。
『私は月の国が、お姉さまが大切なの。だから、アレスとの婚約は……』
『だめよっ!』
 自分で思うよりも大きくなった声に、妹は目を瞠る。こんなに大きな声をだしたことは今までなかったかもしれない。頭の片隅でどこか冷静にそう思った。
『シア。自分の幸せを考えなさい。あなたはアレス様と陽の国に行くの』
『けどっ、そんなことをしたら!』
『あなたの幸せが月の国の、そして私の幸せよ。ねぇ、シア。約束して。アレス様のもとに嫁いで、陽の国に行くって』
 こみあげてくる想いがある。
 感情が極まって、頬に熱いものが流れ落ちるのを感じた。ぼやけていく視界の中で、シアの顔もくしゃりと歪む。同時にふわりと抱き締められて、シアの甘く優しい香りが鼻をくすぐる。
『――ありがとう、リア』
 お姉さま、と温かい声が今もなお、耳に残ってる。
 世界はあんなにも優しく、温かなものだったのに。
 私たちは ―― どこで、間違えてしまったんだろう。妹の幸せを願っていた。それはやがて、月の国の幸福にも繋がるものだと信じていた。それなのに、すべては手の中から零れ落ち、大切だった妹も。護るべき国も喪われ ―― ああ。ティアナ様。どうか。お救い下さい。すべてを、すべてだったものを。
 見上げた先の、闇に覆われた空を見ているのは苦しくて、目を閉じる。
「助けて、シア……」
 それだけが唯一、現実のものとして縋れる言葉。たとえ、二度とそれが叶うことのないものだとわかっていても。

 ―― あれが月の城。
 目の前にそびえ立つ、クリスタルで覆われた城を見上げる。あまりの美しさに溜息が零れた。闇の中で荘厳を損なうことなく煌く城は、確かに月の国に相応しいもので、陽の国の解放的な宮殿とは裏腹に、孤立的な威厳を保っていた。まさに、夜空に一つ輝く月のように。
 入り口はふたつあり、ソーマとともに幾人かの兵士達と裏側に回りこんで入り込むことになっていた。彼が言うには、見張りはあまり置いていないらしく、タイミングを見ていけば、なかにいる闇の国の兵士達にも気づかれずにすむ。
 ふと、さっき通ってきた月の国の様子を思い出した。
 家はあるのに、だれひとりとして外に出ている者はいなかった。人がいる気配はするのに、ひっそりと窺うように見ているだけで、静かな気配は絶望を含んでいるように思える。悲しみに包まれた国。兵士のだれかがそうぽつりと零した。月の国王は闇の国との戦いで殺され、王妃もそれに追従した。第二王女も亡くなり、残された第一王女は、城の奥深くに監禁。月は深淵の闇に覆い尽くされ、姿を見せることなく、国のすべてを奪った。月の光の恵みを失った国民達は絶望に沈み、闇の国の者たちに目を付けられることがないよう、家からでることがない。出られないらしい。
 それでも、窓から窺うように見ていたひとたちと目が合ったとき、そこには希望を浮かべた瞳があった。陽の国の助けを期待している。この闇を払ってくれることを望んでいる。それが伝わってきた。
 シア王女の生まれた、愛していた国。確かに懐かしく胸を擽る想いが存在する。
(――この国を護りたい?)
 初めて見る国なのに、胸に湧き上がる想い。陽の国にいたときとは違う、懐かしさが胸の内にゆったりと広がっていた。

