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Word Lond

12 鳥籠

 フィアは部屋の隅々を歩き回って、抜け出せる場所を探したがその隙はどこにもなかった。扉にもしっかり と鍵がかけられている。部屋に入ってくる侍女たちは年老いていて、支度をする間は沈黙を守っているし、その 隙を付いて出たところで、部屋の前には兵士たちが見張りをしていた。
 (なんでこんな……っ!)
 記憶がないとはいえ、兄という存在である皇帝に自分をここまで束縛する権利はないはず。だが、同時に 皇帝に会ったあの一瞬、背筋も凍りつくくらいにおぞましい感覚が身体中を支配したことを思い出した。
 全身が粟立つ。だけど、ナノたちを助けるまでは逃げるわけにはいかない。どうしても牢屋に出向かなければ、と 意思を強く持った瞬間、鍵が開く音がした。

 扉が開いて入り込んできた姿に身体が強張る。

 「お、兄様……」
そう呼びかけると部屋に入ってきた皇帝は、くすりと笑みを零した。
 「私を思い出せていないのに、兄と呼ぶ必要もあるまい。我が名は、ルシアだ」
 スッと頬に伸ばされる手が怖くて、後ずさる。触れてはいけない、と頭の中で警告がなった。皇帝は 不快そうに眉を顰めたが、手を降ろして窓の側に足を進めた。飾り柵があるため外には出られないが、青い空が 広がっているのはわかる。それを眺める皇帝の背中に、懇願する。

 「ナノたちを……。ロイルを……助けてくださいっ。彼らは記憶のない私を助けてくれたんですっ!
 お願いだから彼らに何もしないで!」

 「……おまえは、いつもそうだな」

 静かに告げられた言葉の意味がわからずに、眉を顰める。それまでの穏やかなものとは違い、その口調には 確かな苛立ちがあった。意味を問いかけようとしたとき、皇帝はゆっくりとした動きで振り向いた。

 「いつも、そうだ。私以外のものばかりを見る。初めはこの国を。次はあの神官を。次はなんだ、仲間か? この小さな国が ―― ひとが、それほど大事か?」

 そう紡がれた皇帝の目に飲み込まれそうになった。暗く、深淵の色を湛えた目には、悲しげな感情が浮かんでいる。何か言わなければ、とそうは思うのに、舌が乾き喉が痛みを覚えて言葉を発することができなかった。
 再び、 皇帝の手が伸ばされる。頬にひんやりとした感触があたり、その冷たさに胸が痛む。頬を伝う涙がその痛みの せいなのか、こみ上げてくる恐怖のせいなのか、或いは胸の奥にじわりと潜む悲しみ故なのかもう自分の感情が わからなかった。

 「フィア。おまえはまた、忘れてしまったのだろう。忘れたというなら、おまえにとってそれは大切なものではなかったということだ。記憶など必要はない。おまえはただ、私の傍に在ればいい」

 また、忘れてしまった ――― ?
皇帝の言葉が心の琴線に触れる。同時にシーナの言葉を思い出した。

 『大切なことなら、そのうち思い出すわ』

 忘れたままでいいとは思えない。その中に大切なことがあるなら。
近づいてくる皇帝の顔をまっすぐ視線で貫いた。その視線に皇帝の動きが止まる。それを見ながら、強い
意思を込めて口を開いた。
 「例え記憶がなくても、誰かを大切だと思う気持ちは失ってない。心はちゃんとあるもの。この国が、ナノたちが大切だって訴えてるの。もちろん、ロイルも。だからお願い……っ」
 どんっ、と急に強い力に押されて、バランスを失った。床に倒れるものと覚悟して目を瞑ったけれど、衝撃はなく、柔らかなベットの上に倒されたと気づく。ハッ、と驚いて見上げた先には、覆い被さってくる皇帝の姿があった。
 「お兄様っ?!」
 「 ――― お前の願いは聞き飽きた。この国が、人が大切だと? 豊かな地であるのに、人はその地を自ら汚す。戦という血で。醜い欲望で。自らどうすることもしないで、あの者たちは私が悪いと言う。そのどこが大切だ?」
 問いかけでありながら、皇帝の目は答えを求めていなかった。剣呑な光を浮かべて、押さえつけている手をぎりっと力を込めて掴む。鈍い痛みが襲った。
 「それなら、お兄様はっ。導く者でありながら、なにもせず貴族たちの言いなりになり、国民を苦しめてるわっ。上に立つ者にはそれなりに責任が必要のはず。能力があるのに行使しないなら、その座を降りるべきよっ!」
 何を言っているのか自分でもわからなかった。掴まれている手が、抑え込まれている身体が熱くて、頭の中が 真っ白になっていく。ぐるぐると巡る思考では正常に考えられない。思いつくまま言葉にしているそれが 正しいことなのかもわからない。熱い唇が首筋に降りていく。途端に、心が悲鳴をあげた。

