13. 記憶の在処
 光が消え、ゆっくり目を開けると、リア王女との間を遮っていた格子がすっかり消え去っていた。
「……シア」
 リア王女の翠の瞳が向けられていることに気づいて、目を合わせる。虚ろでもなく、まして狂気もない純粋に煌いてる瞳にほっと胸を撫で下ろした。途端、リア王女に抱きつかれる。
「ごめんなさいっ!本当に、ごめんなさいっ!」
 縋るように抱き締められて、繰り返し謝罪をするリア王女の背中をそっと優しく叩いた。
「 ―― もういいの」
「私が刺したのは事実よ!」
「いいのよ、リア。苦しまないで」
 そう告げると、何かに気づいたように、リア王女は身体を離して、じっと見つめてきた。
「……シア、姿が違うわ」
 今初めて気づいた、という顔で呆然と呟くリア王女に苦笑する。
(狂気の狭間で、リア王女には私がシアそのものに見えていたのかな?)
 疑問を覚えながら、どう説明しようか迷っていると、扉が開く音が聞こえた。
「おい、シア! 大丈夫かっ?!」
「シアっ!!」
 駆け込んできたのは、ソーマ ――、そして、アレスだった。ふたりとも血に汚れ、剣を握り締めて、切羽詰った表情を浮かべている。
 心配してくれたことが伝わってきて、嬉しくなった。安心させるために微笑んで見せる。
「大丈夫。この通り、リア王女も無事よ」
 びくりと、リア王女の身体が強張ったことに気づいて、視線を向ける。怯えたような表情を浮かべて、アレスを見ていた。彼女が何を考えているのか察して、腕を掴んで目を合わせる。
「リア、大丈夫よ。アレスはあなたを助けにきたの。心配しないで」
「でもっ、私は ―― 」
 シア ヲ コロシタ。
 言葉にならないリア王女の想いが伝わってきて、苦しくなる。
 思わずアレスを見ると、いつもは優しく明るいブルーの瞳は複雑に揺れ、苦しみを押し殺すような、戸惑った表情が浮かんでいることに気づいた。陽の国にいたとき、彼がリア王女の話をしなかったことを思えば、わだかまりがあるのは確かで、どう言葉をかけていいのか困惑していると、ソーマが割り込むように声をかけてくる。
「闇の国の奴らは追っ払ったから、ともかく無事なら上に行こうぜ」
「あ、ああ。そうだね。シア……リア王女、行こう」
 ソーマに同意して、アレスが微笑んで言う。その微笑みも、今まで見てきたものとは違って、微かに強張っていた。


 城の中を歩けば、戦乱の傷跡は残っていて、血の生々しい臭いが漂っていた。忙しなく陽の国の兵士たちが動き回っている。
「闇の国の兵士が少なかったから、これでも、戦闘は最小限に留めたんだよ」
 見回していると、アレスが溜息混じりに言った。戦うしかなかったことがアレスを深く傷つけていることが伝わってくる。戦いは何も生み出さない。悲しみと深い傷を誰もに残すだけだと、陽の国にいるときに何度かアレスの口から聞いたことがあった。
 ほとんどソーマに守られていたし、できる限り目の前で殺すところを見せないように気をつけていてくれたのか、実際に私はその場面を見ていないけれど、この戦いが終わったあとを見ただけでも、胸が苦しくなる。
(どうして平和だった月の国を、そうして陽の国を攻めようとするの……?)
 闇の国の思惑がわからない。
 この世界では三つの国のバランスが損なわれると崩壊してしまうから、領地を奪うためとか支配したいからとかじゃないはず。
 国を。――そこに住む人々を傷つけてまで欲しいもの。
 考え込んでいると、不意に袖を引かれた。
「リア?」
 視線を向けると、リア王女の顔にはまだ怯えが浮かんでいることに気づいた。
「…………闇の、王は?」
 恐る恐る問いかけられて、困惑する。代わりに応じたのは、隣に並んで歩いていたソーマだった。
「闇の国の王は自国にいるぜ。月の国を奪還しにきたときも、特に動く様子はなかったみたいだな」
「そうなの?」
 今度は私が驚いて訊く。
 ソーマは頭の後ろで手を組み、呑気な様子で歩きながら頷いた。
「そーなんだよなぁ。ほんと、わからないぜ。容易く月の国を渡すなら、どうして攻めたりしたのか」
「本当ね……。本当に、なんで」
「シア……?」
 再び、袖を引かれてリアを見ると、今度は怪訝そうに見つめられていた。その翠の瞳には探るような光があって、戸惑う。その理由を訊こうとして、先を歩いていたアレスが声をかけてきた。
「ここが城の広間だよ。とりあえず、入って」
 扉を開けたアレスに促がされて、室内に足を踏み入れる。

