……ここは?
ぼんやりと浮かんでくる天井に、世羅は見覚えがなくて、ゆっくりと起き上がる。
「お、やっと眠り姫のお目覚めか?」
声が聞こえてきたところに視線を向けると、別れたはずの怜の姿があった。
「先輩?」
きょとん、と自分を見る世羅に苦笑しながら、怜は持っていた携帯をテーブルに置くと、彼女が寝ているベッドの側まで椅子をずらして、呆れたような声で訊いた。
「覚えてねぇーの?」
その口調に素直にハイ、と答える気は起こらず、世羅は慌てて脳裏を巡らせて、記憶を引っ張り出す。
「確か、ピアノ教室があるから聖と先輩と別れて……」
歩いてたら、中学のときの不良グループに路地裏に連れて行かれ、それから ―― ?
世羅はそこまで思い出すと、ハッ、としたように自分の身体に手を当てる。制服じゃなくて、着ていたのは大きめのシャツだった。
「わ、わたし ―― ……」
顔から血の気が引いていく世羅に、気軽そうな口調で怜が言う。
「心配しなくても、あいつらには指一本触れさせてないぜ? 雨に濡れてたからそれ着替えさせたの俺だし、世羅ちゃんの制服はあっち」
そう言った怜の視線を追って行くと、確かに綺麗にハンガーにかけられている制服があった。
ホッ、と胸を撫で下ろす。
「ありが…なんですってっ??!」
お礼を言いかけた世羅は、『着替えさせたの俺だし、』という言葉に思わず声をあげた。
「じょーだん。隣に女の人がいるからさ、その人に頼んだよ」
悪戯っぽく見つめられて、世羅はため息をついた。それを見てから、怜は立ち上がり台所へ向かう。
「でも、どうして先輩が ―― ?」
「それがさ、言い忘れたことがあって慌てて追いかけたら不良グループが調子にのってただろ? 俺がカッコ良く助けたっていうのに、世羅ちゃんってば気を失ってるんだもんなぁ……」
小さく肩を竦めて残念そうに言う仕草は演技がかっていて、世羅はとても本気とは思えず、話の半分は受け流す。引っ掛かったことだけを口にした。
「言い忘れたこと?」
世羅が訊くと、怜は台所から二つのカップを持って出てきた。
熱いぜ、と手渡されたそれには真っ白なミルクが入れてあり、湯気がのぼっていた。
「ありがとうございます」
今度こそ、にっこりと笑みを浮かべて世羅は素直にお礼を言う。
「 ―― っても、俺も忘れちまったけどね」
怜はそう言って、コーヒーの入ったカップに口をつける。
そうですか、と世羅も頷いてカップから伝わってくるぬくもりを確かめるように、両手で持つとゆっくり飲んだ。
沈黙が流れる。
黙り込んだ彼よりも先に、口を開いたのは世羅だった。
「それにしても、先輩ってこんな広いマンションで暮らしてたんですね」
天井を眺めて部屋全体に視線を巡らせながら世羅が言うと、どうでもいいことのように怜は言った。
「たいしたもんじゃないさ。ひとりで住むには広すぎたよ」
「えっ ―― 、ひとりって?」
驚いて聞き返す世羅を見て、怜は首を傾けた。
「言ってなかったっけ? 俺、両親いねーんだぜ?」
あっけらかんに言われて、一瞬どう返事をすればいいのかわからず言葉に詰まる。結局はふぅん、と頷くだけに留めた。どう見ても、怜の表情は同情を求めてはいなかったし、世羅自身それをするのは苦手だった。
それが正解、とでも言うようにぽんぽん、と軽く頭を叩かれる。空になったのを見計らって怜はカップを受け取り、再び台所へと戻っていった。
その間も、世羅は好奇心に満ちた瞳で周囲を見回す。
どうしてだろう ――― ?
