自分のために。というのは簡単です。
誰かのために、というのは愚かでしょう?
私は、ただこの世界を愛している。
私たちの子を愛している。
なにかを創り出すということは、そういうことです。
たとえなにを誤解されようと。
守るためならば ―――― 。
守るため、ならば ――――― 。
誰の声?
懐かしくて。寂しそうで。
だけど、とても冷たく歌うような声で告げるあれは…………。
「おい、大丈夫か?」
ふと、心配そうな声がかけられて、目を開けた。
「先輩…。俺は……」
剣で心臓の辺りを貫かれた瞬間、全身を切り刻まれるような衝撃を受けて、意識を失った。
「心配すンな。お前の身体は俺の部屋に送っといた」
ニヤリ、と笑って言われて、改めて自分の体を見下ろす。別段、何か変わっているようには思えなかった。
手も足もちゃんとあって、触れれば服の感触さえある。
「人間の魂ってのは生身とたいしてかわりはないさ。怪我すりゃ、血だって流れるし。大量出血の末、死ぬってこともある。だが、魂が死ぬってことは存在そのものが消えるってことだぜ。忘れるなよ」
肩をすくめて言うと、ルシファーは手にしていた剣を聖に向かって投げた。
反射的に、彼はそれを受け止める。
「これは?」
「やるよ。もとは世羅ちゃんのだけどな。お前が持ってたほうがいいだろうさ」
聖は渡された剣を、かざして眺めた。
前にルシファーがあの天使を追い払ったときの剣だ。
柄は細く、片手で持ちやすいように施してある。切っ先は、曇ることなく輝いている。
「鞘はないんですか?」
剣を見つめながら言う彼の頭上に、いきなり黒い鞘が現れカン、と小気味いい音を立てて見事に頭に当たった。
「 ―――― いってぇ、先輩!!!!!!」
不意打ちを食らった聖は、頭のてっぺんを抑えて後ろで大笑いしている彼を振り向いた。
「わ、わりぃ…。つい、くっ、あはは……」
遠慮なく笑っている彼を、聖はその視線だけで、射殺しそうな目をして睨みつける。
それでもルシファーは笑いをおさめようとはしなかった。
とりあえず、聖は地面へ落ちた剣の鞘を拾う。
「……守れよ」
不意に、真面目な声が聞こえる。
顔を上げると、これ以上にない真剣な瞳が彼を見つめていた。
「 ―――― 言われなくても」
少し躊躇ったあと、聖は不敵な笑みを浮かべて応える。
それを聞いて、忌々しそうに舌打ちすると、ルシファーは背中に黒い翼を広げた。
「っち。相変わらず、素直じゃねぇ奴」
ついてこいよ。
そう言って、彼は地面を蹴る。
聖はいちど強く目を閉じて、自分の心に問いかけた。
(また ――― この場所に世羅と二人で、戻ってこれるのか?)
だが、答えがわかるはずもなく。
戻ってくる。絶対に!
誰ともなくそう告げると、聖は目を開けて、今までの全てを振りきるようにルシファーと同じくその地を蹴った。
こんなに、美しかったのか。
聖は浮かんでいる地球を見下ろす形で、眺めていた。
海の青さが眩いくらい透き通っていて。
まさか、こんな形で自分がこの地球と言う世界を見ることが出来るとは思っていなかった。
だけど、どうしてだろう?
思い浮かぶ不思議な感情に、戸惑いを覚える。
懐かしい ―――― 。
いや、それよりももっと。尊くて。
愛しい? まさか……。
住んでいたときにはまるで、思いもしなかった感情に捕らわれて戸惑う。
地球の姿を見れば見るほど ――――――― 。
「感動しているところ、わりィけどよ。ちゃんとついてこねぇと、迷子になるぜ」
見惚れている聖に声がかかる。
心を残しながら、それでも先輩のいるほうへ視線を戻し、「わかってますよ」と応えて、地球に背を向けた。
それから、時間にして10分くらいだろうか。
飛び続けていると、不意に先輩が指を示した。
「あれが、『扉』だ」
先輩が指した場所には、ぽつんとひとつだけ。
そこだけが切り取られて故意に置かれたみたいに、『扉』が浮かんでいた。
「……これが?」
「ああ。扉はいろんな場所にたくさんある。過去、未来の扉。それぞれの次元を繋ぐ扉。まあ、普通の人間には見えねえけどな。ときたま、過去や未来が視えるっていう奴らがいるだろ? それは無意識にそういった扉を開いてるのさ」
その『扉』の前に降りながら、先輩が言った。
『扉』は隅々まで細かな彫りの細工が施されてある。聖はそっと『扉』に触れた。
「無駄だ。人間は勝手に開けられないよーになってる。天使サマのお迎えがないとな」
そう言うと、先輩はきょろきょろと周囲を見まわす。
「ラージ―エール!」
彼がそう名を呼ぶと、『扉』がギィィ…と音を立てて開いた。
「そんな大きな声で呼ばなくても、聞こえますよ」