 目を奪われたのは、一面に映し出された大きな丸い月。近くに見えるのに、室内には眩しすぎることもなく、その光がやわらかく入り込んでいる。思わず窓に駆け寄って、硝子越しの月に見惚れてしまった。

「月の国と呼ばれる所以よ。城を守るように月の光が包んでいるの。闇の王が支配していたときには姿を隠していたのに……解放されたのね」
 隣に立ったリア王女は、それを噛み締めるように口にして、同じように月に視線を向ける。
「城の中からだけ、こんなふうに月が近く映るの。外に出ると、変わらず空に浮かんでいるわ」
「……不思議ね」
 こんなに身近に月を見る機会がなくて目を離せずに眺めていると、リア王女が溜息を零したのを聞き取る。
「やっぱり……、シアが生き返ったわけじゃないのね」
 確信をもって呟かれた言葉に驚いて、リア王女を見る。悲しげに目を伏せている姿に、胸が痛んだ。
「彼女は生まれ変わりなんだよ。シアの魂を持ってるんだ」
 優しい口調で間に入ってきたのは、アレスだった。振り向くと、アレスの青い瞳が愛おしさを隠すことなく見つめてきていることに気づいて、小さく息を呑んだ。頬が熱くなるのがわかる。その目を見つめ返すことができずに、視線を逸らすと、リア王女が戸惑うように口を開いた。
「記憶は……っ、じゃあ、記憶はないの?!」
「時々、過去のことが浮かんではくるんだけど、全部は ――」
 リア王女にこの世界に来た経緯を説明する。この世界のバランスを取り戻すために、月の国の伝承が必要なことも伝えると、彼女の顔は見る見るうちに青褪め、絶望するように呻いた。
「だめなのよ……。私だけでは、伝承を教えることはできないわ」
「どういうこと?」
「伝承を半分ずつに分けて伝えられたのよ。私が即位するときに、互いに口伝し合って、完成するの」
 それって、つまり ――。
「シアの記憶がないと、ムリってことじゃねぇか!」
 ソーマが叫んで、アレスも愕然とした表情で顔を手で覆った。
 ―― どうしよう。
 リア王女を救い出せば、それでいいんだって思ってたのに。
 問題が最初に戻ってしまって、頭が痛くなった。

「とりあえず、今日は休もう。シアもリア王女も疲れているだろうから」
 気を取り直したアレスが沈鬱とした空気を振り払うように、優しい口調で言った。それに同意して、ソーマも再び広間の出入り口である扉に向かう。
「ああ、そうだな。俺もそろそろ獣型に戻る時間だし」
「……シア、部屋まで案内するわ」
 リア王女に言われて、頷く。
 彼女について行きながら、ふと扉のところで振り向くと、アレスが物思うように、窓から見える月を眺めているのが見えた。その背中が悲しみに沈んでいるように思えて、胸に鋭い痛みが走る。
「シア?」
 促がされるように名前を呼ばれて、慌てて廊下にいるリア王女の後に続く。こみあげてくるもどかしさを感じて溜息をつくと、先を歩くリア王女が苦笑する声が聞こえてきた。
「……アレス王子は変わらないのね」
「アレスが?」
「ええ。いつだって、人を気遣って。シアが言ってたの。それはアレスの長所だけど、自分を押し殺してばかりいるから心配ってね。それでも、シアといるときは彼女が心の支えになっていたみたいだけど」

