18. 決意
 どこを走ってきたのか、どれくらいの時間が経過したのかもわからないまま、がむしゃらに走り続けていた詩亜は疲れ切って足を止めた。呼吸がまともにできなくなって、しゃがみ込みうずくまる。

 ――なんてコト言っちゃったんだろう!
 アレスにぶつけた言葉が脳裏を過ぎって、たちまち羞恥心がこみあげてくる。

 信じられない。穴があったら入りたいっていうか、アレスの顔もきっともうまともに見られない気がする。

「……ほんとにほんとになんて、バカ」

 重いため息がこぼれ落ちた。

 この世界で、アレスやソーマ達に必要なのはシア王女の記憶であって、決して詩亜自身の感情は求められていないのに。
 あんな言い方はまるで、アレスを好きだと言ってしまったようなもの。それも自覚がないというのに。自覚がないというより、自信がないのかもしれない。
 シア王女の記憶によってもたらされている感情かもしれない。アレスの彼女に対する強い想いや熱が自分の中に――アレスに対して抱えているようには思えなくて。心が揺れてしまうのも、きっと。

 何度目になるかも分からないため息が零れて、ハッと我に返った。
 周囲を見回しても、アレスといた場所と同じように白に埋め尽くされた空間。もちろん、無我夢中で走ってきたせいで此処がどこかわかるはずもない。

「……ほんとバカだ、わたし」

 勝手にアレスから離れたのに、独りぼっちだと気づいた途端、寂しさがこみあげてくる。視界が歪んで、頬を熱いものが流れていく。
(シア王女だったら、どうしてたかな……?)
 アレスにもっと優しくできたかもしれない。闇の王の言葉にも、心が揺れることなくもっと毅然に立ち向かえたかもしれない。
 溢れてきそうになる負の感情に溺れそうになって、息苦しさを覚える。

 ふと、胸元のペンダントが明滅を繰り返していることに気づいた。頬を伝って涙の滴が、ペンダントに落ちて弾けていく。まるで心が砕け散っていくみたいで、悲しみが深まりそうになるのを漆黒の石を握りしめて堪える。途端、明滅を繰り返していた石がふわりとやわらかな光を放ち始める。
「え……?!」
 光は次第にひとの形をとり、やがて女性の姿になっていく。光の中で流れるような長い髪、美しく柔らかな曲線を描く顔の造作、閉じられたままの瞳。見知った姿はまさか。
(シア王女……?)
 そう呼びかけようとして、瞼がゆっくりと開いていく。現れた瞳はきれいな翠色で琥珀じゃない。ということは――。