ここにはとても人が住んでるような雰囲気がなかった。
テレビとか ――― 、コンポとかもなく。ただ生活に最低限必要なものがあるだけ。ベッド、テーブル、恐らく数少ない家具も元々備え付けられているものだけだと思う。
「先輩って案外モノとか置かないんですね?」
「必要ないからな。……でも世羅ちゃんが一緒に住んでくれるなら置いてもいいけど」
怜はふっと楽しそうに笑って言いながら、ハンガーにかけてある世羅の制服を取ると彼女に渡した。
「どうしてそうなるんですか?!」
ムッ、となって怒る世羅を笑いを浮かべて受け流すと、怜は着替えるよう促す。
「あっち向いててくださいよ?」
世羅の言葉に怜は肩をすくめると、ハイハイ、と笑って彼女から背を向けた。
それを確かめてから、世羅は着替え始める。
濡れていた、といわれた制服は、乾燥機にでも入れたのかすでに乾いていてわずかに温かい。
「でも先輩って、いつも私の危ない時に助けてくれますよね?」
ふと思って、何気に聞くとからかうような答えが返って来る。
「愛ゆえってやつ? やっぱり世羅ちゃん、俺に乗り換えた方がいいんじゃないの?」
「もう! 誤魔化さないで下さい! ホントのところはどうなんですか?!」
そう言われて、思わず怜が振り向くと頬を膨らませて怒っている少女の姿があった。どこかその姿が懐かしい存在とぶつかって、怜は眩しそうに瞳を細める。
「……先輩?」
世羅はじっ、と自分を見つめてくる彼に、戸惑うように声をかけた。
「残念、着替え終わってたか……」
制服を着ている彼女に、真面目な声でそう呟く。
世羅は傍にあった枕を怜の顔めがけて投げつけた。
「人が真剣に聞いてるのに…! 先輩の真実っていったいどこにあるのっ?」
パフ…。
激しい口調で言う世羅の台詞とは違って、情けない音を立てて枕は怜の顔面に直撃した。
「?!」
避けるだろう、そう思っていた彼女は、驚いた顔をする。
枕が落ちた瞬間、怜が動いた。
「先輩 ――― っ?!」
ベッドの上に押し倒された世羅は、信じられずに息を飲む。
自分を見下ろしてくる怜の黒い瞳が、やけに冷たい光を浮かべていて、いつものからかうような雰囲気は微塵も感じ取れなかった。
「真実だって? 俺の真実なんて知った所でたいしてかわりはないさ」
「ど、うして……?」
逃れようともがくが、腕を抑えつけられてそれもままならず、それでも彼をまっすぐ見つめて訊いた。
「だってそうだろ? 俺の真実を知ったからって、おまえの聖への愛はかわらない!」
どこか苛立ったように言われる。
世羅は冷たいだけの光を含んでいた彼の黒色の瞳に寂しげな影がちらつくのを見つけた。なぜか切なくなって、――― 泣きたい思いにかられた。
ぴーんぽーん、
ベッドの上で見つめ合う二人をよそに、どこか間の抜けた音が鳴った。
「相変わらずいいタイミングだな……」
怜は苦笑交じりにそう呟くと、抑えつけていた世羅を放して、ベッドから身を起こした。そのまま何もなかったように玄関に向かって行く。
――― ほぅっ、
世羅は安堵に息をついた。
けれど、つかまれた腕が……、手首が痛い。
今もまだ怜の冷たい光を宿した瞳が ――― その奥に見つけた寂しさを訴えるような想いが、まるで刻まれたように思い浮かぶ。
「世羅っ?!」
途端、ドアを開く激しい音とともに飛び込んできたのは聖だった。いつも冷静な彼が焦った顔で、慌てた様子で。
「聖……、どうして?」
「先輩から連絡もらったんだ」
聖はそう答えると、そっと世羅の身体を抱きしめた。
全てを包み込んでくれるかのようなぬくもりに、今まで以上の安堵が広がっていくのを世羅は感じていた。
「どこも……怪我はないか?」
優しく抱きしめたまま、聖は訊いた。
「……うん、先輩がすぐ助けてくれたから」
頷きながら、聖に気づかれないように世羅は手首に残る痕を腕の服の裾を伸ばして隠す。この痕は見られたくなかった。
「そうか。無事を確かめるまで生きた心地しなかったんだ」
ここまで全力疾走でもしてきたのか、背中がびっしょりと汗で濡れてることに気づいて、心から安堵したように息をつく彼に、言い知れないほどの愛しさが溢れてくる。
「無事に決まってるだろ? 俺の縄張りで世羅ちゃんに怪我させるわけない、ない!」
それまで黙って見守っていた怜が、ふざけた口調で割り込んできた。
いつもの先輩 ―― だけど、さっきとは雰囲気がまるでちがう。それを知らない聖はその言葉をいつものようにハイハイ、と受け流しつつも怜に言った。
「先輩、ほんと有難うござ ―――」
「ストップ! お前に礼を言われることはしてないぜ? 愛しのキミが危険な目にあってたら男として助けるのは当然だろ」
それで案外、世羅ちゃんが俺に惚れてくれるかも、だしなぁ ――― 。
