12. 再会
 闇の中でもきれいな白銀の髪の煌きは損なわれることなく、夢に見たときよりも伸びているようで、地面すれすれまであった。明るく強い光を湛えていた翠の瞳は、色が濁り、目の前のものさえ映し出している様子がない。
 ごくりと唾を飲み込む音が部屋の中にやけに響いたような気がした。
「…………リア王女?」
 思い切って問いかけるものの、反応はなくて、足を踏み出して格子に近づく。格子を握って、もう一度名前を呼んだ。
「リア王女でしょ?」
 ふと、彼女の艶やかな唇が開く。
「 ――― 助けて」
 か細い声が、静まり返った部屋の中で頼りなく消えていった。
 だけどそれは間違いなく詩亜がこの世界に来る前から何度も聞いてきた声。言葉。胸を震わせるそれに、涙がこみあげてくるのを感じた。
「待って、今助けるから!」
 溢れてくる感情を吐き出すように力強く言って、握っている格子を揺らす。けれど、がしゃがしゃと鳴るばかりではずれる気配はない。全体を見ても、扉になっているわけでもなく、鍵さえついていなかった。彼女を閉じ込めることのみが目的の格子だと理解して、冷たいものが背筋を走り抜ける。
 どうやって格子をはずそうか迷っている間に、再びリア王女の声が聞こえてきた。
「助けて、―― お願い、助けて」
「わかってる。今 ―― 」
 だしてあげるから、と言おうと顔を向けて、ハッと息を呑んだ。
 ゆらり、と立ち上がったリア王女が近づいてくる。だけどその足つきは覚束なく、まるで夢遊病にでもかかっているみたいにふらふらしていた。顔は確かに私に向いているのに、助けて、と言葉を紡ぐのに、瞳に意思がこもっているようには見えない。ふと、ソーマの言葉が脳裏に浮かんだ。

『わからない。連れ出そうとしたら、全力で拒まれた。自我を失った女の狂気に流石の俺も、力ずくってのは、な』

 狂気、という言葉が鋭く胸に突き刺さった。
 目の前にいるリア王女の様子はそれがぴったり当て嵌まる。何も映し出さない瞳をまっすぐ向けられていることに身体が凍りつき、動かなくなる。
「助けて、助けて……お願い、助けて」
 その声には何の感情もこもっておらず、ただ、繰り返される。だけどそこに押し殺された悲しみと苦しみを感じ取って、胸が痛む。頬を熱いものが流れていくのに気づいた。ぽたり、と格子を握り締める手に落ちていく。
 心の中でなにかが、詩亜の意思とは違うものが訴えてきていた。抑えきれず、言葉になって、溢れ出す。

「 ――― っ、リアお姉さま」

 びくり。
 リア王女の身体が小さく震えた。
「お姉さまっ。お願い! 私を見てっ! 私を ―― シアを見てっ!」
 勝手に口をついて言葉が出てくる。
 格子を握り締めている手に力がこもり、祈るようにリア王女を見つめた。気持ちが通じますように。そう思って必死に訴えていると、やがてリア王女の瞳が揺らぎ始める。それに気づいて期待が浮かんだ。再び、彼女の名前を呼びかける。
「お姉さま、リア=セティム=ムーン!」

 ―― お願い、目覚めて!

 気持ちを込めて呼びかけた声が届いたかのように、リア王女の瞳に光が戻る。詩亜の姿が映し出されていく。
「…………あっ、あぁ」
 まるで何かを求めるように、手を伸ばしながらリア王女は近寄り、格子を掴んでいる私の手をぎゅっと握る。優しい温もりに包み込まれて、懐かしさが胸を満たしていく。リア王女の手を握り返した。
「シア……シア?」
 確かめるように、リア王女が問いかけてくる。
 あんなにアレスの前では否定していたのに、そう訊かれて自然と ―― 自分でも無意識に頷いていた。
「そうよ。お姉さま、私よ。助けにきたの!」
「……ほんとうに、シア?」
 恐る恐る呼びかけられた声は、とても助けにきたことを喜ばれているものじゃなかった。怯えるように表情が歪む。
「リア、」

