07. 赤狼
 助けて、ってあの声は、たった一言だから確信はないけれど、リア王女の声だと思う。たった一言でも、向こうの世界にいたときに何度も夢の中で聴いた声。だからこそ、鍵は彼女にあるような気がする。
(だけど、シエラは知らないっていうし。アレスには訊けないしなぁ……。)
 どうしようか、と悩んでいると、不意に視界の端になにかふさふさしたものを捉えた。疑問に思って、急いで追いかける。よく見ると、赤銅色の毛をした狼だった。
 (こんなところに、狼 ―― ?)
 王宮で飼ってるの?
 それとも野生のものが迷い込んできた、とか。けれど、シエラがこの王宮内は結界が張ってあって、アレスが許可してる者しか行き来できないと言っていた。ってことは ―― 。

「なにしてんだよ、こんなとこで」
「なにって、ソーマ?」
 話しかけてくる声に我に返って、視線を巡らせる。けれど、周囲を見渡しても、いるのは狼と私だけで、ソーマの姿は見当たらなかった。
「ソーマ?」
「なんだよ?」
 声は聞こえるのに、と疑問に思いながら首を傾げる。
 (おかしい。どこかに隠れてからかってる?)
 注意深く側にある柱の影とかにも視線を向けるけれど、隠れている様子もなかった。
「おまえ、わざとか。それ?」
 ぐいっと、服をつかまれる動きに気づいて、下を見る。狼が服の裾を銜えて、じっと見上げてきていた。金色の瞳が不機嫌に輝いている。
「ソ、ソーマ?!」
「ああ。そうだよ、俺だ」
 鷹揚に頷いて、狼 ―― ソーマは銜えていた裾を放した。
「なんでっ、狼?!」
「あー、世界渡りの力を持つ者の特徴ってやつ?」

 疑問系で返された言葉にますます混乱する。っていうか、そんな説明でわかるわけないっ。
 世界渡りについてはシエラから少しは教えてもらった。この宇宙に数え切れないほど存在する世界を時間の干渉を受けることなく、自由に行き来できる存在。ソーマは、この世界のバランスを取り戻すために現われた、世界渡りだと。そのためにこの国でアレスに力を貸しているらしい。

「特徴って……」
「普通は時間の干渉を受けないようにするために、力を使って世界渡りをするときだけ獣の姿になるんだけど、オレはまだ未熟だから、ひとつの世界に留まるときも時たまこうやって姿を変えないと、その世界の干渉を受けちまうんだ」
「そうなると、どうなるの?」
「世界渡りをするときの獣の姿をとれなくなる。つまり、この世界に一生、永遠に人形(ひとがた)のまま、留まらなきゃならねぇんだよ」
 苦々しい口調で言うソーマの瞳は、人の姿のときと変わらない。金色に煌いていて、感情が素直に浮かび上がる。今は嫌悪感を湛えていた。
「ひとつの世界に留まるのは、世界渡りにとって嫌なことなの?」
「嫌ってわけじゃない。それはそいつ次第だな。その世界が気に入れば、留まるやつもいるさ」
 けど、とソーマの瞳が期待に満ちた輝きを放つ。
「俺はやっと、世界渡りができるようになったんだ。まだ未熟だけどさ。この世界のバランスを取り戻すことができたら、一人前として認めてもらえる。それからは、自由にいろんな世界を行き来できるんだ。ひとつの世界に留まるなんてまだ、考えたくもないぜ」
 ふぅん、と頷きながら、ソーマの言葉に想像する。いろんな、世界。住んでいた世界が全てだと思っていたから、違う世界があることが不思議で、他にはどんな世界があるのか知りたくなる。だけど、それを訊くよりも先に、ソーマがそれより、と口を開いた。