「リア王女!」
 名前を呼ぶと同時に、彼女が纏っていた光が収束され、薄れていく。次第にはっきりとしていく彼女の髪は白銀に煌めいていて、間違えようもなく月の国第一王女だと安堵する。ほっと息をついて、だけどすぐにシア王女だと思いこんだことがまるで罪悪感でも抱いているようだと気づき、少し胸が痛んだ。
 リア王女は瞳に詩亜を映すと、優しい微笑みを浮かべる。
『無事な姿を見られてよかったわ……』
 安心するように胸を撫で下ろす彼女の手に触れようとして、その手がすり抜けていく。
『月の術のひとつで、そのペンダントを媒介にして、姿を投影させてるだけなの。触れ合うことはできないのよ』
 苦笑して、彼女はそう説明をしてくれる。
『アレスとソーマは一緒じゃなかったの?』
「……さっ、再会はしたんだけど、いつのまにか、はぐれちゃって」
 ぎくりと顔が強張りそうになるのをどうにか曖昧な笑みを浮かべることで誤魔化して言うと、状況がわからないリア王女は心配そうに眉を顰める。
『早く彼らを見つけて合流して。闇の王は人の弱い心に容易く入り込むわ。ひとりでいると危ないから!』
「うん……、わかってる」
 それは身をもって思い知らされた。
 もしもあのとき、アレスとソーマが来てくれなかったら、ペンダントを闇の王に渡していたかもしれない。もとの世界に帰れるという誘惑に負けて――。
『だけど彼らがいないのなら、機会でもあるわね。もう一度あなたに訊こうと思って』
「私に?」
『ええ。記憶を取り戻すかどうか、決心はついたかしら?』
 その言葉で、部屋の前でリア王女と別れたときのことを思い出す。
 月の国に伝わるやり方で、記憶を取り戻せる。そうするかどうかは私に任せると――。考えようと思って外に出て、間をおかずに闇の国に連れてこられて、すっかり忘れていた。
 戸惑いを覚えながらも、リア王女の瞳を見つめ返して、口を開く。
「ほんとうに、私が思い出したくないって言ったら、それでもいいって納得するの? そのせいでこの世界が滅びることになるかもしれないのに」
 わずかに怒りを含んでしまった口調に、頭の片隅で八つ当たりだと自覚する。
 リア王女はふわりと微笑んだ。
『私は世界と貴女の心を天秤になんてかけられないわ』
「そんなのっ!」
『世界も、この世界に住む人々も国に関係なく大切よ。私も守りたいと思ってる。それはほんとう。だけど、貴女の心も大切にしたいの、それも真実、私の気持ち。記憶を取り戻して、貴女の心が死んでしまったらと考えると怖いの。私は二度も大切な妹を殺すことなんてできない。だからこそ、貴女の意志を尊重させて』
 微笑むリア王女の瞳には、寂しげな光が宿っている。
 月の国の王女としてはきっと、この世界を守るためにシア王女の記憶が必要だと告げたいはずなのに、私を想ってくれるその心に波立っていた気持ちが静まり、胸が温もりに満たされていく。
 自分の感情は必要とされていないと思い込んでいたことが恥ずかしくなる。こんなに真剣に考えてくれているのに。自らの住む世界さえも引き換えにしてまで。
 ――それなのに、私は。
 無理矢理連れてこられた憤りを、シア王女に重ねられる苛立ちをぶつけてばかりで、この世界を受け入れようとはしなかった。アレスやソーマ、シア王女たちが守ろうとするこの世界を、どこか自分とは関係がないものだと思い込んでいるところがあった。闇の王はそれさえも見抜いていた。だからこそ、たとえこの世界が滅んでも私が暮らす世界は存在する、その言葉に心が揺れてもう少しでペンダントを彼に渡して取り返しのつかないことをするところだった。

「私は……」

 シア王女じゃないと言い張って、彼女の記憶を拒んでばかりいても、きっとなにも始まらない。シア王女じゃないかもしれない。記憶なんて甦らないかもしれない。アレスたちの思い違いって場合もあるけど……、もしかしたら。そう思う自分から、もう目を逸らしたくない。
 返事を待っているリア王女の瞳をまっすぐ見つめ返す。
「……私はシア王女の記憶がほしい。そこにこの世界を救う鍵があるというなら、受け入れるわ!」
 胸を満たす決意を口にする。
 見つめてくるリア王女はしばらく何も言わなかったけれど、詩亜の決心に揺らぎがないことを感じ取ったのか、わずかにほっとしたような安堵の表情を浮かべた。
『ありがとう』
 きれいな翠色の瞳がやわらかい光に煌く。優しく微笑む姿に頬が熱くなるのを感じて、誤魔化すように慌てて尋ねる。
「あ、っと、で、その――っ、どうすればいいの?」
『ペンダントを』
 そう告げるリア王女につけていたペンダントをはずして差し出す。手のひらに置いている漆黒の石のうえに、彼女も手のひらをかざす。やがて石が銀色の光を放ち始め、同時にリア王女の真剣な声が響く。
『月の女神、ティアナ様。貴女の加護たる子に光を授けたまえ』
 その言葉を合図にしたかのように銀の光が増して石を包み込んでいく。銀の光に包まれた石はまるで飛び掛るように詩亜の額の中へと吸い込まれていった。