 ――――あんたはたったひとつの我侭なんだ。
 ふと、ソーマの言葉が浮かんだ。
 もしかしたら想像していたよりもずっと、アレスが我侭なことをするというのは稀少なことだったのかもしれない。それが自分の存在なのだと思うと、胸が熱くなった。だけど。彼が求めているのは、あくまで前世のシアであって、私自身じゃない。その想いが、アレスに距離を置かせてしまう。
「記憶があれば、違うのかな……」
 夢で見たり、ふとしたときに思い出したりするようなものじゃなく、ちゃんとした前世の記憶があれば、シアとしてもっとアレスに近づけるかもしれないのに。
「此処がシアの部屋よ」
 立ち止まったリア王女に気づいて、足を止める。アレスの部屋の扉に陽の国の紋章が描かれてあったように、リア王女が佇む部屋の扉には月の国の紋章が描かれていた。但し、満月の半分だけ。きっと、もう半分はリア王女の部屋の扉にあるはず。
 扉を開いて彼女が部屋に入る後に続いた。窓には広間と同じように、月が見える。天蓋のある大きなベッド、一面には天井まで本棚があって、ぎっしりと本が並んでいた。やわらかな光に照らされた広々とした部屋に、懐かしさを覚える。
  見たことなんて一度もないのに、どこに何が置いてあるかが手に取るようにわかる。黒檀でできている机の引き出しの中身や、タンスに片付けられている服の数々。勿論、本棚の本にどんなものが並んでいるのかも。それは不思議な感覚で、部屋の中を見回していると、じっと私を見つめていたらしいリア王女と目が合った。
「どうかしたの?」
 何か言いたげな顔をしていることに気づいて促がすと、リア王女は躊躇いがちに切り出してきた。
「記憶を取り戻したいの……?」
 思いがけない問いかけに、彼女の顔を見つめ返す。リア王女の美しい顔には不安が滲んでいて、翠の瞳には苦しげな光が宿っていた。
「それって……」
「……記憶を取り戻す方法はあるわ。月の国に伝わるやり方があるの」
 告げられた言葉に驚きながらも、疑問が浮かぶ。
「どうしてアレスたちがいるときに言わなかったの?」
 それを聞けば、きっとアレスやソーマは喜んだはず ――。
 二人になってそう口にするリア王女の意図がわからずに問いかけると、彼女はゆっくりと歩み寄ってきて、手を伸ばし頬に触れてきた。
「あの場で教えたら、あなたはそれを望むしかなくなるでしょう。月の国の王女としては、私も記憶を取り戻して欲しいと思うけれど、シアは――今のシアにはよく考えてから答えて欲しくて」
 触れるリア王女の手の平から優しい温もりが伝わってくる。それを感じながら、リア王女の言葉を考える。
 前世の記憶を取り戻したいかと言われたら、確かに迷いが生じる。夢で見たり、時々思い出すときも感覚の全てがシアのものになってしまう。詩亜としての自分が記憶に飲み込まれそうになる。それしかこの世界を救う方法がないとわかっていても、怖い。
 その気持ちを察したのか、リア王女は慰めるように微笑みを浮かべた。
「時間をあげるわ。よく考えて、返事をくれる?」
「 ―― もし、もしも。思い出したくないって言ったら?」
 理性的に考えるなら、記憶を取り戻すべきなのはわかる。だけど、そう答えるには不安が胸の中で渦巻いている。
「記憶を取り戻す方法なんてなかったことにするわ」
 悪戯っぽく笑って答えるリア王女に思わず声を上げた。
「そんなこと!」
「それが私にできる、シアへのせめてもの罪滅ぼしだと思うの」
 寂しげに告げられた言葉は胸に突き刺さる。
 私がなにか言う前に、リア王女は触れていた手を下ろし、踵を返した。
「私も少し休むわ。後でまた来るから、そのときにどうするか教えてね」
 そう言って部屋を出て行く後ろ姿に声をかけることもできず、見送るしかなかった。


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