16. 誘惑
 ――――本気で、言ってるの?
 つかまれた腕を拒絶を込めて振り払う。パンッと乾いた音がその場に鳴り響いた。
 自分でも思いがけないほど零れた言葉は冷たさを含んだものになった。

『もちろん。陽の国の王子と結婚するなら、我は月の国を滅ぼす。どんな手を使っても』
 細められた闇の瞳はどんな感情も浮かんでいないのに、射竦められて言葉を失う。どうして、そんなことになるのかわからない。首を振りながら、言う。
『月の国が滅べばやがて、闇の国も滅ぶわ』
『陽の国も滅ぶな』
 可笑しそうに嗤う闇の王の口調はそれがたいしたことではないような言い方で、だからこそ本気だと気づき、胸が騒いだ。信じられない想いで見つめ返していると、自嘲するようにふっと瞳が陰りを帯びる。
『言っただろう。この世界が滅んだところで、我はかまわない。自ら滅ぼすというのも、――我らしいかもしれん』
 寂しげに呟かれた声は、言葉の衝撃に揺れるシアには届かなかった。
『……国が、……世界が滅んでもかまわないですって?』
 そんなことは許されない。
 月や陽の国だけじゃない。闇の国にだって、生きている人がいる。大切な者と寄り添い、守るために働いているひとがいるというのに――。
 滅んでもいいなんて、上に立つ者が口にしていい言葉じゃない。
『そんなこと! 簡単に言わないで!』
 膨れ上がった怒りが爆発する。睨みつけるように見上げれば、闇の王は可笑しそうに口端をつり上げた。
『大切な者を作れ、と簡単に言うおまえと、世界が滅べばいいと容易く言う我と。ふたつが交わるとしたら、ただひとつ。おまえが我の大切な者になればいい。そうすればこの世界を滅ぼすこともないかもしれん』
 愛の告白というには投げ遣りで、からかっていると思うには真剣な眼差しで。
 シアにわかるのは、彼女が拒否すれば間違いなく闇の王は月の国を、やがては世界を滅ぼしてしまうだろうということ。本気なの、と何度も問いかけるたびに、あたりまえだと頷かれて、まるで彼の闇がシアの心にまでじわりと染みこんでくるように胸が苦しくなる。
 まだそれが好意からくるものなら救いがあるのに。
 見つめてくる瞳にも、触れようとする手にもアレスがくれるような愛情が欠片も見つけられない。理由がわからなくて、わからないものに頷きたくはなかった。たとえ、頷くだけでこの世界が救われるのだとしても。
『おまえが大切だというこの世界を捨て、陽の王子との愛をとるか?』
 確認するように言われた言葉に、くらりと眩暈を起こしそうになって、ぐっと足に力を入れる。
 彼の前で弱い部分を曝け出したくなんかない。そうは思うのに、こぼれ落ちる言葉は不安で揺れてしまう。
『どうして、そんな……』
『面白いからだ』
 返ってきた意外な言葉に目を見張る。
『おまえが我のもとにきたとき、はたして陽の国の王子はどうするだろうな。闇の国を攻めてくるか?それとも、月の国の責任問題とするか。考えるだけで面白くなりそうだ』
 私がアレスと結婚しなかったら――。
 彼はきっと、苦しむ。どうして、と絶望していつもの優しさを見失って怒り狂うかもしれない。闇の王が望むように。
『それでも、アレスは優しいから。私が望むようにしてくれると思うわ』
『おまえは男というものをわかっていない』
『アレスのことはわかるわ。彼は王子よ。陽の国を、その民を――三国のすべてを担うひとりなの。自分のワガママだけで争いを起こすようなひとじゃないもの』
 皮肉を込めて告げれば、闇の王は愉しげに口端をあげた。意味ありげな笑いに、訝り視線を向ける。スッと細められた黒い瞳は、危うげな光を揺らめかせていた。まるで獲物を見定める獣のように。
 畏怖を覚えて、足がふるえそうになる。
(逃げちゃだめ!)
 自分に言い聞かせる。握りしめた手のひらがじっとりと汗ばんでいることに気づく。
 月の国の王女。アレスの婚約者。シア自身の持つプライドが彼女の気持ちを支えていた。
 どちらにしても、と見据えてくる目はそのままに、闇の王が言う。
『おまえに与えられた選択はふたつしかない。アレスと婚約を破棄し、我の元に来るか。アレスと結婚し、我の報復を受けるか』
 時が来るまでに、選ぶがよい。
 心にまで刻みつけるように、闇の王はゆったりとした口調で告げる。 光溢れていた未来が闇にじわりと支配されていくような感覚を受けながら、呆然と立ち尽くしているしかできなかった。