「シアっ!」
 アレスは彼女の身体がぐらりと傾き、崩れ落ちそうになっているところを見つけて慌てて駆け寄った。地面に倒れる寸前で、抱き止める。間に合ったことにほっと息をついて顔を上げた。
「リア王女……」
 思わず呟いた声に非難が混じってしまう。
 月の国で再会し、狂気から抜け出していたことを思えば、信用できるはずなのに、まだ過去にシア王女を失ったときの傷が不安を感じさせる。
 ――もう大切な人を失いたくはない。
 腕の中の少女を抱き締めて、問いかける。
「彼女に何をしたんだ?」
「アレス!」
 今度はソーマの非難が滲み出た声に名前を呼ばれる。リア王女は狼姿の彼に視線をやって、『いいのよ』と制するように言った。すぐに困惑した表情を浮かべて、翠の瞳をアレスに向ける。
『彼女の意思で月の国に代々伝わる秘術をかけたのよ。記憶を蘇らせることができるわ』
 その言葉に驚いてソーマと顔を見合わせる。
「それは……」
『ええ。シアの記憶――月の伝承を思い出すためのものよ』

 シアの記憶。

 その言葉に、どくりと心臓が音を鳴らす。ただ素直にそれを嬉しいと感じることができないでいることにも気づく。
『彼女は自分でシアの記憶を受け入れることを決意してくれたのよ』
 リア王女が優しく微笑んで言う。
 彼女自身の決意――本当に、そうだろうか。もしかしたら、自分が追い詰めてしまったのかもしれない。
『アレス様……、大丈夫ですわ』
 複雑な顔をしていたことに気づいたのか、ふとリア王女がやわらかな声を投げかけてくる。視線を向ければ、彼女は気遣うような表情を浮かべていた。それから少し、懐かしげに目を細める。
『以前、シアが言っていました。あなたは重荷をひとりで抱えすぎるところがあると』

 ――アレス。他の誰かに言えなくても、せめて私にはもっと我侭を言ってちょうだい! けしてひとりで抱え込まないで、重荷を分け合いましょう。

 リア王女の言葉が胸の奥底に閉まっておいた記憶を呼び起こす。

「僕が何も言わなくても、シアにはどうしてか気持ちが伝わってしまっていたんだ。いつのまにかそのことに甘えていたのかもしれない」
 言葉にしなくても通じ合える。気持ちが伝わる。自身でも気づかないうちに、それを彼女にも押し付けていたのかもしれない。
 不安そうに見つめてくる瞳。戸惑うような表情。悲しそうな顔は思い出せるのに、そういえば笑った顔を向けられたことがない。リア王女やソーマと話しているときには時々浮かべていた笑顔。あれはけして自分に向けられたものじゃなかった。それに気づいて、愕然となる。ずきりと、胸が痛んだ。
 腕の中で意識を失っている彼女の顔を見下ろす。
 肩までの黒く艶やかな髪も今は伏せられている黒い瞳も、その輪郭すべてがシアにはなにひとつ似ていない。似ていなくても、会った瞬間に、一目見ただけで、シアだと感じた。ずっと探していた、シアだと。

『探して、アレス……私を――――お願い、』
 最期に残された彼女の言葉。

 転生を信じていたわけじゃない。仮にあったとしても、それは別のだれかであって、シアではないと頭ではわかっていたのに、彼女を喪った深い悲しみと絶望に襲われて、立ち上がるにはその言葉に縋るしかなかった。
 ――陽の国を背負って、独り立ち上がるには。

『アレス王子……、もうあなたは独りじゃありません。微力かもしれませんが月の力を持つ私もいます。世界渡りのソーマだってついているではありませんか。シア――この娘も、私たちの世界のためにどうにかしたいと望んでくれています。どうか、シアに捕らわれているあなたの心をもう解放してあげて下さい』

「リア王女……」
 なにもかも見通しているような彼女の言葉に、苦笑が零れた。
 どこかで――リア王女に感じていたわだかまりが解けていくのを感じる。

「……そうだね」

 シアを喪ったときの感情を、彼女への想いを忘れることが出来なくても、我慢するわけでもなく、胸の奥底に押し込めようと無理をするわけでもなく、リア王女の言うように解放してあげよう。

 彼女のことも、彼女自身として受け止める。

 燻っていた気持ちが、すっきりと晴れやかな気分に変わっていくのを感じていた。


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