「アレスが言ってたけど、元気ないって?」
「えっ?」
「何か気にかかることがあるんじゃないかって心配してたぜ」
 今朝、アレスと交わしたときの会話が浮かぶ。そんなに心配させていたとは思わなかった。
 話しながら、ソーマの後についていつの間にか、宮殿を護る壁際まで来ていたことに気づいた。とんっ、と不意にソーマが身軽な動きで壁を跳び、上へと移動する。器用にその上を歩きながら、彼は顔を宮殿とは反対へと向けた。壁は私の身長の三倍はあるから、そこに何があるのかわからない。けれど、きっと陽の国が広がっているのは想像がついた。
「……あんたが浮かないとアレスも憂う」
 壁の上からと、下にいる私と、距離があってもソーマの言葉はまっすぐに落ちてくる。はっきりと聞こえて、胸に突き刺さった。
 (それって……。)
 責めてるわけじゃないのはわかる。だけど、そんなふうに言われると、重く感じる。アレスを苦しめるつもりはないし。そうしたくなかったから、何も訊かなかったのに。溜息が零れた。
「アレスに言えないなら、俺に訊けよ。俺は陽の国にいるけど、一応、中立者でもあるからな。嘘は教えないから安心しろ」
 外へと向けていた顔が見下ろしてきて、目が合う。顔は狼だけど、真剣な光を浮かべた金色の瞳は、人型のときのソーマの姿と重なって、信じることができるような気がした。ソーマは嘘が上手には思えないし、アレスのように、誤魔化すこともきっと、できない。
「……月の国の第一王女について、なにか知ってる?」
 ソーマに促されて、思い切って訊くと、彼は再び壁の反対側を見た。外壁から見渡せる景色を見眇めるように、視線を遠くに投げかける。
「ソーマ?」
「ああ。シア王女とは双子の王女で、侵略を受けなかったら今頃は月の国の女王だった」
 頷く声には、ほんの少し悲しげな口調が含まれているように思えた。この世界の戦いの話をしていたときとは、違う。憐れむような響きがある。
「 ――― やっぱり、亡くなったの?」
 シア王女の手を握って、涙ぐんでいた彼女の姿が脳裏に浮かぶ。
 勿論、そうじゃなかったら、私をわざわざこの世界に連れてくる必要はなかったかもしれない。王家の者しか知らないという伝承なら、第一王女であるリア王女が知らないはずない。私を連れてくるよりも ――― 。
 そう思ったのに、返ってきた答えは予想とは違っていた。
「いや、生きてる」
「はぁ?」
 呆気に取られて思わず声をあげる。
「生きてるなら、彼女から伝承を聞けばいいじゃない」
「それができてれば、そうしてるに決まってるだろ」
 ムッとした口調で返ってきて、口を噤んだ。じっと、見返してくる瞳は、不機嫌な色を湛えている。
「彼女は月の国にある城の地下深くに閉じ込められているんだ」
「闇の国の、ひとに?」
 そう問いかけると、ああ、と確信を持っているように、彼は頷いた。くるりと、私からは背中を向ける。ふさふさの尻尾をゆっくりと左右に揺らしながら言う。
「俺がひとりで月の国に侵入し、監視をかいくぐって、会いに行ってみたんだ。伝承を聴ければ、世界渡りである俺と、陽の国の王子であるアレスの力を合わせれば、月の国の結界を復活できるから。だが、リア王女は」
 動いていた尻尾がぴたりと止まる。押し黙ったソーマを促がすように、風が緩やかに吹いて、彼の赤銅色の長い毛が波打つように揺れた。
「……自我を失っていた」
「っ!」
 衝撃に、一瞬息が詰まる。
 ソーマが振り向いて、壁の上から再び身軽な動作で降りてきた。とんっと、同じ地面に足をつけ、スッと見上げてくる。
「彼女は俺のどんな呼びかけにも反応しなかった。……ただ」
 どきどきと早鐘のように胸は鳴り、ソーマの言葉を聴くのが急に怖くなった。
「助けて、と繰り返すばかりで、伝承を聴けるような状態じゃなかったし、助け出すこともできなかった」
 『助けて』という言葉に、息を呑む。やっぱり、あの声はリア王女のものに間違いない。せっかく侵入したのに、助け出せなかったと悔しさの滲む声で言うソーマに首を傾げる。
「……どうして?」
 ソーマは首を振って、溜息混じりに言う。
「わからない。連れ出そうとしたら、全力で拒まれた。自我を失った女の狂気に流石の俺も、力ずくってのは、な」
 苦笑するように瞳の光が揺れる。
「夢で見たリア王女は、芯が強くて優しい女性だったの」
「夢?」
 思わず零した私の言葉に、ソーマが呆れたように繰り返す。けれど、すぐに思い直したように頷いた。
「そうか。この世界に来て、感化されたのかもな。前世の記憶を見るのも不思議はないか」
「そうなの?」
 当たり前のように言われて、逆に呆気に取られた。そんな簡単に信じてもらえるなんて思わなかった。不意に、ソーマがにやりと口端をあげる。
「あんたも嘘がつけるようには見えないからな」
 鋭い牙が見えた。だけどなんだかそれが可愛らしくて、思わず笑みが浮かんでしまった。

