「まさか、そんな身体で邪魔しにくるとは思わなかったよ。せっかくの余興だったのに」
世羅は慌てて振り向こうとしたが、背後から青年に抱き締められる形になり、それができなかった。
「離して!」
暴れる彼女の耳元で青年は囁くように言う。
「いい子だから、おとなしくしておきなさい。君に危害は与えないから」
一瞬、世羅の中に突き刺すような恐怖が走りぬけた。
「余興か。こいつらに何をした?」
怜は周囲の不良たちを見まわし、最後に青年を睨みつける。
彼は愉しそうに答えた。
「聖水だよ。私に忠誠を誓う者のね。メイフェルと言ったかな。彼の翼をむしって流れ出た血を飲ませたのさ。効果は君も知っているだろう?」
怜の顔から血の気が引いていく。
「そんなことをすれば、天使は気が狂い、もがき苦しむってことを知らないわけじゃないだろ?」
「その心配はいらないよ。私の役に立ってくれたからね。聖なる血を採ったあとは、すみやかに命を絶ってあげたから」
にっこり、と笑って青年は更に言った。
「彼もこの私の役に立てて喜んでいるさ」
狂ってる ―― 怜はそう思わずにはいられなかった。
青年は手を軽く上げる。
「さあ、余興の続きをはじめよう!」
そう告げるとともに、二人を取り囲んでいた不良たちがまた動き出した。
「聖っ! 怜先輩!」
攻撃を受け始めた二人に世羅は叫ぶ。
傍に行きたくても、青年の力に抑えられてできなかった。
「離してっ!」
なんとか青年の手から逃れようともがきながら、世羅は言う。
天使とか、羽根とか聖水とか。
意味はわからないけれど、青年が不良たちを動かしていることはわかる。そのために、恐ろしいことをしたことも。
「もし貴方が彼らを動かしてるのなら、今すぐ止めて!」
びくり、ともしない彼の力に、世羅はそう叫んだ。
「なぜ、止める必要がある? せっかくの余興だ。君も楽しみなさい」
この人は ――― なにを言ってるんだろう。
今も聖と怜の二人が必死に不良たちと戦っているのに。
怪我をしているのに。
「待ってな、世羅ちゃん。こんなヤツら、すぐに倒して助けてやるぜ」
涙を浮かべている世羅に気づいて、怜が不良の攻撃を避けながら、不敵な笑みを浮かべて彼女に言った。
「余裕だね。だが、この前の傷も治ってないだろう?」
青年の言葉に世羅は驚いたように彼を見た。
そう。よく見れば、怜の額からは汗が流れるように出ている。
ふと、視線を落とすと彼のわき腹あたりに血がにじみ出ていた。
「怜先輩!」
「心配すんなって。たいした傷じゃねぇさ」
そう言いながらも、怜は不良たちの攻撃を避け、剣の柄でなんとか彼らを気絶させようと頭の後ろを打ちつける。
それでも、隙のない彼らを相手にするのは簡単じゃない。
動くたびに傷がズキリ、と痛んだ。
「大丈夫ですか? なんなら、影で休んでても平気ですよ。俺ひとりでも」
からかうように言う聖もだいぶ疲労が顔にあらわれていた。
世羅が見知らぬ男に捕らえられているという焦りもある。
「素直じゃねーな。たまには、ありがとうくらい言えないのかよ?」
聖はそれにフッ、と笑みを見せる。
だけど、このままだとキリがない……。
倒しても倒しても立ち上がって来る不良たちに聖は、流れてくる冷や汗を手の甲で拭いた。
「お願い! もう止めてっ! 止めてよ!!」
世羅の悲痛な声が響く。
「いい声だね、セラ。そんなに彼らが心配かい?」
青年は彼女の髪を手で梳きながら、そう聞いた。
ぞくり、と嫌な感覚が世羅に恐怖を与える。だが、それに負けないよう言葉を紡ぐ。
「あ、あたりまえでしょう! お願いだから……、もう止めて!」
「そうだね ――― 」
青年は少し思案するような声で頷くと、右手を動かした。
そこに金の杯が現れる。
「君がこれを飲んでくれるなら、止めてあげてもいいんだけどね」
そう言って杯を世羅の前に差し出した。
中には赤い液体が入っている。
「な、なに……?」
「あの不良たちが飲んだ聖水だよ。どうする?」
世羅の顔から血の気が引いた。
聖水。言葉だけなら聞いたことがある。
魔から身を守ると言われる聖なる水のはずだが……。
青年の口調からだと、とてもそうは思えない。
