……どこに行ったんだか。
怜はベランダへ続く窓際に立って、夜のイルミネーションが煌く街を見下ろしながら、息をついた。
(そういえば、こいつのこと言い忘れちまったな。)
ふと思い出したように、手にしていた煙草を灰皿に押し当て、ベッドの上で眠ったままの聖へと視線を向けた。
「ったく、冗談じゃねーぜ。面倒なことばかり押し付けやがって」
姿を消した少女に向かって、忌々しく口にする。
それでも放っておくことが出来ないあたり、「重症だな」と、彼は知らず苦笑をもらした。
「う、っ……」
不意に聖の声が聞こえて、怜はベッドの傍まで歩み寄った。
「おい、そろそろ起きろよ。いつまでも、寝てんな」
自分で眠らせた事実などまるでなかったように、そう声をかけると、怜は彼の額を軽く叩いた。
「せ、ん…ぱい? ……ここは?」
聖は上半身を起こしながら、ぼんやりと周囲を眺める。
まだはっきりと覚醒していない彼を置いて、冷蔵庫がある場所に向かうと中から2本の缶コーヒーを取りだし、1本を聖にむけて投げた。
「飲めよ。目が覚めるぜ?」
そう言いながら、自分も缶の蓋を開ける。
同時に椅子をベッドの側まで運び、それに座って肩を竦めた。
「初めに言っとくが、世羅ちゃんは今ここにはいない。イヤ、恐らくこの世界にいないだろうな」
「どういう意味ですか?!」
聞きたかったことを最初に言われて、聖の思考が一気に覚醒する。
だが、怜はあくまで無表情に手にしていたコーヒーに口をつけると、まっすぐ彼を見つめた。
「いいか。俺は今すぐにでも彼女を探しに行きたい。もちろん、ダメだと言ってもお前も一緒にくるだろう?」
見透かすような言葉に、当然だと聖は頷いた。
それを見て、怜は諦めたように息をつく。
「……放っておいてもいいんだが、あとで知られて世羅ちゃんに嫌われたくねーからな。連れては行く。だが、それには多少の知識が必要だ。ひとつやふたつの疑問には答えてやる。けど今は時間がないんだ。だからできるだけ黙って俺の話しを聞いとけ」
彼は一息にそう言うと、コーヒーを飲んで唇を湿らせる。
今までの怜の口調とは違う。真剣で威圧さえも感じるその姿に、聖は思わず頷いた。
それに。世羅を今すぐ探しに行きたいと言う気持ちは同じだ。
「今俺たちがいる世界は地球。それとは別の世界がある。天上球と天地球だ。天上球は簡単に言えば、お前らが天使と呼ぶヤツらが住んでる場所で、ほら、会っただろ。アレクシエル、あいつが首座として治めてる」
その言葉に聖の脳裏に白い翼を広げた金の髪、青い瞳の青年の姿が浮かぶ。
美しい容姿とは別に、嫌悪さえ覚える雰囲気を身に纏っていた。
「天地球は、別名。天上球の地下と呼ばれている。悪魔と呼ばれるやつらをはじめ、まあ、いろんなのが雑多にいる場所だ」
濁すような曖昧な言い方に、聖は疑問の視線を向ける。だが、それを無視して怜は話しを続けた。
「そしてその全て ―― 天界を治めてるのが、『神』だ。だが、『神』の能力が弱まり、それなりに上手くいっていた力のバランスが崩れ始めてきた。危機を感じたそいつは残った能力で次代の神として娘を作り出し、その娘をアレクシエルに育てるよう命じた」
淡々と話す怜の言葉に、聖は次元の違いを感じる。
それでも、偽りではなく。事実だということが、怜の真面目な顔から悟ることは出来た。
そうして怜は衝撃的な言葉を口にする。
「その娘っていうのが、セラ。 ―――― 世羅ちゃんだ」
「世羅が?!」
驚く彼に頷いて、怜は続ける。
「まあ、いろいろあって世羅ちゃんは地球に人間として生まれ変わることを望んだんだが」
また、だ。
聖はそう思った。
言葉を濁そうとする怜に、我慢できず彼ははっきりと聞いた。
「いろいろって?」
けれど答えは聞けず、不意に怜の瞳に鋭い光が宿る。
「俺は、余計な先入観をいれたくない。第3者が話すことじゃないからな。知りたいなら、自分で本人に聞け。自分で聞いて、自分で見てその頭で考えろ」
今話してるのは、あたり障りのない事実だけだ。
真実は自分で探せ。
怜はそう言った。聖もその迫力に知らず頷く。
それを見て、彼はフッ、と笑みを漏らした。
「余計なことを言って、世羅ちゃんに嫌われるのが怖いってのもあるんだけどな」
