Word Lond
08 勃発
シーナはテーブルに頬杖を付いて、ため息をついた。
「……ため息つくと幸せ逃げるって言うぜ」
とん、と目の前に珈琲の入ったカップを置かれる。目線を上げると、呆れたような表情を浮かべた
ナノが立っていた。帰ってきたときに、フィアとロイルの事情を話したというのに、普段と変わらない姿のナノに苛立ちが募る。
「フィアが皇室のお姫様だったのよ。戸惑わないほうがおかしいと思うわ」
ナノはそんなシーナの苛立つ顔をチラッと見て、小さく肩を竦めた。
「ま、お姫様っていってもねえ」
記憶を失っているとはいえ、その振る舞いを見ても「お姫様」という印象とは程遠かった。
まして、ロイルに話を聞けば聞くほど、国民たちに隠されていた深窓のお姫様はお転婆だったようで。
ナノはどちらかといえば、フィアがお姫様だったことよりも、なぜ城に閉じ込められ、その存在を
隠されて育ったのか、ということが気にかかった。
ロイルに聞いた所で、さすがにそこまでは知らなかったようだが。それとも、うまく隠しているのか。
「ねえ、ナノ。明日、本当に城に乗り込むの?」
ふと、不安の滲む声をかけられて、ナノは我に返った。
まっすぐシーナに見つめられているのを見返しながら、「どうした」と優しく問う。
「わからないけど……。フィアのこともあって、不安なのかも」
困惑するように言う、シーナの珍しく弱気な言葉に笑みが零れる。いつも強気な態度をとってはいるが、実はこんなに弱いところもあると、その全てがナノには愛しかった。
シーナの錆色の柔らかいくせっ毛をくしゃりと撫でる。
「心配すンなって。計画は万全だ」
「……わかってるわ。一度決めたことをあんたがやめるはずないって」
諦めたように言われて、ため息を落とされる。
シーナの髪を撫でた手をそのままとられて、両手で包まれた。
「でもバカバカしいでしょ。皇帝を挑発してただで済むはずないわ」
「シーナ……」
「あんたが殺されたら、私はさっさと忘れていい男を捕まえてやるから、そこんとこ覚えときなさいよ」
強気な言葉に、自然と頬が緩む。
泣いて引き止められるより、ナノの心を突いてくる。ナノは、シーナの手をはずすと優しく身体を
引き寄せて
抱き締めた。
「ああ、ちゃんと覚えとく」
耳元でしっかりと囁いて、シーナの唇に優しく口付けた。
執務を終え、自室までの廊下を歩いていた男は、不意にぴたりと歩みを止めた。廊下には蝋燭さえも並べていないせいか灯りがなく、微かに差し込む月明かりだけが道しるべになっている。
その中に佇む男は、威厳を纏っていた。ただ立っているその姿を見るだけで、畏怖を覚える。
だが、微かな月明かりが照らし出す顔は、美しく整っていた。
切れ長の瞳も、薄く形のいい唇も、男の冷たい印象を与える美貌を際立たせる。
「……手駒はちょうどいい時期に動きそうだな」
男がぽつりと、耳に心地いい低い声で呟く。一言その声を耳元で囁かれれば、どんな女性さえも
引き付けられ、堕ちてしまいそうなほどの美声だった。
その言葉に、闇がざわりと動く。
「半身なしでは私もそろそろつらいよ……」
男はそう苦笑を零した。
ふと、瞳に月をとらえて見上げる。闇の中に浮かぶ、眩い光を放つ月。
―――― 貴方はこの世界を……、彼女を裏切るつもりなのですか。
耳障りな声がよみがえる。
男はふっと、口の端を上げて嘲るような笑みを浮かべた。
「穢れきったこの世界を裏切るも何も……。彼女と私だけが存在していればいいではないか」
ばかげたことだ、と。
男は脳裏に浮かぶ幻影に吐き捨てる。
「もう、時は訪れる」
そう呟いて、目を伏せると見上げていた顔を戻して、男は再び廊下を歩きだした。
―――― まずいな。
ナノは咄嗟にそう思った。
嫌な予感が走る。状況はそう悪いわけではないはずなのに、ナノの生来の勘がそう訴えていた。退却するか、と普段なら迷う間もなく決断している選択ができないでいる。心臓がうるさいほど鳴り、身体中を冷や汗が伝っていた。
ぽたり、と額から零れる汗を腕で乱暴に拭う。
