06. 前世と現世
 ――― 助けて。
 あ、まただ。頭の中に呼びかけてくる、声が聞こえる。切実なその声は、胸を苦しくさせた。同時に生じる焦り。
 (助けたい。貴女を、助けたい。)
 そう心の底から思うのに、どうしたらいいのかわからない。
 (貴女は、誰なの?)
 もどかしい気持ちを抱えながら、問いかけた瞬間。

「シアっ、起きなさいっ!」
 鋭い呼び声にハッと、うつ伏せていた机から顔をあげた。ぼんやりとした視界には、自分の淡い金髪とは違って、煌く白銀の髪をさらりと肩より少し長めに揃え、顔の造作は似ている姿を捉える。瞬きを繰り返して、やがてはっきりしてくると、キレイな、翠に染まる瞳が怒りと、呆れた輝きを浮かべていることに気づいて、冷や汗が背筋に伝った。

「おはようゴザイマス」
 慌てて笑顔で取り繕ったところで、母親のお腹にいた頃から傍にいる彼女を誤魔化せるはずがなかった。
「おはようじゃないでしょう? まったく、またこんなところで朝を迎えるなんて。どうかしてるわよ、貴女の本好きは」
「……昨夜、眠れないからちょっと本でも読もうって何か探しに来たらつい、面白くて部屋に帰るの忘れちゃってたみたい」
 心配かけてゴメンね、と付け加えて言うと、やれやれとばかりに肩を竦められた。私とは違って、本が特に好きというわけじゃない彼女が朝から此処にいるということは、探しに来たに決まってる。時々 ―― 彼女曰く、頻繁に繰り返される出来事に呆れられながらも、それでも朝一番に気にかけてくれることが嬉しかった。
「ついじゃないわ。月の王国、シア王女がすることなの?」
「もう。私は第二王女よ。お姉さま。朝から姿を見せなくても、誰かに迷惑は ―― 」
 かけないわ、と続けようとした言葉は、姉のぴくりと不快そうに跳ね上がった眉に気づいて、呑み込んだ。口にした途端、王女の責任について、延々と説教が続くことは何度も経験済み、というよりも、今日が何の日か思い出した。表情で私が今この瞬間に、思い出したことを読み取った姉は眉を顰めて、はぁとこれみよがしな溜息を吐き出す。
「そうよ。今日は貴女と、陽の国王子アレス様との婚約式よ。あと数時(すうとき)でアレス様がいらっしゃるし、昼はパーティー。夜は式本番。明日には陽の国に行って、一ヶ月後には結婚式をあげる当本人を女官たちが探していないと思うの?」
「……もしかして、エレファナはカンカン?」
 月の城を切り盛りしている女官長の機嫌を恐る恐る訊ねると、その通りと頷かれてしまった。
「捕まえたら連れてくるように言われたわ。罰としてたっぷり着飾ってあげますって張り切ってたわよ」
 にっこりと微笑む姉はどうやら、女官長の味方らしく逃がしてくれる気も、庇ってくれる気もないらしい。思わず、私は自分の姿を見下ろす。
 飾りひとつ着いてない質素な淡い翡翠の色に染まるドレスは、裾も動きに合わせて程よく広がるので、激しい動きもしやすい。国民の間で手軽に安く買える品で、前に城下にお忍びで出掛けたときに手に入れて凄く重宝している。比べて、姉は月の国を象徴とする耳飾、首飾り、腕輪、額飾りをつけて、幾重にも織り込まれた布地が腰から足元までぴったりと包み込むドレスを着ていた。少なくとも、この衣装は走ったり、飛んだり跳ねたりはできない。普段から気品に満ち溢れ、お淑やかな姉ならともかく、私には似合わないし、着たいと思う服装でもなかった。けれど、これこそが月の国象徴の衣装ならば、王族の正式な儀式である今日、明日は逃げられない。その儀式の主役の一人が自分なら、尚更。

「アレスは服装なんて気にしないと思うけどなぁ」
「何言ってるの! せっかくの機会でしょう。アレス様にとびっきり着飾った姿を見せてあげなさいよ。きっと、貴女に惚れ直すわよ」
 知り合ってから、十年。付き合うようになったのは五年。長い時間の中でお互いの中身も十分すぎるほど知っているのに、そういえば、アレスの前で正装だけはしたことがなかったことを思い出した。いつだって、軽装。どんな姿をしていたって、彼は似合うと褒めてくれるし、まっすぐとした愛情を向けてくれる。けれど、惚れ直す云々はともかく、こんな日くらいは確かに正装するのも、いいかもしれない。
 アレスにキレイな姿を見せたい、と思った。その想いを見透かしたように、姉がしっかりと手を掴んできた。
「大切な妹の記念すべき日だもの。私もいろいろ手伝うわ」
「お姉さま……」
 月の国第一王女として、為すべきことは沢山あるはずなのに、そう言ってくれる気持ちが嬉しかった。生まれる前 ―― そして、生まれてきてからずっと。ほとんど片時も離れることなく育った双子の姉。
「……明日からこの手を離さなきゃいけないのね」
 繋いだ手を切なげに見下ろして言う姉の言葉が胸に沁みる。明日から、二人は違う国でそれぞれ生きていく。姉と妹から、月の国王女と、陽の国の王子妃として。
「貴女は、代わりにアレス様の手をしっかりと繋いで、離しちゃダメよ」
「 ―― お姉さま。約束するわ」
 ずっと握り合ってきた手を離す代わりに、私はこれから月の国を守っていかなければならない姉の重責を少しでも軽くしたくて、口を開く。
「お姉さまが助けを必要とするときには、私は必ず、ここに ―― この、月の国に戻ってくるから」
「シア……」
 涙ぐむ姉をそっと、抱き締める。
「お姉さまは私にとって、誰も代わりになれないの。大切な家族よ ―― お姉さま、リア=セティム=ムーン」
 きっと、これから離れている時間は長くなる。それでも、双子という血の絆。家族に対する思いやりだけはずっと、胸の中に抱え続けていたい。抱き締めている姉の温もりを感じながら、強くそう思った。