「……結局はそれですか?」
ため息交じりにいわれた言葉に、怜はそれ以外のなにがあるんだ。とばかりに堂々とした表情で頷いた。
「だが、神も最後の能力で世羅ちゃんを生み出したんだ。はいそうですか、と放っておくわけにはいかなかったんだろう。アレクシエルを捜索に向かわせてたんじゃねぇか?」
「でも、彼は…。先輩が……」
曖昧な記憶の中で思い出そうと、聖はそう言った。
怜はまあな。と落ちてきた前髪を面倒臭そうにかきあげて、苦虫を潰したような表情を浮かべた。
「俺が追い払ったんだけどな。どうやら、なにか置き土産をして下さったらしい。ほんと、うっとおしい奴だぜ」
「置き土産?」
首を傾ける聖を振り向いて、怜は言った。
「今から、それを探しにいくんだ。あいつは絶対、世羅ちゃんが自分から戻ってくるようになにかを仕掛けたハズだ。あのときに、な」
自分と聖が離れていて、アレクシエルが彼女を捕らえていたあの瞬間しか、思いつかない。あの場所にもういちど行けば、きっとなにか手がかりがつかめるだろう。
そう口にする怜に、慌ててベッドから抜け出して聖は言った。
「俺も行くよ。先輩一人に任せていられないからね」
ああ、わかってるさ。怜は肩をすくめて頷いた。
だが、ふと思いついたように聖の表情を見つめる。
「? 先輩?」
「 ―――― いや、なんでもない」
なにげに視線をそらして、怜は答えると玄関の方へと足を向けた。
聖は淡いブラウンの瞳を不思議そうに瞬かせると、彼の後を急いで追いかけた。
ずっと傍にいる。
聖はそう言ってくれた彼女の姿を思い出す。
そう約束したのは、世羅。おまえだったろう?
けれど彼女が姿を消してさえも、なにもできず。ただ気を失っていた自分の無力さに、ぎゅっと手の平を握り締めた。
世羅が神の娘と聞かされても、関係がない。
ただ、会いたい。傍にいたい。今の聖にはそれだけが全てだった。
神も天使も、それ以上のことはなにもない。
世羅に会えるなら、たとえ地獄でさえも会いに行くだろう。会えるなら ―――― 。
「今からそんな根詰めてたら、精神がまいるだけだぜ?」
ふと力を放出するために、黒い翼を広げていた怜が翼を消して声をかけた。
「いいんです、俺のことは。そんなことより、なにかわかったんですか?」
強い口調で問いかけてくる聖に、怜はなにか言いたそうな顔をしたが、すぐに別の言葉を口にする。
「ああ。たぶんあれだな。アレクシエルが世羅だけに告げた言葉が視えた」
過去を視ていた怜はあのとき、自分たちには聞こえないようアレクシエルが世羅に囁いた言葉を知った。
『君の親友も待ってるよ ―――― 』
確かに、彼はそう告げていた。
「親友? 世羅の?」
友達も数えるほどしかいない世羅の親友に、聖は心当たりはなかった。ほとんどの時間を二人で過ごしていた。
「天上球にいたときのだよ。水の守護天使、ガブリエル。世羅のたったひとりの親友だ」
なるほど。
怜は自分の言葉に、合点がいってひとり頷いた。
もっとも、それぐらいしか世羅ちゃんがあそこへ戻る理由も見つからねぇがな。
「なにかあったか ―――― 」
思案にふける怜は、不意に気配を感じた。
「誰だッ?!」
聖も同時に、空を見上げる。
そこにいたのは、淡いブラウンの髪を肩まで伸ばし、黒いサングラスをかけた青年だった。
「私ですよ、ルシファー。久しぶりですね」
「ウリエル?!」
驚いたように怜は彼の名を呼んだ。
ウリエルと呼ばれた青年は頷くと、すぅー、と音もなく二人の傍へと降り立った。
「ええ。私に会えるなんて懐かしくて、嬉しいでしょう?」
自分でそう口にするウリエルに、怜は苦笑を浮かべた。
「相変わらずだな、お前も。どうして、地の守護天使である、ウリエル様がここにいるんだ? 守護天使の地球への介入は許されてねぇはずだが?」
もちろん、そんなことを気にするウリエルでないことぐらい、彼は十分承知していた。
自分の好奇心を満たすためなら、不利にならない程度にはなんでもするのが彼の性格だった。もっと言えば、不利になったとしても構わずなんでもするのが、ルシファーの性格だったが。
