17. 狭間
 ……っ、…ア、シアっ!
 名前を呼ぶ声と身体を揺らされる感覚に、意識が浮上していく。瞼を持ち上げて最初に見たのはきれいな青い瞳。陽の国で見上げたときあった、澄んでいた空の色そのもので、吸い込まれそうな気分になる。
 目を開けた詩亜に彼はほっと胸を撫で下ろす。
 意識がはっきりするほどに、アレスに上半身を抱きかかえられていることに気づいて声を上げた。慌てて起き上がろうとすると、ぎゅっと抱き締められる。
 その腕の強さに、息を呑む。
「よかった、無事で……」
 耳元で囁かれた言葉にはアレスの想いが詰まっていて、胸を熱くしてしまう。
(もしかして――。)
 シア王女が倒れたときと重ねてしまったのかもしれない。
 そんな想いが浮かび上がるとちくりとした痛みが胸に走り、悲しみがにじみ出てくる。アレスの言葉も、伝わってくる体温もすべてシア王女に向けられるもので、詩亜へのものじゃない。それはわかっているし、同時に詩亜自身も、彼の言動に対する感情の揺れが自分のものなのか、それともシア王女の記憶のせいなのか混乱してる。

「ア、アレス、あのっ、ここどこ?!」
 抱き締められたままになっているのは居心地が悪くて、慌てて彼の胸を押し、その腕から抜け出す。
 アレスは苦笑して、立ちあがり周囲を見回した。私も同じように立ち上がる。同じように見回した所で、真っ白な空間だとしかわからない。天井も、左右もただ、白くて。他には何も見つけられない。そう気づいて、ハタと思い出す。
「そうだっ、ソーマは?!」
 彼も一緒だったはずなのに。
 姿が見えないことに焦りを覚えるのに、アレスは慌てるどころか冷静に状況を分析していく。
「心配ないよ、彼は世界渡りだからね。恐らく――ここは、僕たちは空間の狭間にきたんだと思う」
「どうして?」
 疑問を口にすると、アレスは一息ついて、周囲に向けていた視線を私に注ぐ。
 青い目は優しい光に満ちていて、逸らせなくなる。
「僕たちの世界に存在する各国の隙間のようなものかな。そこを境界として世界を護る結界を作っていたんだ。本来なら入り込めないはずなんだけど、月と闇の結界が壊れたから入ることができたんだよ。ここに来た理由は、その指輪に連れてこられたらしい、としか今は判断できないね」
 肩をすくめながら言われた言葉に、指に嵌めている指輪を見る。さっき眩しいほどの光を放出した指輪はすっかり元に戻っている。琥珀の石はなにもなかったように台座におさまっていて、そっと反対の手で触れても冷たい感触を返すだけ。
 私が指輪に触れていると、不意に大きな手が重ねられた。剣を握っているからその手のひらはかたいはずなのに、指先や手の甲はとてもきれいで見惚れそうになる。伝わってくるぬくもりにハッと我に返って慌てて言う。
「あっ、指輪っ、返す、返さなきゃ!」
 嵌めている指輪を抜こうとして、ただ重ねられていた手が強く握りこまれる。見上げると、彼の青い目が間近にあることに気づいて息を呑む。
「いいよ、返さなくて」
「でもっ!」
「君に持っていてほしい」
 私の反論を押さえ込むような強い口調。
 真剣に見つめてくる瞳からはアレスの想いが伝わってくる。本来なら嬉しいはずの言葉、想い。それなのに、胸がぎゅっと痛んで苦しくなって、ただ、途方に暮れてしまう。素直に受け止めることができればいいのに。彼の想いを、言葉を信じて。
 ――だけど、瞼の裏に焼きついている、シア王女の姿が消えない。
「シア?」
 急に黙り込んだ私を気遣うようにアレスが呼ぶ。
「……あなたが」
 言っちゃいけない言葉を口にしようとしている。
 頭の中の冷静な部分はそう理解しているのに、悲鳴をあげ続けていた心がこれ以上は耐えられない、と訴えている。その感情に堪えきれずに気がついたら叫んでた。
「あなたが愛してるのは私じゃない! 過去の幻影っ、シア王女よ!」
 驚いたように目を見開いて、アレスの身体が強張ったように動きを止める。
 その姿を見た途端、口を手のひらで隠す。
 自分が口にした言葉はまるで――。自分でも信じられずに、一気に羞恥心がこみ上げてくる。同時に彼が傷ついたように物憂げな表情を一瞬浮かべたのを見て、ずきりと罪悪感に苛まれる。
 それ以上、彼を見ていることが怖くなって、何かを言われる前に背中を向けて走り出していた。