 (助けてっ……! いやっ、こんなのやだっ……!)

 必死に身体を押し返そうとしても、暴れるだけ抑え込む力も強くなる。ちりっとした痛みとともに、肌に触れていた唇が離れて声が聞こえた。

 「私は、言いなりになっているわけではない。長い年月をかけてひとがどこまで変われるのか見てきた。
 だが繰り返される怠惰なひとの愚かさに、私はもう、飽いてしまっただけだ」

――― もういいではないか。

直接、脳裏にそう声が聞こえた。甘く誘う声は、まるで毒でもあるかのように心に優しく語り掛けてくる。
 「満足だろう。封印を解き、この地を支配しふたりで共に過ごそう」
 押さえつけてくる力とは反対に、そっと耳朶に触れる唇から注ぎ込まれる言葉は、理解できないまでもじわりと心の中に落ちてくる。抵抗する力が削ぎ落とされていく気がして、ただ悔しさに涙が溢れてくる。

 不意に、指が ―― 此処を訪れる前に、指に嵌めたカイルの指輪が熱くなった。飲み込まれようとする意識を引き戻すように。

 『呼んで、フィア』

 明らかに皇帝の声とは響きの違う声が、脳裏に響く。聞き慣れないそれは、だけど心の奥でいつも求めていたもの。記憶がなくても、ずっと探していた大切なひと。
 「……っ、」
 再び、唇を重ねようとした皇帝がフィアの顔を見て、眉を顰めた。かまわずに、ただひたすらに叫ぶ。

 「カイル……っ。助けて、カイル!!」

 指輪が熱く光る。指輪の光に気づいて、皇帝が身体を離した。押さえつけていた重みが消えた瞬間、指輪から発される光がフィアを包み込んだ。

 唐突の出来事に驚き、瞠目していた皇帝は、フィアの身体が透き通り始めたことに気づいて、咄嗟に手を伸ばした。
 「ルシア様っ!」
強く名前を呼ばれて、皇帝は手を引き戻される。何をする、と非難しようとした瞬間には、フィアの身体は光とともに消えていた。

 静まり返った部屋で、皇帝は我に返る。先ほど自分の手を引き戻したのが、闇の従者であることに気づいて、跪く闇に問いかける。
 「あれは何だ? なぜ止めた?」
 「恐らく、あの神官の施した光の術ではないかと。闇の神であるルシア様が触れると、火傷を負います」
 その言葉に皇帝は忌々しげに舌打ちする。最後まで邪魔をしてくれるものだ、と苛立ちを抱えながら、先ほどまでフィアに触れていた手を握り締める。
 「……どこに行ったかわかるか?」
 ただ記憶があるだけで、封印されたまま、闇の力が戻ったわけではない自分では、フィアの気配はそう容易には追うことができない。
 「あの時の二の舞を踏まぬように、城に闇の結界を張っておりましたので、少々時間を……」
 用意周到に言う従者に皇帝は機嫌よく笑う。そうであれば、フィアがこの城から出ることはできないだろう。あの時は、油断したためにフィアを城の外に出して、その行方を掴むことができなくなってしまった。ただ、生きているという漠然としたものだけがあって。
 「どうやら、地下牢に移動したようです」
 「なるほど。気にかかる者の元に、か。……鳥籠から逃がすな」
 厳しい口調で命じると、従者は一礼をして姿を消す。自らも扉に向かって踵を返した。
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