「アレクシエルが地球に行くのを見かけたので、気になってこっそり後を追っかけてきました。と、言っても本体だとばれるので霊体になってですがね。そしたら、貴方たちを見つけたというわけです」
「ほお? じゃあ、世羅ちゃんも見たわけだ?」
ウリエルはにっこりと嬉しそうな笑顔を浮かべると、首を縦に振った。
「もちろんです。久しぶりに拝見しましたが、人間になっても相変わらず彼女は可愛いですね」
彼の言葉を冷たい視線で受け流し、ルシファーは呆れたように言った。
「……で、戦いを遠くから眺めてたんだろ?」
「あたり前でしょう? もういちど言いますが、私は霊体で力を使えない。それに地球への介入は禁じられてますからね。たとえアレクシエルが嫌いで、私が貴方の味方と言っても、手を出すわけにはいきません」
「味方ねぇ」
ルシファーは唇の端をあげて、皮肉を言うように繰り返した。
けれど、ウリエルは特に気分を害するわけでもなく、さもあたり前だと言うように頷いた。
「味方という言葉が嫌いなら、ファンだといってもいいですよ」
「……先輩?」
放っておいたら、延々と脱線して行きそうな二人に、聖はしびれを切らして声をかけた。
「おや、初めまして。ウリエルといいます。貴方は?」
初めてそこにルシファー以外の人がいたことを気付いたように、ウリエルは気軽な口調で自分の名を口にした。
「聖、です」
短く名を告げる少年に、ウリエルは近寄った。
「いい声をしていますね。オーラも輝いている。うん、気に入りましたよ」
勝手に頷くウリエルに、すかさずルシファーが言った。
「世羅ちゃんの恋人だけどな」
「前言撤回させていただきます。今すぐ私の前から失(う)せなさい」
一転して不機嫌そうな声で言う彼に、聖も負けず劣らず、ムッ、とした表情になる。
「まあ、待てって。それより、ウリエル。今まで傍観してたお前が姿を見せたのは、理由があるんだろ?」
そう言われて、彼はルシファーへと顔を向けた。
「ええ。ガブリエルのことですよ。彼女は現在、行方不明なんです」
「行方不明?」
「アレクシエルは居所を知っているみたいでしたけれどねぇ」
ウリエルの言わんとすることを察して、ルシファーは頷いた。
「そうか。アレクシエルは世羅ちゃんをおびき寄せるために、ガブリエルを捕らえたんだな? けして正攻法ではないやり方で。だから表向きは行方不明になってるつーことか」
「最初は居場所を吐かせるためでしょうけどね。言わなかったんでしょう、彼女は」
アレクシエルを知っているふたりには想像できた。
彼が恐らくは、ガブリエルに世羅の居場所を言わせるためにどんなに酷い方法を用いたか。
なにが天使だ。神に仕える純然たる魂を持つものだ。
吐き気がする。
そうして、もうひとり。世羅もそんなアレクシエルのことを知っていた。
「だが、誤算だったな」
ルシファーはひとり呟いた。
アレクシエルのことを知っているからこそ、世羅は絶対にガブリエルに地球へ行くことは言わなかった。たとえ訊かれても「知らない」で通るように。
もちろん、それは甘い考えだった。
知らないで通るほどアレクシエルは世羅に執着していないわけではない。
ガブリエルがアレクシエルの手の内にいることを知って、世羅は彼女の元へ向かった。
「やっぱ、世羅ちゃんが天界 ―― 天上球に行ったのは間違いねぇな」
改めてそう口にすると、聖が焦ったように言う。
「後を追いかけられないんですか?!」
「…………」
ルシファーは無言で視線を聖へ向けた。
まっすぐな視線を向けられて戸惑う彼に、うーん、と唸る。
「ウリエル……」
「お断りします。恋敵を増やしたくはありません」
ルシファーの用件がわかっているウリエルは、先回りして言った。
だが、それで頷く彼ではない。
「でもおまえ。たしか、世羅ちゃんに嫌われてるよなぁ」
ウリエルの片眉がピクリとあがる。
それを横目で見つつ、ルシファーは続けた。
「天上界に行ったとしても、お前を頼るとは思えないし。だけど恐らくコイツを連れてけば、世羅ちゃんに感謝されるどころか感激のあまりキスくらいくれるかもしれねぇぜ」