 世界と、アレス。
 シアの覚悟は決まっていた。
 世界が滅びれば、アレスも――家族も。愛する者たちすべてを失うことになる。それがどんなに卑劣な取引であったとしても、拒絶する選択肢はシアの心にはなかった。
 なかったはずなのに、第一王女で姉になるリア王女はシアにアレスと結婚するように言った。その言葉に背中を押されるように結局、シアはアレスの手を取った。
(どうして――?)
 詩亜にはわからない。
 振り返ってみれば、初恋さえまだしていなくて、余計にだれかを愛する心がわからない。だからこそ、アレスが詩亜を通してシア王女を見ながらぶつけてくる恋心に戸惑って、つい逃げてしまう。彼が見つめているのは、詩亜じゃない。そう感じるほどに、胸が苦しくなって――。
 その感情が彼に想いを持ち始めているからか、それとも単なるシア王女に対する嫉妬かもまだ、わからなくて。
 ぎゅっと痛む胸に、詩亜は手のひらをあて、握り締める。息苦しさと同時に、頬を熱い滴が流れていくのを感じた。

 「なぜ、泣いている?」
 不意に覗き込んでくる美貌に驚いて目を見開く。
 額に黒髪がさらりとかかり、驚いて身体を起こす。闇の国王がベッドのすぐ側に立っていた。
 ――なんで。
 夢の中で見たままの姿。艶やかに流れる漆黒の髪、闇そのものを宿す、瞳。なにひとつ、変わっていないそのままの――。
「……あなたは、シア王女がアレスを選んだから月の国を攻めたの?」
 ほんとうに。
 そんなことが理由で、自らが住む世界を滅ぼそうとしたとは到底思えない。そう思うには、シア王女が感じていたように、闇の王が彼女を本気で愛していると信じられない。
「なるほど。王女の魂が記憶を見せるのか」
 私の問いかけには応じずに、彼は納得したように頷いて、身体を反転させた。大きな硝子窓がある。明かり取りのための窓のはずなのに、一面闇が広がっているだけ。そこに溶け込むように映る王の姿は月や陽の国が恐れるほどの力を持ち、畏怖されるひととは思えないほどに寂しい存在に見える。
「そういう取り引きだった。シア王女は世界よりも、陽の王子を選び、だから我は世界を滅ぼすことにしたのだ」
 淡々と告げられる言葉に、怒りが沸き立つ。
「どうしてっ、どうしてそんなふうに自分が住む世界を簡単に壊そうとするの!」
 取り引きだったと、まるでゲームをしているように。
 世界を担う三国の王のひとりとして、若くして闇の国の王に就いたというのに、陽や月の国の王達が認めるくらい立派に纏めてもいた。最初に取り引きを持ちかけられたときから。
 ――他の二国を攻めて、この世界を滅ぼそうと言ってきたときから幾度となく口にしてきた疑問。
 けして、彼が言うまま、面白いからとか愉しそうだからという理由じゃない。それは感じ取れるのに、彼の真意だけは読み取れず、あくまで面白いからと言う姿に苛立ちが募る。詩亜の気持ちに呼応するかのように、石のペンダントが淡い光を明滅させていることに気づく。
「月のペンダント……なるほど、それで月の第一王女の意識が戻ったのか。しかし、シア王女は持っていなかったはずだが」
 探るような視線が向けられて、困惑が浮かんだ。
(持っていなかった? そうだ、このペンダントは――)
「アレスが持っていたものよ。結婚が決まったとき、シア王女がこれをくれたって……」
 ペンダントを握る。心が冷えそうになるくらい闇に支配されたこの場所では、唯一の心の支えだ。手のひらからほんのりと温かさが伝わってくる。
 闇の王は愉しげに口端をつり上げ、納得したように頷いた。ペンダントを見る眼差しは、暗く危険なものを含んでいるようで、嫌な予感が背筋を走り抜けていく。
「なっ、なに?」
「どおりで、月の国を隅々探しても、シア王女の遺体を暴いても、出てこなかったはずだ。まさか結婚式も終えていないのに、陽の国の王子に渡していたとは。尽く、しきたり破りの王女だったということか」
 スッと右手を差し出してくる。その手を戸惑いながら見つめて、どうすればいいのかわからずに、闇の国の王の顔を見ると、勿体つけるようにゆっくりと彼の唇が開く。