 ひとり残されたアレスは走り去っていく詩亜の背中を呆然と、見つめていた。
 身体が動かない。心が追いかけようとしても、足が反応しなかった。まるで地面に縫い固められてしまったかのように。
 どうすることもできずに、手持ち無沙汰になって髪をかきあげる。ふと、泣きたい衝動に駆られた。
 どちらが、と。決められる問題だろうか。
 シアの記憶を持った、彼女。月の化身ともいうようなシアの姿とはまったく違う彼女に重ねようとしてもそれはできなかったのに、それでも求めてしまっていた。さっきまっすぐに感情をぶつけられて初めて、自覚もできずにいたことに気づいた。今までは自身に彼女とシアが別人だと言い聞かせていただけで無意識の行動は重ねていて――彼女がシアとは違うとどんなに訴えても受け入れなかった。少しでも、と押しつけて、優しく強い心で受け入れようとしてくれた彼女に甘えていた。
 月の伝承を口実にただ、もう一度シアに会いたいと想った。その願いだけだったのに、徐々に欲がでてしまっていたのかもしれない。
 もう一度、彼女に愛されたい――ふたり過ごしたときのように愛し愛されていた時間を取り戻したいと。
 シアはもう、どこにもいないのに。
 彼女が垣間見るシアの記憶と、同じような心の強さや優しさを重ねて、もしかしたらと思った。だから僕自身を見る彼女と、シアを重ねている僕はどこかですれ違ってしまってばかりで、ここにきてそれは決定的になってしまったようで。

「……お、こんなトコにいたのか!」
 ふと、明るい声が空間に響き、一瞬後には目の前に狼と化しているソーマが姿を現した。空間から飛び出してきた彼は軽い動作で地面に降り立った。きょろきょろと周囲を見回す。
「おまえひとりか? シアも一緒だと思ったんだが……」
「さっきまで確かに一緒だったんだけどね」
 肩をすくめて応じる。気まずさを含んだ物言いに気づいたのか、呆れた顔で見上げてくる。顔と言うより、金色の目が何をしたんだ、と雄弁に問いかけてきていた。責めるような光がないことが唯一の救いとはいえ、彼の視線に耐え切れずに逸らしてしまう。
「アレス……」
「わからないんだ。彼女がシアじゃないと言い聞かせようとしても、彼女の強さが、優しさがシアと重なるんだよ。彼女の言うとおり、違う人間だと思おうとしても、似ているところを突きつけられてしまう。どうすればいいのか、わからないんだ」
 途方に暮れてつぶやく。
「……おまえは世界のバランスを取り戻すためによくやってると思うぜ」
 その口調には続きがありそうで、黙って先を促す。だけど、とソーマは彼女が走り去っていった方角に視線を向けた。狼の嗅覚か世界渡りの能力かわからないけれど、彼女の匂いの残り香があるのかもしれない。
「シアのことになると、すべてが受け身に回っちまってるように見えるんだ。あいつ自身のことを知ろうとはしてないだろ。似ているところを突きつけられるっていうよりも、重なるところしか見ようとしてないんだ」
 ハッと思わず息を呑む。
 ――確かにその通りかもしれない。彼女自身の性格を知ろうとはしなかった。ただ彼女が見せる強さや優しさを似ていると重ねるだけで。シアとは違うところを無意識に見ないフリをしていた。それがわかっていたから、彼女はこれまで感情をぶつけてはくれなかった。
 ようやく気づいた事実にズキリと胸が痛む。
 今また、違う場所で彼女は傷つき泣いているはず。
「ソーマ……」
 しょうがないな、というように目を瞬かせ、ソーマが尻尾を振る。
「追いかけるんだろ?」
 自分の中で、まだシアへの想いと彼女への想いが同じなのかの答えも出ていない。それでも、彼女が再び感情を押し込めてしまう前に、受け止めたい。シアが持っていたものとは違う弱さや感情を知りたい。

 ソーマの言葉に頷いて、走り出した彼の後に続いた。


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