そうは言いながらも、ルシファーは内心では、こいつを連れて行ったら、「なんで連れてきたの?!」とか言われて絶対に怒られそうだなと、別のことを考えていたが、そんなことは億尾にも出さず、ウリエルの答えを待った。
「……わかりました。お預かりしましょう。扉にラジィー君を待たせておきます。彼について来て下さい」
「ラジィー君?」
聞いたこともない名前に、ルシファーは首を傾けた。
「ラジエル君ですよ。以前、セラがラファエルのことをラフィー君と呼んでたでしょう? あれが羨ましかったらしく、『今度から僕のことをラジィー君って呼んで下さい』と言ったので、そう呼んでるんです」
「……あれ、たしか。最初はルフィーだったぜ」
誰のこと、とは言わず。呆れたようにため息混じりで言うルシファーに、ふふふ、と怪しい笑みを浮かべると、ウリエルは片手を挙げて最後に言った。
「私のことはウリィー君と呼んで下さい。では、私は天界でお待ちしてます。聖君、……ルフィー君」
その言葉と同時に、ウリィー君こと。ウリエルの姿は空気に溶け込むように消えていった。
あとに残ったルシファ―は心底、嫌そうな顔で深いため息をついた。
「……天使って、妙な性格してるんですね」
聖は思わず、そう感想を述べた。
「あいつは特別だ。気にするな」
そう言って、右手を動かし剣を手にする。
「先輩?」
「魂だけが通れる場所で、身体は無理なんだ。一度、死んでもらうぜ?」
死ぬことに一度も二度もないとは思うが。
聖はだがすぐに、わかりました、と答えた。
世羅に会うために、それが必要ならきっと、なんだってする。
その決意を感じ取ったルシファーは、複雑な視線を彼に送って言った。
「さっきも言ったが、あんまり根を詰めるな。余裕ぐらいもってろよ。世羅ちゃんを助ける前に、お前が倒れたら意味がない」
我ながらどうしてこうも、甘いことを口にしてしまうのか、と心の中では呆れながら告げたルシファーに、けれど聖はにこりともせず答えた。
「考えておきます」
「考えることじゃねーと思うけどな。まあ、いいさ。そのうちわかる」
そう言って話しを終わらせると、ルシファーは手にしていた剣で聖の身体を突き刺した。
身体中を引き裂かれるような痛みが、聖を襲う。
それでも彼の脳裏にあったのは、ただ世羅のことだけだった。
◆――◆
ロウソクの火だけを明かりとする部屋で、奥にある椅子に深々と腰をかけていた青年は、気配を感じて、ふせていた顔を不意に上げる。
「……呼びましたか、ウリエル様」
同時に、彼の前にどこからともなく幼い面影を残した少年が姿を現した。
金の髪がわずかにかかった、紫の瞳をまっすぐとウリエルの方に向ける。
「ああ、ラジィー君。お願いがあるのですが、今から『扉』に向かって頂けませんか?」
「『扉』に? 今月は人間の魂を迎える予定はなかったハズですが?」
彼は、脳裏に今月の予定を思い浮かべて、首を傾けながらそう答えた。
「そうなんですが、ルシファーがね。人間のお友達を連れて待っているのですよ」
ルシファー、という名前に、ラジィー君。こと、ラジエルは、ぴくりと反応する。
「あの裏切り者がどうしようと、僕の知ったことではないです。第一、あの裏切り者なら、別に迎えがなくても『扉』はくぐれるでしょう?」
いちいちルシファーを『裏切り者』と呼ぶ彼に苦笑して、ウリエルは言う。
「彼の友達もいるのですよ。人間の、ね。事情はあとから説明しますので、とりあえず連れてきていただけませんか?」
ラジエルは彼にとって部下ではない。だから、命令はできない。わかっていて、彼は「それでも……」と躊躇う。ウリエルはひとつため息をつくと切り札を出した。
「セラに会いたくはありませんか?」
弾かれたように、ラジエルはサングラスに隠れたウリエルの瞳を見つめる。
「ルシファーの友達である彼を連れてくれば、きっと会えますよ」
「わかりました! 行って来ますっ!!」
すぐにそう答えると、ラジエルはまた姿を消した。
気配が消えたあとで、ウリエルはやれやれとばかりにため息をつく。
ふと、傍にあったロウソクの先で燃えている炎に視線を向ける。
「……これで、駒はそろいますね」
聞き咎めるものが誰一人いない空間で、ウリエルはそう呟いた。
【
Index】【
Back】【
Next】