「 ――― 楽しそうだね」
 苦笑混じりの声が聞こえてきて、ハッと振り返る。
 アレスが優雅な佇まいで、微笑んでいた。陽の光を浴びた、彼の容貌は美しく、見た瞬間に跪きそうになってしまうくらい、神秘的な雰囲気を纏っている。けれどほんの少し、その顔に影が差しているように思えた。
「アレス!」
 ソーマは、嬉しそうに声をあげ、尻尾を振って彼の元に駆け寄っていく。アレスは慣れているように、彼の頭を撫でた。気持ち良さそうにソーマは瞳を細める。まるで飼い主とペットの関係みたいに見えて、零れそうになる笑いを堪えるのが大変だった。
「仕事はどうなったんだ?」
「ちょっと、君に相談したいことがあって息抜きも兼ねて、探しにきたんだよ。彼女も一緒だったんだね」
 ソーマの頭を撫でながら、アレスの顔があがり、スッと青い双眸が私を見つめる。わずかに責めるような、光が揺らめいているように思えた。その瞳に、ちくりと胸が痛む。なんだろう。悪いことをしてたわけじゃないのに。
 奇妙な緊張感を与えられて、身体が強張る。
 けれど、それに気づかないのか、ソーマの明るい声が間に割って入ってきた。
「相談したいことって、なんだよ?」
 アレスの視線が外れて、再びソーマへと戻る。
「月の国奪還計画だよ。情報筋によると、早いタイミングで動けそうなんだ。侵入経路の再確認をしてほしい」
「ああ、いいぜ」
「執務室で将軍が待ってるから、先に行ってて。僕もすぐに行くよ」
 わかった、と頷いて、ソーマは即座に走り去っていった。
 ソーマの向かった先を眺めているアレスの纏う雰囲気がなぜか重苦しく感じられて、そんな自分に戸惑いながら、身動きができないまま立ち尽くしていると、不意に彼が問いかけてきた。
「……なにを話してたの?」
 何気ない口調での問いかけにも関わらず、何かしらの含みがあるように聞こえる。
 (正直にリア王女のことだと話すべきなの?)
 迷いが沈黙を作り、二人の間の空気が重くなる。
 ソーマとは簡単に打ち解けることができるのに、前世で婚約者だったわりにはアレスとの関係が上手くいかない。どうしてだろう。ジレンマを抱える。アレスに嫌悪感があるわけじゃない。むしろ、懐かしい感じは確かにする。立ち姿とか、ひとつひとつの仕草を見るたびに、丁寧でありながらどこかのんびりした明るい話し方や声を聴くたびに、胸はいつも微かに小さく痛んだりする。だけど、彼のじっと見つめてくるその、視線の意図や、前世の記憶を探り出そうとする意志を感じると、たちまち苛立ちを覚えてしまって、ソーマと向かい合うときみたいに、素直な気持ちになれない。

「ただ、月の国の話を聞いてただけ……」
 答えた声は思いもよらず小さく震えてしまった。
 見据えてくる青い瞳は、一瞬浮かび上がった感情を押し込めるように閉ざされる。動揺を上手に隠せたとは思えない。嘘だとわかるはずなのに、彼は静かに頷いた。
「そう。それで、なにか思い出せた?」
 問いかけとともに、開いた瞳にはいつもの明るい輝きがあるだけだった。思い出すことを望んでいるはずなのに、そこには期待は込められていない。それがわかって、思わず眉を顰める。
「シア?」
「……なにも、思い出せてないわ」
 夢を見たことも話せなくて、嘘を重ねる。夢で見ただけであって、自分で思い出したものじゃないから、嘘にはならないかもしれないけど。
「せめて、伝承だけでも思い出してくれたら、助かるんだけどね」
 にっこりと微笑みを向けられる。だけど、その一瞬、微かにほっと安堵するような表情を浮かべたのを見てしまった。
 ( ――― どうして。)
 思い出して欲しい、と言いながら、思い出せていないという言葉に安心するなんて。
 困惑している私に関わらず、気を取り直すようにアレスは肩を竦めた。
「まぁ、いいか」
 そのまま、何気ない口調で告げられる。
「とりあえず、君も一緒に来て欲しいんだ」
「えっ?」
「月の国での戦闘には君も連れて行く。危険だけど、月の国に戻れば、何か思い出すかもしれないからね」
 一刻を争うんだ ―― 。
 アレスの顔はとても真剣なもので、心からそう思っていることが伝わってくる。だとるすと、さっきの表情は何だったんだろう。
 浮かび上がる疑惑に不安を覚えて、このまま素直にアレスを信じていてもいいのかわからなくなってきていた。



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