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Word Lond

04 正体

 きっかけになるかもしれない。
 フィアは期待していく心を止められなかった。
 意外に自分のことがわからないというのは、もどかしくて。
悔しくて、
 ――― 寂しい。
 記憶喪失であることに、「過去なんて忘れてなんぼよ」とか「人は未来に生きなきゃ」などと慰めはかけられたが、あくまで慰めであって、恐らく本当に記憶を失くしたときそう思っていられるか、本人でなければわからないと思う。それがわかっているのか、シーナやナノはその手の慰めはけして口にしなかった。
 過去がないということは、それまで生きてきた全てが失われてしまうということで。確かにいるはずの両親。兄弟、姉妹。自分を育ててくれた大切なひとや、思い出。あったはずの居場所。その全てが真っ白で、過去も、未来も真っ白で。
 まるでひとり、何もない世界に放り投げられたみたいで、しがみつくものもなくて、不安でたまらなかった。
 いつか還るべき過去がないなんて。
 確かにシーナやナノが家族のようになってくれて、そんな二人や仲間たちはとても大切な存在だけど。それはあくまで、家族のようであって、そうではないから。

 不意に、砂埃になった服を着替えていたフィアは、ころん、と。床に転がり落ちた指輪に気づいた。拾って、もういちど眺める。人差し指で、名前が彫ってある場所を辿った。

 「あなたは、だれですか?」
見ているだけで、こんなに胸がどきどきと高鳴る指輪の持ち主。

 フィアが着替えてくるのを、階下で待っている青年に聞けば、それもわかるだろうか。
 (でも ――― )
 ふと、フィアは指輪を握り締めた。
 期待は膨らんでいる。それは確か。だけど、あの青年の漆黒の瞳を見るたびに嫌な予感が胸にわきあがるのも、確かだった。
 知りたい、という気持ちと怖いという感情。
 より強いのは前者。それは間違いがなく、だから青年を誘った。
 シーナには散々怒鳴られてしまったけれど。待ち合わせに来なかったばかりか、約束していた路地に入り込んで、怪しい男たちに絡まれて。
 それだけ話した時点で、まるでおとぎ話しで出てくる鬼のような顔をしたシーナを思い出して、フィアはまた寒気を覚えた。
 助けられたは良いが、その青年は胡散臭い姿をしていて、更に連れてくるなんて怪しすぎる、と。最後には連れてきたナノの責任問題にまで発展した。平謝りのナノが可哀想で、慌てて「でも、記憶に関係している人みたいだったから」と。そう言って、ようやくシーナは納得してくれた。
 そうして「あんまり心配させないで」と普段は気の強いシーナが涙を浮かべて言ったところで、本当に心配していてくれたんだと嬉しさと申し訳なさで胸がいっぱいになった。
 ありがとう、とお礼は言ったけれどそれだけでは伝えきれないものが温かく心を包んでいる。
 着替えを終えて、フィアは部屋を出て階段に向かった。

 フィアが着替えてる間、シーナがロイルに二人の出会いを教えているところだった。
 湖にいたこと。高熱を出していたこと。それから、意識が戻ったときには、何も覚えていなかったこと。だから、ここで一緒に暮らしていたと。
 話しが終わると、ロイルは安心したように言った。
 「……そうか。あんたたちに助けられて、良かった」
 その言葉や表情に嘘は見つけられず、シーナはナノが言うように、ロイルが悪いヤツではないと確信を持った。本当に、フィアのことを心配していたと伝わってくる。
  それはこのご時世。人買いや、女性を欲という存在でしか見ない男たちもいる。たとえ生きていても、そういう輩に拾われてしまえば、生きていることさえ苦痛になることもある。実際に、シーナもナノが救い出してきたひとの中にそういった女性たちがいて、世話をしたこともあった。
 光を失った瞳。この地は地獄と、生気のない口調で言われたときは胸を引き裂かれるようだった。だから、誰かを心から想うことができる人間に好感を覚える。こんなご時世だからこそ。
 「あんた、いいやつね」
 そうシーナが言った瞬間、空気が重くなった。