落ち着け、状況は悪くはない。
ぐっと、拳を握ってさりげなく、周囲を見回す。
煌びやかなホール、優雅にダンスや談笑を楽しむ貴族たち。和やかな雰囲気には、ナノが抱く緊張感を募らせるようなものはどこにもない。それでも、服の下に隠している短刀に、いつも以上の重みを感じる。
ふっ、と目の端に同じように給仕の一人として潜り込んでいる仲間を見つけ、それとなく合図を送る。頷きが返るのを確認して、視線を壇上に戻す。空席の玉座が目立っていた。
唯一の不安といえば、皇帝がまだ姿を見せていないことだ。本来、現れる時間からすでに半刻は
過ぎている。仕事で遅れている、と報せはあった。
「 ―― ナノ。近衛隊の仲間からいま連絡があったんだが」
背中合わせで立つ、仲間の一人が周囲に聞こえないよう、小声で話しかけてきた。
「皇帝は今日は来ないと。今は月の神殿の新しい建て直しのために、数人の護衛をつけてそこに向かって
いるらしい」
「……予定変更か」
舌打ちをしたい気分になって、心がざわつく。
どうする、と言葉もなく、後ろに立つ仲間が問いかけてくるのがわかった。一瞬、迷いが生まれる。
さっきまで抱いていた不安。だが ――― 。
「ナノ……。やるなら、今日しかないぜ」
皇帝本人に直接、訴えるにはそれしかない。
その言葉に、ナノはすぐに決断を下した。どんなに不安があったとしても、今日言わなければ、
また次の機会がそう簡単にあるはずがない。
「よし。プラン変更だ。ちょうど近衛隊がこのパーティの警備に当たっていることも確認できた。それなら、
皇帝の護衛たちも少ないことも納得がいく。俺たちも、月の神殿に向かうぜ」
ナノはそう告げると、足早に移動を始めた。
城内の見取り図は頭の中に入っている。警備兵の配置も、交代の時間も。
できる限り人気のない廊下を歩き、完全にパーティーの音楽が聞こえなくなり、灯りの少ない場所に
向かうと、自らの気配を消して、夜陰に紛れる。
周囲を警戒しながら、ナノは図面にあった月の神殿までの道を辿る。ナノの後ろには距離をとって
数人の部下たちがついてきている。別のルートからも、ナノの判断を受けて神殿に向かっているはずだ。
しん、と静まり返った闇の気配が緊張感を膨らませる。
ナノは無意識に手の平を握り締め、ハッと思わず足を止めて地面に伏せた。
視線の先 ――― 。
闇の中に佇む一人の男がいた。
(皇帝 ――― )
遠目からなら勿論、見たことはある。だが、顔さえもあやふやにしか見えないほど遠くからだ。それだって、短く紡がれる皇帝としての言は、簡潔で内容は纏められていたこともあり、頭がいいと
思っただけで、それ以降は特に何も思わなかった。あまり表立って姿を現さなかったせいもある。
表向きなことが必要な政には、腐った貴族たちが我先にと出てきていた。
自らの国でありながら、無関心を決め込んでいる皇帝 ―――― 。
こんなにも間近で見たのは、ナノも初めてだった。
焼け焦げた痕の残る無残な瓦礫のなか、細長い月から淡い光に照らされる姿は、まるで一枚の
絵を見ているかのような錯覚に陥らせる。ただ立っているだけなのに、そこ一帯に威圧する空気が
ぴりぴりと放たれていた。
無意識に咽が鳴る。
いつもは、どんなに緊張を要する場面でも、それを楽しむ余裕さえもっている自分が、今は全身に
冷や汗が流れ、見つけた瞬間に素早く飛び出そうと決めていた足は鉛がついているかのように重く
動いてはくれない。
ナノは汗ばんで小さく震えている手の平を握り締めた。
「おまえたちは、パーティの警護に戻れ」
皇帝がふと発した声に、ナノはハッと息を呑む。
「ですが、皇帝をおひとり残していくなどできません」
「かまわない。私はもう少しここにひとりでいたいのだ」
背後に控えている数人の近衛隊に、振り向くこともせず皇帝はそう言った。
それ以後、何もしゃべらないところを見ると、恐らく何を言っても皇帝が命令を変える気がないと
いうことなのか、近衛隊のリーダーらしき男が「では、しばらくお傍を離れますが何かありましたら