「おい、ぼーっとしてる場合じゃねぇぞ。ちゃんとついてこい」
 声をかけられてはっと息を呑む。ソーマの目が警戒するように向けられていた。それに頷いて、大丈夫と声に出す。
 ソーマと兵士達はさっと身軽な動きで城門に佇んでいた闇の国の兵士たちに攻撃を仕掛け、彼らは声を上げる間もなく、地面に叩き伏せられた。安全を確認したソーマに手招きされ、その後に続いて城内に入り込む。
 城の中は慌しさが漂っていた。騒々しい声が離れた場所から聞こえてくる。恐らく、此処とは反対の位置にある正門のあたりでアレスたちが戦っているからだ。この城にいる闇の国の者はほとんどそっちに向かっているらしく、裏側の護りは薄く、ソーマや一緒にいる兵士達が淡々と倒していった。取り囲まれないよう注意しながら、地下に降りて行く。
 進んでいくほどに、心臓が早鐘のように鳴るのを感じる。握り締めている手が汗ばみ、緊張感が高まっていく。
「ヘイキか?」
 先頭で階段を降りるソーマが、前を向いたままそう問いかけてくる。彼の背中を見ながら、聞き返した。
「なにが?」
「なんか、月の国に入ったときからそうだけど、ますます不安そうな顔つきになるからさ。戦闘になるからってのとはちょい違う感じだろ」
 鋭い観察眼に、目を瞠る。
 闇の者たちを警戒しながら、私の変化に気づくなんて ―― 。
 くすぐったい、不思議な想いを感じながら、月の国を通ってきたときに抱いた疑問を口にする。
「リア王女を救って、この城から闇の者たちを追い出せば、月の国は元通りになる?」
 長い階段を慎重に降りながら、ソーマは首を振った。
「いや、この国から完全に闇を払うには、やっぱり伝承が必要なんだ」
 伝承に隠された呪詞。
 結局思い出せなかったけれど、リア王女ならわかるかもしれない。それが恐らく最後の頼みの綱かも。わからなかったら、闇が払えずに、月の国の住人は家の中から一歩も出られなくなる。最終的には、世界のバランスの崩壊 ―― 。
 だけど、自我を失っている、とソーマが言った言葉を思い出す。愛する妹王女を自らの手で殺めて、狂気に陥った、と。
 いくら前世でそうであったとしても、あのシア王女とは似ても似つかない今の私を見て、リア王女がわかるはずない。そうなると自分が此処にいる理由がわからずに、不安が募っていく。伝承だけでもリア王女から聞けるといいんだけど……。
 溜息が零れ出た瞬間、周囲の空気が一気に張り詰めたものに変化した。足を止めたソーマは振り向き、鋭い視線を私の後ろに注ぐ。
「……っ、ソーマ! 敵が来たぜっ!」
 兵士の声に振り向くと、階段上に幾人かの闇の者たちが剣を振りかざし、立ち向かってくるのが見えた。正門から入り込んだアレスたちに押されて戻ってきた者たちに気づかれたらしい。
「第一王女はここを降りて、まっすぐ突き進んだ牢のなかだ。先に行ってろっ!」
「ソーマ?!」
「いいから、おまえは行けっ」
 ソーマも自らの大剣を背中から抜き取り、構える。さっさとしろ、と強く促がされて、戸惑いながらも頷いて、ソーマを追い越し階段を降りた。そのまま進もうとして、足を止める。
「気をつけてね!」
「それは俺の台詞だっつーの!」
 ソーマは振り向いて、にやりと笑う。
「ま、だれひとりおまえのところには、行かせないけどな」
 切羽詰ったこの状況でも余裕のある態度はソーマらしくて、苦笑が零れる。さっきまで感じていた不安は小さくなって、彼が示した方向に駆け出した。
 階段を降りきって右に曲がると、ソーマの言ったとおり、廊下はまっすぐ一本道になっていた。後ろからは剣を激しくぶつけ合う金属音が聞こえてきて、その音に急かされるようにひたすら走り続けていると、目の前に、黒塗りの重厚な扉が見えてきた。
(ソーマは牢って言ってなかったっけ?)
 牢屋というと、鉄格子の犯罪者が入れられているものを想像していただけに、見えた扉に疑問を感じた。側まで駆け寄り、扉を眺める。鍵がかかってたらどうしようと思いつつ、取っ手に手をかけ恐る恐る押し開けると、ゆっくりと開いていった。
「……開いちゃった」
 あんまりにも容易く開いたことに戸惑いながら、なかを覗き込む。
 部屋の中はあかりひとつない暗闇で、何も見えなかった。
「リア王女?」
 とりあえず外から声をかけるものの、返事はない。どうすればいいのかわからずに、だけど立ち止まっている間に、闇の国のひとに見つかるのも怖くて、おもいきって部屋の中に足を踏み入れた。
 視界が暗闇に慣れなくて、周囲に目を凝らす。
(なにか灯りになるようなの、持ってくればよかった……。)
 それでも次第に目は慣れていき ―― 驚いた。
 部屋の中に黒い格子がかけられていて、丁度半分に区切られていた。向こう側にはベッドと小さなテーブル、椅子が見える。その椅子に座っている女性がいた。
「……リア王女」
 夢の中で見た、シア王女の姉。
 その姿を見た瞬間、胸の奥で熱いなにかがこみ上げてくるのを確かに感じていた。


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