「いやあぁぁぁぁぁぁぁ ――― っ!」

 次の瞬間、耳をつんざく悲鳴が部屋中に響き渡った。

(なんて声……っ!)
 思わず両耳を塞いで後退さる。
 格子を掴んで、絶望に打ち震え絶叫する姿は、とても夢で見たあの威厳ある王女のものとは思えない。
 ソーマが言っていた意味を理解し、それでもここまで来て逃げるわけにもいかないと思った。
「リアっ、落ち着いて!」
「いやぁっ、いやよっ、いやぁっ!」
「お願いっ、リア!」
 これじゃあ、埒が明かない。
 どんなに名前を呼んでも、首を激しく振りながら拒絶される。
(どうすればいいの ―― ?!)
 目の前の格子も、狂ったように叫び続けるリア王女もどうすることもできなくて、焦りだけが募っていく。

 なにもできない。
 その事実に打ちのめされる。
 伝承も思い出せないし、アレスの望むようにシアにもなれない。助けを求めている、少なくとも前世では双子の姉だった女性を助けることもできない。

「……も、やだ」
 思わず、絶望の言葉が滑り落ちる。
 ここまでは前向きに思ってきたけれど、どうして自覚がないのにこんなところまで連れてこられなきゃいけなかったの……?
 本当は別の人がシアで、人違いじゃないの……?
 弱音が堰を切ったように溢れ出してくる。
「私だって、帰りたい……」
 帰りたいよ――。
 そう望んだ瞬間、不意に胸元のペンダントが熱くなった。
「っ!」
 はっとしてペンダントを見下ろすと、黒々とした光を放っていることに気づく。
 その一瞬、頭の中に声が聞こえてきた。
 疑う時間もなく、急いでペンダントをはずして、手を伸ばす。格子の隙間から絶望に蹲っているリア王女の手を無理矢理取って、その手の平にペンダントを握らせた。
 狂気に陥っていた様子のリア王女がはっと驚いたように息を呑み、手を開く。
 黙って見守っていると、彼女の瞳に光が戻ってくるのが見えた。
「…………これ、シアの……」
 呟いた後、その視線が私へと向けられる。呆然としたその様子に、私はもう一度手を伸ばして、リア王女の手ごとそのペンダントを握らせた。
「“お姉さまが助けを必要とするときには、私は必ず、ここに ―― この、月の国に戻ってくる”―― そう、約束したでしょ?」
 夢の中で、シアが告げた約束。
 その言葉を口にすると、リア王女の翠色に染まる瞳がたちまち潤み、涙が溢れ出してきた。リア王女の手ごとペンダントを握っている私の手にもう片方の手を重ねて力を込めると、俯きぎゅっと目を閉じた。
 ぽつり。リア王女の頬を伝って、涙が零れ落ちる。
「……リア?」
「あなたを殺した私を助けに、ここまできたというの?」
 絶望の滲む声色に、リア王女の顔をじっと見る。だけど、その瞳は開かれることなく、触れ合う手から微かに震えているのが伝わってきた。リア王女は狂気からは意識が戻ったけれど、今だ捕らわれている。返事によっては、再び狂気に陥るかもしれないと思った。
 シアだったら、本当の、シアならなんて答えるだろう。
 自分の心を探るように、リア王女と同じように目を閉じる。アレスの部屋にあった肖像画。夢で見た、シアの姿。言葉。流れ込んできた、想い。それらが一気に脳裏に溢れ出てくる。途端、胸がほわりと温かくなっていくのを感じた。
 ああ、そうだ。きっと、シアなら ―― 。
「 ―― “信じてる”」
 目を開ける。
 リア王女は瞼を開け、驚いたように私を見た。それをまっすぐ見つめ返しながらもう一度告げる。 
「私は、お姉さまを信じてる。私の愛する……月の国、第一王女、リア=セティム=ムーンを信じてる!」
 私の言葉に反応するかのように、ふたりで握っているペンダントから光が溢れ出してきた。
「 ――――っ!」
 その眩しさに、思わず目を瞑る。
 目を閉じても入り込んでくる光に、胸が温かく満たされていくような気がした。




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