「渡せ」
「えっ?!」
「ペンダントを、渡してもらおう」
 傲慢な口調と言葉に眉を顰める。
 ――ペンダントを?
 ベッドに座っている私の側に一歩近づいてきて、闇の王が再び言う。
「そのペンダントを渡せ」
 強い口調じゃないのに、闇に引きずられるかのような声は、恐怖を感じさせる。彼の纏う闇に呑み込まれてしまえば、二度と這い出ることができなくなる。じわりじわりと迫ってくる感覚に、唯一縋れるペンダントをぎゅっと握り締めて首を振る。

「いやよ! あなたには渡せないっ!」
 反射的に飛び出た言葉に押されるようにベッドから降りて、扉に向かう。
 ――向かおうとして、腕を掴まれた。
「っ?!」
 ぐっと、つかまれた腕が強い力で引き寄せられる。
「放してっ!」
「アレス王子やシア王女に義理立てする必要はあるまい。おまえは、シア王女とは違う、別の世界の住人だ」
 引き寄せられ、耳元で囁かれる言葉に、目を見開く。

 深淵を湛えた瞳が詩亜の心を見透かすように見つめてくる。凍てつくような冷たい美貌からは何の感情も読み取れないのに、彼の言葉はまるで何もかも知っているかのようで。

 ――私はシア王女じゃない!
 アレスやソーマに対して何度も口にした言葉。だれもがシア王女と重ねようとしていたのに、闇の王は彼女とは違う、と口にした。ざわり、と心がざわめく。

「ペンダントを渡せば、もとの世界に帰してやろう」
 一瞬の躊躇を見て取った闇の王は、更に詩亜を誘惑するように言う。
「もとの、世界に……?」
 帰れるの?
 お母さんの顔が、お父さんの顔が脳裏に浮かぶ。美香も、恐らく屋上でいきなり姿を消した私に驚いているかもしれない。こっちの世界に比べて元の世界の時間の流れがずいぶん違うから、どれだけ経っているかはわからないけれど。
 戸惑いが生まれて、ペンダントを握る手が緩む。
 とつぜん、こんな世界に連れてこられて不安で。アレスやソーマは優しくしてくれたけど、必要だったのは詩亜自身じゃなくて、シア王女……彼女の記憶。
 求められるたび、苦しかった。
 アレスの熱を押し隠した瞳に気づいても、それは私を通したシア王女に向けられていて、どうすることもできずに胸が痛んだ。ソーマも、世界渡りとしてこの世界を平穏に戻すために、月の伝承を知る、シア王女が必要で。

「我の闇の力なら、いますぐにもとの世界に帰せるぞ?」
 戸惑ううちに、闇の王が言い募る。

 思わず、手の中にあるペンダントに視線が向かう。明滅を繰り返している石は、警告しているようにも、渡すことを促しているようにも見える。
 渡せ、闇の王が耳元で囁きながら、つかんでいる腕から滑らすように手を動かし、ペンダントを握る手に重ねてくる。
ひやりとした温度のない手に、寒気が走った。包み込むように手を握られ、そのまま石を奪われてしまうとわかっていても、元の世界に帰れるという言葉がまるで呪文だったかのように、動くことができず――、

「シアっ! だめだっ!!」

 急に割り込んできた声に、びくりと身体が震える。反射的に、手のひらの石を強く握りしめていた。
 小さな舌打ちが聞こえたような気がして、顔を上げる。闇の王が向けている視線を追っていくと、アレスが開け放たれた扉を背に剣を構えて立っていた。その横で狼姿のソーマが、牙をむき出しにし、睨みつけてきている。
「アレス! ソーマ!!」
 闇の王の手を振り払い、彼らの元に駆け寄る。
「……シア」
 アレスのブルーの瞳に、気遣うような光が揺らめいているのを見つけて、大丈夫と頷いてみせる。ほっと胸を撫で下ろす姿に、胸が熱くなるのを感じた。こみ上げてきそうになる感情を誤魔化したくて、慌ててソーマに視線を移す。
「追いかけてきてくれたの?」
「ああ。ちーと、世界の歪みがひどくなってるから、国同士の結界を渡るのに時間かかっちまった。遅れて悪かったな」
「――それって」
 詩亜が疑問を口にする前に、闇の王の声が響いた。
「月の国の結界がなくなり、陽の国の結界も圧されようとしている。ほどなく、世界は滅びゆく。……シア王女が望んだように」
 最後に付け足されるように言われた言葉に血の気が引く。それはきっと、アレスと闇の王のどちらを選ぶのかというあのときの、シア王女の答えを示していて。