「もちろん、飲まないならそれでも私は構わないよ。一緒に余興を楽しもう。あの二人が倒れるまで、ね」
迷っている世羅に愉しそうな口調で青年は告げた。
聖と怜が苦戦しているのは明らかだった。傷から血が流れている。
覚悟を決めるため、世羅は一度目を閉じた。震えそうになる身体に力を入れて、自らを押さえつけている青年に問いかける。
「本当に飲めば、助けてくれるの?」
「約束して差し上げましょう」
笑みを零しながら、青年は答えた。
目を開けた世羅は金の杯に手を伸ばし、それを受け取る。
二人を助けたい。
世羅の頭の中はその想いだけでいっぱいだった。
金の杯を青年の手から受け取り、口元に寄せる。冷たい感触が唇から伝わってきた。世羅が杯を傾けようとしたとき、
ガチャン!!!!!
とつぜん、彼女が手にしていた杯が弾け飛んだ。
「っ?!」
青年と世羅は驚いたように目を見張る。
「あんまり調子に乗るなよ? ―――― アレクシエル」
冷たい声が響きわたった。
青年の名を呼んだ怜は、手にしていた剣の切っ先を彼に向ける。剣は黒い光に包まれていた。
「怜先輩……?」
世羅は呆然と彼の名を呼ぶ。聖も息を飲んで怜の姿を見つめていた。
「私の名を気安く呼べる立場かい? 堕天使、ルシファー」
怜の背中には黒い翼があった。
闇よりも深い真っ黒な翼が。
堕天使、ルシファー。
世羅と聖はその姿を呆然と、眺めていた。
「世羅ちゃん、聖! 目を閉じてろっ!」
そんな二人をよそに、怜は不意に叫ぶと、剣を振り上げ一気に降ろした。
眩い光が周囲を包む。
目を閉じても、光が入り込んでくるような感じだった。
光が消えて、ゆっくりと目を開けると聖と怜の周囲にいた不良たちが倒れていた。
なにが起こったの ―――― ?
戸惑い周囲を見まわす世羅は、ふと自分を捕らえている青年の腕に力が込められたのに気づく。
「さすが、堕ちても天使、といったところか」
面白くなさそうに言うと、アレクシエルは世羅の耳元に唇を寄せた。
「 ―――― ってるよ?」
小さな声で囁かれ、世羅は思わず振り向きそうになった。
だが、彼はそれを許そうとしない。
「余興はもう終わりだ。彼女を放してもらおうか?」
「私が素直に頷くとでも? わかっているだろう、ルシファー。セラは私のものだよ」
アレクシエルは金色に輝く瞳を細めて、こたえた。
「知っているだろう?」
更に問いかける彼に、怜は黙り込んだ。
代わりに聖が叫ぶ。
「ふざけるな! さっさと、世羅を離せ!」
アレクシエルの視線が、聖へと向けられる。
その瞳には見たものを一瞬で凍りつかせてしまいそうなほど冷たい光が宿っていた。
「セイ、まったく君はたいしたものだ。私たちの目を盗み、彼女を奪ったんだからね」
言葉に宿る剣呑な雰囲気に聖が疑問をぶつける前に、世羅がおもいっきりアレクシエルの靴を踏んだ。
「 ―――― っ?!」
アレクシエルの力が緩んだその隙に、彼の腕の中から逃げ出そうとしたが、青年はそれでも世羅を離そうとはしなかった。
あと少しというところで、手を捕られる。
「離してってば!」
「アレクシエル。ほんっとお前はしつこいねぇ」
呆れたように苦笑を浮かべる怜と、逃げようと暴れる世羅を見て、青年は苦々しい表情で呟いた。
「なるほど。やっぱり ――― 」
空いているほうの手の平を差し出す。
そこには、金色に輝く光が集まっていた。その光をうっとりと見つめながら、青年は告げる。
「記憶がないのは困るね。君たちからは罪の意識というものがまったく感じられない」
ふと、金色の光が大きくなり、彼自身を包み込むとその背中に白い翼を浮かびあがらせた。
「天使……?」
聖が誰ともなく呟く。
神秘的ともいえるその光に、けれど世羅はなにか恐ろしいものを見るかのような震えが起きる。
「さぁ、自分たちの犯した罪の重さを思い知るといい」
青年がそう叫ぶと同時に、彼を包んでいた光が弾けるように周囲を飲みこんでいく。
「……世羅!!!」
光に包まれる瞬間、世羅は確かに自分を呼ぶ聖の声を聞いた。
光に ――― 吸いこまれていく。
身体とはちがう。別のなにかを、誘うように、光が包み込んでどこかへ連れていくような感覚だった。
(……アレハ?)
