Word Lond
09 捕縛
フィアは月を見ていた。
ぼんやり、と。
寂しくて手を伸ばそうとして、不意に後ろから優しく抱き締められた。
「だれ……?」
問いかけに返事はなくて、振り向こうとしても、見えない力に束縛でもされたかのようにできなかった。
だけど、嫌な感じはしなくて ―― それよりも懐かしいぬくもりにとても安心して、なぜか泣きたい気持ちにかられる。確かに知っているはずなのに、思い出せない。
『守ってください』
優しく ―― だけど、真の強い声が響く。
その懐かしい音に、フィアの頬に熱いものが流れる。懐かしいのに、わからなくて。
胸がぎゅっと押しつぶされる。
痛くて ――― 苦しくて。苦しくて ―― ……。
「あなたは誰なの……?」
だが、フィアのその問いかけには答えは返らずに、ゆっくりと、そのぬくもりは空気に溶けていった。
「待って! ちょっと、待って!」
慌てて振り向いて、そう叫ぶけれど、答えは返らなくて。
そこにはなにもなくて、また、フィアは泣きたくなった。
「フィア?」
優しく呼ばれた名前にハッと、フィアは目を覚ました。
ぼんやりとした視界の中に、シーナの顔がある。少しづつ覚醒していくと、シーナが心配する顔つきでいることに気づいた。慌てて笑顔を浮かべる。
「おはよう、シーナ」
とん、と。身体が引き寄せられて、シーナの腕に優しく抱きとめられる。
「シーナ?!」
「無理はしないで。泣きたいなら、泣いてもいいわ。私はあんたが心から笑う顔が好きよ」
強い言葉に、くしゃりと。フィアは顔が歪むのを感じた。
どうしてこんなに優しいの ――― ?
ひとに、―― 出会って、間もなくて。それも皇帝の妹という事実を突きつけられた今、それでもどうしてこんなに優しくしてくれるのか。
「だって、放っておけないのよね。手の掛かる妹…って気がするじゃない」
くすり、と笑ってシーナは、ぽんぽんと背中を叩いてくれた。
自然と笑みが零れる。ああ、ここにいてもいいんだ、という気持ちになった。
安心して胸を撫で下ろすと、不意にシーナの身体こそが震えていることに気づく。身体を離して、「シーナ?」と呼びかける。
「なんでもないわ、大丈夫よ」
その震える声に、とても言葉通りには受け止められない。いつも気丈なシーナがこうまで不安に揺れる姿をあらわす理由なんてひとつしか思い浮かばない。
「ナノさんに何かあったの?」
「違うわ、なんでもないの。もう休みなさい」
「シーナ!」
安心させるように微笑まれても、その顔は今にも泣き出しそうでとても頷けるものじゃない。
「あの男、皇帝に捕まったそうだ。いま、俺の知り合いに連絡が取れた」
そう言って現れたのは、ロイルだった。びくり、とシーナの肩が揺れる。
ロイルは、身に着けたままだった外套を脱いだ。
シーナにナノの事情を聞いたロイルは城に戻り、彼らの動向を追った。ナノたちの動きがあったにしては、
静かな城内に訝りながら、こっそりロイルは知り合いのツテをたどって情報を手に入れることができた。
「無事なの?!」
青ざめているシーナに代わって、フィアはベットを降りてロイルの傍に行く。じっと見つめてくるフィアの目を見返して、ロイルは頷いた。それを見て、シーナもほっと息をつく。
「命の心配はないだろう」
ロイルの言葉に引っ掛かりを覚える。フィアは彼の目にどこか思いつめたように光があるのに気づいた。
「それなら、だいじょうぶ。ナノの仲間たちがきっと助け出してくれるわ」
明るくそう言って、シーナが立ち上がった。不安そうな顔をするフィアに笑顔を返して、ドアに向かう。
「何か食べるものでも用意するわね」
そう言って出て行った。
ばたん、と閉まったドアの向こうで、走り去るシーナの足音が聞こえる。フィアたちに
心配をかけないように、明るく振舞っているのはわかる。フィアは追いかけようかと思ったが、
それよりもロイルに聞きたいことがあった。シーナにもひとりになる時間が必要だと思うし、と言い聞かせる。フィアは窓の外をじっと見ているロイルに話しかけた。
「ナノさんの命は無事ってどういうこと?」
その言葉に、気まずげに苦笑を零された。窓から視線を向けられてロイルの目を見たフィアは息を呑んだ。