 ――違う!
「なぜだ……?」

 否定の言葉を口にするよりも、アレスの呟きが耳に届いた。感情の揺れがないその声は、怒りを無理矢理押し殺しているように感じられて、彼を見れば、闇の王に静かな眼差しを注いでいた。
「なぜ、世界を滅ぼそうとする」
 アレスの視線を真っ向から受け止めながら、闇の王は皮肉げに顔を歪める。
「その問いを口にできるおまえには、わからんだろうよ」
 ふと、胸によみがえってくる、シア王女と話していたときの闇の王の寂しげな雰囲気。我には誰もいない、と零された言葉。全部とはいえないけれどこの世界に連れてこられた詩亜には、ほんの少し彼の気持ちがわかった。だれも信じられないと感じた瞬間。この世界でひとりぼっちだと思ったときの寂しさ。一度感じた悲しみは、手を差し伸べてくれるひとがいなかったら、そのまま闇に引きずり込まれて呑まれてしまう。詩亜はまだ、アレスやソーマが手を繋いでいてくれたから、完全な孤独に陥らずにすんだ。
 だけど、それは。
 シア王女も言っていた。自分から手を伸ばさなければ、だれにも気づいてもらえないと――。うずくまって、動かないで、ただ救いを求めるだけで、それが叶わないからと世界を憎み、滅ぼそうとするなんて。
 詩亜の胸のうちに、沸々とした怒りがわきあがってくる。
「だからって……」
「シア?」
 呟いた声に、ソーマが反応して名前を呼ばれる。
「だからって! 世界を滅ぼそうとするのは自分勝手だわ! 今いる世界を憎んだって、滅ぼしたってなにも変わらないじゃないっ」
 闇の王の眼差しが向けられる。深く、吸い込まれそうなほど暗い闇の瞳。
「この世界が存在する限り、我は独りだ。ひとりでいろ、と傲慢にも口にするか」
 放たれた言葉もまた、詩亜の怒りを撥ねつけるような冷たさを含んでいて、どうしようもない重みを心に与える。
 闇の王が抱えてきた孤独。
 どれだけ長い間――。
 それがどんなに苦しいものか、わからない。
「……っ」
 わからない。間違っていると思うのに、その思いが闇の王から見れば傲慢なのだと切り捨てられる。
 詩亜がこの世界の住人なら大切な居場所を、ひとを守るためと割り切ってしまえたかもしれない。だけど――。
 彼女の戸惑いを見透かすように、闇の王が言う。
「おまえには関係あるまい。この世界が滅びようと、お前の世界は在り続ける。そのペンダントを渡すなら、おまえはもとの世界に帰してやろう。それくらい、そこの世界渡りでなくても、我の闇の力で容易くできる」
 その言葉に、ソーマが驚いた声をあげた。
「なんだと!」
 わずかに怒りのこもる口調で闇の王の言葉を否定する。
「いくら闇の力を使えるとはいえ、ひとつの世界の住人が世界渡りをできるわけがないっ!」
 世界渡りの仕事にソーマは誇りを持っていて、自由にそれができるようになることが夢とも言っていた。
 闇の王はほんの少し口端をもちあげ、笑みを浮かべる。ソーマを挑発するような表情でありながら、詩亜には寂しげにも見える。
 まるで焦がれているものを諦めるような表情。
 どうして――。
 詩亜が問いかけるより先に、闇の王は無表情に戻り、ひたりと視線をソーマに向けた。
 ゆったりとした動きで口を開く。
「確かに、我自身が他の世界に渡ることはできない。だが、違う世界を開くことは闇の力でも可能だ」
 思い当たることがあったのか、珍しくソーマの口調が低くなる。
「……それは禁忌だ」
「だからなんだという? どうせこの世界は滅ぶ。いまさら、禁忌となるものを我が施したところでなにも」

「滅ぼさせたりなんかしないっ!」
 まっすぐとしたアレスの言葉が闇の王を遮って室内に響く。

「そんな勝手な理由で、世界を――っ、この世界を滅ぼさせたりするものかっ!」
 アレスの言葉に呼応するように、詩亜の指に嵌めている指輪が光を放ち始める。たちまち光の洪水が室内に溢れ、詩亜たちを包み込んでいった。


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