ぼんやりと見えるのは、空間にぽつんと浮かんでいる扉のようなものだった。
『たとえ、目覚めても。
本意ではないのなら、ここへ来てはいけません』
不意に声が響く。
―――― アナタハ、ダレ?
『私は貴女の幸せを望む者』
―――― ココハ、ドコ?
『ここは……、そう。狂ってしまった世界へ入るための扉。
記憶が戻るのは、しかたありません。
それが運命だというのなら。
けれど、ここへは。
こないで。
もう全ての歯車が狂ってしまって。
せめて貴女だけでも。
幸せであれば、と。
水の加護のもとに ――――
さぁ、もう。戻って。
貴女を大切に想う方たちの元へ……』
――――― 世羅!!!
聖が叫んだとき、彼は同時に怜に腕を取られた。
「先輩?! なにするんですか、放せっ!」
「だぁっ、こんなときにわがまま言ってんじゃねぇ! 心配しなくても、世羅ちゃんは大丈夫だ!」
怜は苛立ちを露わにしながら、暴れる聖を押さえつけた。
光の中に取り込まれた世羅とは違い、怜の周囲は黒い膜のようなものに包まれていて、光を阻んでいた。
「それより危ないのはお前だ。この光を生で浴びてみろ。たちまち消されるぜ」
あれを見ろよ、と怜は倒れている不良たちを指す。
聖がそれに視線を向けると、光が彼らを飲み込みその姿はまるで砂のようにぼろぼろと崩れていく。
「世羅は?!」
その光景を呆然と見ていた聖は慌てて、世羅がいたはずの方向を目を凝らして見つめる。
「彼女は天使の守護があるからこの光を受けても平気だが、俺とお前は一瞬でこの世にバイバイだ」
天使の守護 ―― ?
意味がわからず怜を振り返ろうとして、聖はそこに剣呑な光を宿し、真剣な顔つきをする彼の姿を見た。
「だが、このままだと世羅ちゃんをあいつに持ってかれるな。俺の結界も今の力のままだと、そう長くもちそうもねーし」
いちかばちかか。
怜はそう呟き、手にしていた剣を持ち直すと、勢いよく地面に突き刺した。
「頼むぜ。一応、神の剣なんだろ。あいつの力を押し返してくれよ?」
「……怜先輩?」
首を傾げて彼を見る聖を一瞥して、怜は息を吸い込んだ。
『ルシファーの名において命ずる。封印よ、今ここに解けっちまえ!』
あらぬ限りで怜が叫ぶと、剣から膨大な量の光があふれだした。
アレクシエルが放った光より、もっと。純粋で。
優しい光。聖はそう感じた。
瞳の中さえ支配しそうなそれに、聖は目蓋を閉じた。
光の中で世羅の身体を抱き上げていたアレクシエルは、不意に現れた自分の放ったものとはちがう光の力に戸惑った。
「……これは!」
まさか……。この力は……。
驚きながら、信じられないものを見るような瞳で世羅を見つめる。
「君はあの剣をあんな堕天使に渡したというのか……!」
アレクシエルは自分の光が圧されていくのを感じて、慌てて結界を張った。
あと少し、……あと少しあれば。
彼女の魂が扉をくぐる。
そう思った瞬間、ふと世羅の身体が淡い水色の光に包まれた。
「なにっ?!」
これはあいつの……っ!