ニヤニヤ、と笑みを広げる怜に冷たい視線を聖は向ける。
「わかりました。じゃあ、世羅は連れて帰りますから」
そう言って、ベッドから起き上がり帰る準備を済ませていた世羅の手を取って、玄関へ足を向けた。
「気をつけて帰れよ!」
追い掛けて来るわけでもなく、ただ怜の声だけが二人の背中に届く。
「怜先輩、ありがと ―― !」
靴を履いた世羅は最後にそう告げて、聖に引っ張られるままマンションを出て行った。
「 ――― 失敗したな」
苦笑いを浮かべて、怜は窓辺に立ったまま一人そう呟く。
だが、わけもわからず募ってくる苛立ちがどうしようもなくて。つい、面影のちらつく世羅にぶつけてしまった。
それでもまだ苛立ちは胸の中で燻っている。
『世羅を連れて帰りますから』
耳に残る言葉に。
それを告げた男ごと引き裂いてやりたい。そんな感情が支配する。
思わず怜は側にあった灰皿をつかんで壁に投げつけた。
「くそっ ―― !!!」
言葉も、感情のままぶつける。
ほんとうは。俺が本当に引き裂いてやりたいのは。
全てを忘れたまま、幸せそうな顔をしているあいつ。
ちがう。
たとえ全てを忘れていても。幸せに笑っていてくれればいい。なのにあいつは、なにもかも忘れてるはずなのに。
『 ――― 先輩の真実ってどこにあるの?!』
まっすぐ見つめてきてそういったあの言葉は、あいつが忘れた記憶の中にあるハズなのに。
そう。本当に引き裂きいてやりたいのは、自分は忘れていながら、俺にその存在を突きつけてくるあいつだ。
「冗談じゃねぇ。思い出させてたまるかよ」
今度こそ手に入れたいから。
彼女を ―― あの魂を。
そうは思いながらも、心のどこかでは、思い出して欲しい……。そう望んでいるような気がして。
怜は、混乱する想いを抱えながらバスルームへ向かっていった。
全てを洗い流すために ―――
◆◆◆◆◆◆
マンションを出て自宅への道を歩きながら、二人はずっと無言のまま、ただ手だけを繋いでいた。
いつもなら優しい時間とさえ思える、ふたりの間に流れる沈黙が今はなぜか重かった。
「……雨、止んでたんだね」
やがて、世羅がふと空を見上げて呟いた。
「本当だ。気づかなかった」
聖も空を見上げて、雲間に青い色を見つける。やけにその色が眩しく、聖は思わず瞳を細めた。
「聖?」
どこか怯えるように呼びかけられて、聖は驚いたように振り向く。
「なに? どうかした?」
「ううん。なんだか ―― 聖がどっか行っちゃうような気がして」
優しい声で聞かれた世羅は、戸惑うようにそう答えた。
それに苦笑しながら、彼女の手を握っている自分の手に聖は少しだけ力を込める。
「俺はどこにも行かないよ。ここにいる。世羅の傍にずっと」
フッ、と優しい笑みを見せる聖に頷いて、だがすぐに不安そうな顔をした彼に気づく。
「世羅こそ、どこにも ――」
「行かない。私もここにいる。嫌だって言われても、ずっと傍にいる!」
聖に最後まで言わせることなく、世羅は彼の言葉の後を次いで言った。
嬉しそうな笑みを浮かべて、聖は手を繋いだまま歩き出す。
その背中を見つめる世羅の瞳には一瞬だけ、寂しそうな光が浮かんでいた。
世羅は玄関まで送ってくれた聖と別れると、まっすぐ自分の部屋へ直行する。
両親は1年前から外国にある母親の実家で暮らしていて、聖と離れるのが嫌だった世羅は、一人この家に残っていた。
制服を着替え、世羅はベッドに横になった。
――― ふぅ。
ふと伸ばした手に、くっきりと残る痣。怜先輩につかまれた時の……。
どうして。
確かにあのとき抑えつけられてて、怖かった。でも。そう、でも嫌悪はなかった。
「嫌じゃなかった……?」
声に出してみる。
ちがう。そんなことない!
思わず世羅は頭を横に振った。
ちがう、ちがう ――― そう思いながらも、別の心が言う。
きっとあのとき、聖が来なかったら。寂しそうな瞳をした怜先輩を、抱きしめていたかもしれない自分がいる。彼を好きになったとかじゃなくて。きっと、それとはちがくて。
ただ ―――。
不意に痣に冷たい感触を感じて、世羅は我に返った。
そこに涙が落ちていて ―― 泣いていることに気づいた。
頬を伝う涙にそっと触れる。
胸が痛い。
締めつけられるみたいで ――― 。
先輩や聖に見つめられる時、ふと感じる胸の痛み。
思い出して……。
―――― 思い出さないで!
相反する想いが心を揺らがせて時々、どうすればいいかわからなくなるときがある。二人には言えないけれど……。
「不安なの……?」
ふと呟いた言葉に世羅しかいないその部屋で、答える者はいなかった。
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