思いつめた目は苦しげで、切羽詰った雰囲気が感じ取れた。それでも、言葉にするのを躊躇っているようで、フィアは嫌な予感を覚える。
「教えてっ、お願い!」
ロイルの腕を掴んで揺する。
「……皇帝に直接歯向かって生きていた者はいない。生かされているんだとしたら」
その言葉にフィアは気づいた。
わからない。理由なんてわからない。
だけど、なぜかそうであると、フィアの心が告げていた。今はない記憶がどうすればいいのかを思い起こさせる。それを止める思いとともに。
「ロイル……。私、明日城に戻るわ。連れて行ってくれる?」
このままナノを見殺しにするわけにはいかない。助ける方法があるなら、できることをしたい。
きっとシーナに言えばダメだと反対されるだろう。
フィアはじっとロイルを見つめた。
「……いいのか?」
ロイルの目が戸惑うように揺れる。
最初から城に連れ戻すために彼はフィアを探していたはずなのに。どうして今更、そう聞き返されるのかわからなかった。不思議に思いながら、頷く。
「シーナに気づかれないようにね」
これ以上、心配はかけたくないから。
そう続けて言うと、不意にロイルが腕を掴んだ。強い力で引っ張られる。
「……?!」
気がつくと、ロイルの腕の中にいて、ぎゅっと強く抱き締められていた。
――― どくんっ。
胸が高鳴る。身体中の血が逆流するかのようだった。
突然の行為に慌てて身体を離そうとして、ロイルの低い声が耳元で聞こえる。
「……守らせてくれ」
小さく囁くような声だったが、その声はあまりにも真剣で、まるで縋るような言葉に胸が痛くなる。
喉が熱くなり、一気に乾いて、声がかすれてしまう。
「ロイル……」
「俺に、おまえを守らせてくれ」
抱き締めている腕に力がこもる。言葉と同じように、縋るようなその動きに、フィアはハッと我に返って、
ロイルを突き飛ばした。
(「嘘つきっ! ……の嘘つきっ! 酷いっ、――― 大ッ嫌いっ!!!!!」)
急に脳裏に浮かんだ罵倒する言葉の羅列。
それが何かはわからないまま、フィアは戸惑うように呆然と、ロイルを見返した。唐突に突き飛ばされた
ロイルも一瞬、驚いた顔をしていたがすぐに諦めたように苦笑を零して、両手を力なく下ろした。
「……悪かった。俺には……そんな資格ないのに」
あまりにも苦しげに呟かれる言葉に、フィアは反射的に叫んでいた。
「違うのっ! そうじゃなくてっ! そんなんじゃない……けど」
だけど、どう言えばいいのかわからない。
忘れてしまった記憶はフィアを混乱させるだけで、ロイルにかける言葉を見失う。
「……ごめんなさい」
そう謝ると、ふっとロイルの顔に柔らかい笑みが浮かんだ。ぽん、とロイルの大きな手の平が頭にのる。
「いいんだ。それでもきっと、俺はおまえを守る」
その行為と言葉に、心の中から懐かしさが溢れてくる。フィアは自然と笑顔を浮かべることが出来た。
「有難う」
ロイルは握り締めていたもうひとつの手にぎゅっと力をこめた。
ナノを取り返してきます、と。
短い言葉だけの書き置きをテーブルの上に残して、フィアはふと、家の中を見回した。
恐らく昨夜はナノが心配でシーナは眠れなかったらしく、真っ赤な目でテーブルで祈るように
肘を突いて、両手を組んで、椅子に座っていた。だから、ロイルに手に入れてもらった睡眠薬入りのお茶を飲ませて今は2階でぐっすり眠ってもらっている。
目覚めたときには、真っ赤な顔で、まるで鬼のような形相をしながら怒るに違いない。
(「――― フィアっ!!」)
シーナの怒鳴り声がなんだか懐かしくて、フィアは寂しくなった。もう二度と聞けなくなるかもしれない。そんな予感がする。
例えば、城に戻ったとしても記憶がないと言って、姫であることを放棄すればまたこうやってシーナたちと暮らすことが出来るかもしれないけど。でも、その望みは薄いような気がした。
それでも、フィアの帰ってくる場所はきっとここだと思う。
シーナが出迎えてくれて、ナノが待っていてくれるこの場所 ――― 。
「フィア、そろそろ……」
玄関でロイルが言った。ひとつ頷いて、玄関に向かう。ドアノブに手をかけて、もう一度だけ部屋の中を振り返った。
「 ――― 行ってきます」
その言葉を残して、フィアは玄関を開けて足を踏み出した。