 「俺は……」
 ロイルはそう言ったきり口を閉ざしてしまった。重い沈黙。

 まずいことでも言ってしまったかもしれない、と。シーナは頬をかく。重い沈黙に耐えかねて、お茶でも淹れ直そうと椅子から立ち上がりかけたとき、フィアが階段を降りてきた。
 「フィア……」
 「ごめんね、シーナ。ロイルさん、お待たせしました」
 ナノが「俺は用があるから」と市場に残ったせいで、見知らぬ青年と二人っきりにしてしまった気遣いか、フィアはシーナにそう謝って視線をロイルに向けた。
 階段を降りきって、「お茶を淹れ直してくるわ」と、立ち上がって台所に向かったシーナの代わりにロイルとテーブルを挟んだ向かい側に座る。
 フィアはじっとロイルを見つめた。
 俯いていたロイルは、テーブルの上の手をぎゅっと強く握り締める。

 「……本当に何も覚えてない、んだよな」
 覚えてないのか、と繰り返して問いかけようとしていた言葉が、途中で確認するものに変わる。
 フィアはそれを聞いて、シーナが記憶を失っていたときの状況を話してくれたんだと気づいた。だから、「そうです」と頷くだけで止める。
 「覚えていないおまえに、どこまで……」
 ロイルの目が迷うように、宙を見る。その瞳に、フィアはうつっていないような気がした。
 「俺はどこまで話すことが許されるのか」
 ため息混じりにそう言葉が落とされる。
 その口調が、今にも泣き出してしまうような弱いもので、何と応えてあげればいいのかわからなかった。
 言いかけた言葉をやめて、唇を結ぶ。
 二人の間に重い沈黙が下りる。
 「はい、シーナさん特性お茶を淹れてきてあげたわ」
 その沈黙を、得意げなシーナの声が破った。とん、と。目の前に置かれたカップからの匂いが鼻腔を甘く擽る。重かった空気が和らいで、フィアは緊張を解すようにほぅと息をついた。
 一口、飲み込んで。視線をロイルに戻して、思わず息を呑んだ。あまりに優しい目が見つめていたから。
 目が合うと、それはすぐに消えてしまって、ロイルは視線を逸らした。
 「……私は席を外そうか」
 シーナはカップを乗せてきたお盆を持って、離れようとした。
 「いや、あんたもいてくれ」
 引き止めようとしたフィアを遮って、ロイルが言った。フィアは驚いたが、シーナと目が合って頷く。ひとりでは、不安だった。
 シーナもフィアの隣に座ったのを見計らって、ようやくロイルは気持ちにけじめをつけたように、フィアに視線を戻し、まっすぐ見つめると口を開いた。

 「お前の名前は、フィアナ=リグル=ティ=アイリス」

 そう告げられたとき、がたんっ、と。椅子が倒れた。
シーナが真っ青な顔で立ち上がって、テーブルに両手をついて身を乗り出していた。
 「冗談でしょ?!」
 名前の意味はわからなかったが、シーナの驚く様子に不吉なものを感じる。だが、ロイルはフィアを見ながら、その先を続けた。
 「この国の現皇帝の妹だ」
 「えっ?!」
 現皇帝の、妹。
 告げられた言葉を反芻する。

 『忘れたわけではあるまい?』

 一瞬、脳裏に聞こえた声に、ぞっとした。
聞き覚えのないその声は、とても冷たくて。まるで、感情などこもっていなかった。フィアの体温さえも、一気に奪うような ――― 。
 「ちょっ、フィア!!」
 ふらり、と。意識を失って、テーブルの上に倒れたフィアに向かって、シーナは声をあげた。ロイルは慌てて立ち上がり、フィアの傍に行くと抱き上げる。
 「ベットは?」
 「上よ」
 素早く答えると、ロイルはそのまま階段を上がっていく。シーナは台所に向かって、布を濡らすと急いで、ロイルの後を追った。
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