 ――― あれは。
 瞼を持ち上げて、暫く天蓋を見上げていたけれど、混乱していた思考が落ち着いていくと、さっきまで見ていた夢を思い出し戸惑った。夢の中でシアと呼ばれていた。月の国第二王女。あの夢の中では感覚も思考も全て自分のものとして受け止めていた。
 (まさかっ!)
 この世界に連れられてきてからと、アレスとの昨夜の話やシア王女の肖像画を見たから影響がでただけ ―― そうに決まってる。
 無理矢理そう自分に言い聞かせて、ベッドから降りることにした。まるで監視でもしていたみたいにタイミングよくシエラが入室してくる。
「おはようございます、シア様」
 元の世界にいたときと、ほんの少し、名前を呼ぶときにアクセントが違う。それは、月の国のシア王女と重ねているからだと気づいた。私の名前は詩亜だと言っても呼び方そのものは同じだから、理解してもらえないかもしれない。それに、昨夜はアレスと約束をした。ちょっとくらいずつでも、シア王女だと思うと。
 シエラに着替えを手伝ってもらいながら、夢の中で見たもう一人の王女の話を訊いてみようと思いついた。
「ねぇ、シエラ」
「どうかしましたか?」
 気遣うような光を浮かべた瞳は、着せられた衣装に注がれている。気に食わないとか思っている? そう気づいて、慌てて首を振った。そうじゃなくて。
「月の国はシア王女と ―― えっと、確か、リア王女?っていう、双子の姉がいるの?」
 夢でシア王女が呼んでいた女性の名前を口にする。途端に、シエラの顔つきが厳しくなった。
「……アレス様からお聞きになったのですか?」
 口調に刺々しさが混ざって、思わず息を呑んだ。首を振ると、『では、誰から?』と視線で促がされる。だけど、どう答えればいいのかわからない。夢で見た、と言っても信じてもらえるとは思えないし。アレスもソーマも、そういえば昨日『陽の国』を始めとしてこの世界のことを教えてくれたシエラも、私とシア王女を重ねて見ることはあっても、姉であるはずのリア王女の名前は一言も出てこなかった。たちまち、違和感を覚える。
(夢の中だけど、仲は良かったのに……。)
 それとも所詮は夢で、実際は口に出すのも嫌なほど犬猿の仲だったとか。

「月の国第一王女は ―― 」

 考え込んでいると、再びシエラが着替えを手伝ってくれながら、話しかけてきた。その顔はやはり固いまま、感情を曝け出さないようにするためか、そっと瞼を伏せて瞳を隠す。
「私はこの国を出たことがないので噂でしか知りません。ですが、どうか、アレス様にはお訊ねになりませんよう」
「ど、どうして?」
「思い浮かべられたら、憎しみが溢れてしまうでしょう」
 ――― 冷たい。とても冷たい声で返されて、身体が固まってしまった。
 リア王女の姿が浮かぶ。あんなふうにシア王女に優しく接していた彼女がどうして、こんな言い方をされてしまうことになったんだろう。羨ましいくらいお互いを想いあっていた二人を思い浮かべる。あれがもし、本当なら、どうして ―― 。

「元気ないね?」
 不意にそう問いかけられて、慌てて視線を向ける。澄んだブルーの瞳が気遣うようにじっと見つめてきていた。アレスと向かい合って朝食を取っている最中だったと思い出して、首を振る。
「大丈夫よ。ちょっと考え事をしてたから」
 心配をかけるのが心苦しくて、笑みを作る。アレスは困惑した表情を浮かべて、肩を竦めた。
「僕で力になれるなら、なんでもいいから言ってほしい」
 真摯にそう言われて、その優しさに胸が高鳴る。だけど、心のどこかでひねくれた思いも確かに浮かんだ。
(何でもいいって言っても、元の世界に帰してほしいという願いは聞いてくれないくせに。)
 そんなことを思う自分が嫌で、急いで振り払う。
 考えていたのは、リア王女のことで、シエラにアレスには訊かないでほしいと言われたし ―― そうなると、口にすることはできなくて、ただ「ありがとう」と微笑んで返すしかなかった。
 その後、目の前に並べられた美味しそうな朝御飯を食べることに集中したので、アレスの瞳に悲しげな影が過ぎったのを見逃してしまっていた。



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