お呼び下さい」と畏まって礼をする。近衛隊はパーティーの行われているホールに向かっていった。
(絶好の機会だな)
まるで今日しかないと、運命さえも応援してくれているかのようだ。そう思いながら、ナノは
皇帝の動きを目で追った。
「……もうすぐ、月は消えるぞ」
ぐしゃり、と皇帝はかろうじて残っていた焦がれた瓦礫を踏みつける。
その一瞬、皇帝が纏った空気にナノはぞっと背筋に寒気が走るのを感じた。今まで感じたことのない
恐怖。身体中が震えて、足が竦む。
自分らしくないことはわかっていたが、それほどに皇帝が纏う雰囲気におぞましいものを感じた。
だが、いつ近衛隊が戻ってくるかもわからず、躊躇っている時間はない。
ナノは同じく潜んでいる仲間たちに合図を送り、短刀を鞘から抜き取って皇帝の前に飛び出した。
「こんばんは、皇帝さん」
先刻まで感じていた恐怖を押し隠して、あくまでとぼけた口調で声をかける。
皇帝は慌てるでも、取り囲まれた人数に恐怖を覚えるわけでもなく、ただ変わらない姿勢でナノの顔を見ていた。愉しげに口の端を吊り上げる。
「私に用か?」
短く問われた言葉に、ナノの眉が跳ね上がる。感情を抑えて紡ぐ声は、いつもより低くなった。
「ああ、そうさ。皇帝さま。あなたに用があるからこうしているんだろう。そんな当たり前なことを
訊くんじゃねえよ」
――― ほう。
どこか感心したような口調で、皇帝は笑った。まるで、バカにするかのように。
ナノを含めて周囲にいる仲間たちにも殺気が浮かぶ。
「こいつらは俺より短気だ。口の利き方に気をつけたほうがいいぜ」
「そんなことを言うためにわざわざ来たわけでもあるまい。用件をさっさと言ったらどうだ?」
ナノの言葉を皇帝は肩を竦めて受け流し、そう問いかけた。
「あんただって、国民がいま何を望んでいるのかわかってるんだろ?」
皇帝はそれに、ふっと嘲笑う。
「国民の望み……。豊かな土地、飢えることなどない食料。それと、なんだ。争いのない国か?」
スッと、ナノの目が細まる。剣呑な光が浮かんでいた。手に持つ剣が月の光に煌く。それでも
皇帝の言葉は続いた。淡い月の光が頼りの暗闇の中でも、その目には狂気が宿っていることがわかる。
「 ――― もちろん」
射抜くような視線で皇帝はナノを見た。その視線の意図するものを気づいてハッと我に返る。
「全て叶えよう」
逃げろ、とナノが合図を発するよりも早く、闇がざわりと動いた。
次々に仲間たちが崩れ落ちていく。
「私の愛しき片割れとともに」
そう、まるで唄うように皇帝が紡いだとき、ナノ以外の全員が手も足も出せないまま、倒れていた。
ナノ自身、鉛をつけられたように、足が動かない。闇が纏わりついたような、嫌な空気に
包まれていた。
(愛しき片割れ ――― ?)
皇帝の言葉に眉を顰める。
「まさか ―――― !」
すぐに思い当たって、その名を紡ごうとした瞬間、ぐっ、と咽が強い力で圧迫された。もがいても、その感覚はとることができずに、意識が薄れていく。
「全ては私たちのためにあるのだよ」
嬉しそうにそう言葉を口にして、狂気に染まった目をした皇帝の姿を薄れいく意識の中で最後に
見ながら、ナノは全ての終わりをそこに見たような気がした。
(悪い、シーナ……。フィア……)
愛しい者たちの顔を浮かべながら、ナノは意識を失った。
皇帝は嘲るような視線を地面に倒れている男たちに向けて、すぐにその存在を忘れたかのように、
月を見上げた。
「我が主、こいつらをどうします?」
皇帝の傍に闇の塊が現れる。それが発した声は、どこまでも冷え切っていた。
「今は殺すな。片割れを呼び出すよいエサになるだろうよ」
愉しそうな含んだ笑いを零しながら言う皇帝の言葉に、闇の塊がお辞儀をするかのように動く。
「御意 ――― 」
一瞬で、倒れていた男たち同様、闇の塊は皇帝の周囲から姿を消した。
静けさを取り戻した焼き焦がれた神殿の前で、皇帝は嗤う。見上げた先の月をまるで、抱き締めるように両手を差し伸べながら。
「もうすぐ、私たちはひとつとなり、この世界を……」