アレクシエルは、知らず舌打ちする。
まさか加護の力が自分の力を押し返してくるとは思わずに。
「……どいつもこいつも邪魔をしてくれることだ」
金の髪をかきあげて、流れ落ちる冷や汗を手の甲で拭く。
外からはルシファーの力が、内からは世羅を包んでいる加護の力が彼を襲う。
「セラ……。今はおいておくよ。だが、君は必ず、私の元に戻ってくる」
絶対に、ね。
アレクシエルはまるで誓いでもあるように、意識のない彼女の唇にそっと自分のそれを重ねると、次の瞬間。姿を消した。
同時に、周囲を包んでいた光も消える。
それを感じて、怜は地面に突き刺していた剣を抜き深く息をつく。
「……いっちまったか」
言葉を吐き出すと、背中に生えていた黒い翼が薄れ消えていった。
手を動かすとどこからともなく鞘が現れる。怜は、剣をそれに納めると、また異空間へと隠した。
見れば、隣にいた聖は気を失って倒れている。
「おいおい、まじかよ。こいつにも効いちまったか?」
驚いたような表情で、怜は座り込むと聖の頭を抱えてその頬を軽くたたいた。
「おーい、聖ちゃん? 聖くーん。聖!!」
「……うっ、」
2,3発叩くと、聖の瞳がぼんやりと開く。
起きたか、と安堵しかけた瞬間。怜は息を飲んだ。
「まて! いい。お前しばらく眠ってろ!」
そう口にすると、怜が何らかの力を使ったのか。聖はまた瞳を閉じ、眠りの中へと戻っていった。
苦虫を潰したような表情で、怜が呟く。
「……まちがいねぇよな。今、瞳が銀だったぜ」
マジかよ。
怜は思わず額を抑えてうめいた。
「って、そーだ! 世羅ちゃん?!」
ハッ、と我に返った怜は慌てて空に視線を向ける。けれど、そこには世羅の姿はなかった。
どういうことだ……?
アレクシエルの奴は、彼女を連れていけなかったはず。封印を解いた以上、天使の加護が動いて魂を迎えることは無理だ。なら、彼女はそこにいるはず……なのに。
怜はふと、思い当たって知らず頭を抱えた。
「あのバカ……、自分で姿消しやがったな」
まあ、少なからずとも、記憶が戻ってれば、心配することもないが。
「とりあえず、こいつか」
怜は倒れている聖をかかえた。
どうせなら、世羅ちゃんの方を抱えたかったんだけどなぁ、などとぼやきながら、怜は歩き出した。
◆――◆
なにもない部屋に、ひとりの美しい女性が横たわっていた。
両手首には枷がつけられ、鎖はベッドに括り付けられ、足首も同様に繋がれていた。淡い水色に輝く瞳は、ただ天井を虚ろに見上げている。
ふと空間が歪んで、そこにアレクシエルが姿を現した。
背中にある白い翼を消すと、ベッドの上の彼女の傍に歩み寄る。
「君に私の邪魔をできるほどの力があったとは、驚きだったよ」
あの加護の力は。
彼女の魂をこの世界に連れてくるのには役立つと思った。
人間があの光を浴びれば、死んでしまう。けれど、天使ならば光が扉へと誘導してくれるようになっていた。もちろん。天使の加護をもつ彼女も然りだ。だが、まさか。魂を返してしまうとは。
「人形にするだけでは気がすまなくなったね。それなりの罰を用意しよう」
ちらり、と女性を見下ろして告げると、アレクシエルは酷薄な笑みを浮かべる。
「君に救いを、だ」
どちらにしろ。
彼女はここへ戻ってくる。
大切な友達を救うために ―――― 。
アレクシエルは無反応な彼女を一瞥すると、背を向けて部屋を後にした。
ぱたん、ドアが小さな音を立てて閉まる。
アレクシエルがいたときには、なにも紡ぐことのなかった唇が
震えながらわずかに。少しだけ動いた。
声にはならないけれど。それほどわずかだけど……。確かに。
―――― セ、ラ…さ、ま……。
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