仏頂面で不機嫌そうにでてきた少年に、驚くことなくルシファーはふん、と鼻を鳴らす。
「だったら、さっさと出てこいよ。ウリエルの後ろに隠れているお・ぼっ・ちゃ・ま」
「 ―――― 死にたいんですか?」
きらり、と紫の双眸が光る。
だが彼はその言葉を軽く受け流して、話しをかえた。
「お前ごときに俺が殺せるか。話しはあいつから聞いてるだろ?」
「とりあえず。そっちの人間を連れてくるようにと」
そう言って、ラジエルは聖に視線を向けた。
「ああ、じゃあ任せた」
胸ポッケットから煙草を取り出しながらルシファーが言うと、聖は訝るように彼を見た。
「先輩は一緒に行かないんですか?」
「俺は天地球の方に用があるからな。まあ、あとで合流しようぜ」
煙草を銜えて火を点けている彼を胡散臭そうな瞳で、ラジエルが捕らえる。
それに気づいて、ルシファーは銜えていた煙草を軽く持ち上げ、「なんだよ?」と訊いた。
「……天上球にくるんですか?」
「ははん。まっ、ンなこたぁお前の気にするべきことじゃねえよ。心配なら、ありがたく感謝しとくぜ?」
その言葉に、ラジエルの顔が一瞬で真っ赤に染まる。
「誰がッ! 裏切り者のお前なんか、さっさとミカエル様に殺されればいい!」
ミカエル、と彼が口にした途端。ルシファーの眉がピクリ、とあがったがそれに気づかれるより早く、彼はひらひらと二人に手を振って背を向けた。
「じゃあな、ラジエル。聖、あとはお前次第だぜ」
空へと向かう煙草の煙だけが、背中ごしに見える。
頑張れよ、というかわりに「気をつけろよ」と言い残して彼は返事も待たずに、姿を消した。
「 ――――― では、僕達も行きます。ついて来て下さい」
ルシファーが姿を消したあと、ラジエルはしばらく彼の消えた方向を見ていたが、聖の存在を思い出すと、そう告げて扉を開け、中へ入って行く。
それに続くように、聖も『扉』をくぐった。
――――― ッ!
『扉』を通った聖は、目の前に広がる景色に息を飲んだ。
「どうか?」
それに気づいて、ラジエルは歩みを止めて振り返る。だが、聖の視線はおよそ信じられない光景へと向けられていた。
「……本当に、ここが天上球?」
見渡すかぎりの砂地。
空は延々と暗闇に支配されていて。時折、微かに吹く風は冷たい。
とても先輩の言う、天使の住む世界とは思えなかった。
天使どころか、生き物がいるかどうかさえ怪しい。
聖の呟きに、ラジエルはクス、と笑って頷いた。
「そうですよ、ここも天上球なんです」
「ここも?」
含みのある言葉に気づいて聖は、笑みを浮かべると外見通り幼く見える彼の紫に煌く瞳を見つめる。
「わかりやすく説明しましょうか?」
悪戯っぽい目で言われて、聖は戸惑いながらも頷いた。
ラジエルは不意にしゃがむと砂地にダイヤの形を描いた。
「これを中央で横に区切って、この上半分が天上球。下が天地球」
そうして、ラジエルはさらに上を3つの層に分け、今度は縦半分に区切る。
「さっき通ってきた『扉』を含めて今、僕たちがいる場所。ここ最下層の左半分がウリエル様の治める領域です」
「なるほど。じゃあ、右は?」
聖は場所を指でさして聞いた。
「ミカエル様、統括の地です。ここは天地球と繋がる『扉』があって、それも管理されているんですよ」
先輩が向かったところか。
思い浮かんだ姿に、ラジエルも気づいたのか嫌そうに眉を顰めた。
「まあ、上級天使クラスになると、いちいち『扉』なんて使わなくても、移動できますけどね」
吐き捨てるように言う彼の言葉に、聖は気になって訊いた。
「先輩が上級天使クラス?」
「冗談じゃないですよ! あの裏切りものが天使なんかであるもんか!」
裏切りもの ―――― ?
更に浮かんだ疑問を聞く前に、ラジエルは気分を害したとばかりに砂地に描いていた図を足で乱暴に消すと、無言で歩き始めた。
天使ルシフェルは、天界で最も優れている者として神に仕えていたが、あるとき闇に捕らわれて、自ら堕天使となることを望んだ。それ以降、堕天使ルシファーもしくは魔王と呼ばれ恐れられる存在になる。
うろ覚えだが、なにかの本にそう書かれてあったのを思い出す。
同時に、先輩の言った言葉が脳裏をよぎった。
『自分で聞いて自分で見て、その頭で考えろ ―――― 。』
言われたときは簡単だと思った。むしろ、あたり前だと思ったが、一筋縄ではいかなそうだな、と聖は知らずため息をついた。
「着きました。ここでウリエル様が待ってます」
ぴたり、と歩むのを止めてラジエルが言う。だが、聖には彼の言うここ、という場所がわからなかった。
やっぱり目の前に広がるのは一面の砂で、風景にかわりはない。
「ここ?」
首を傾けると、ラジエルは頷いて言葉を紡いだ。
「 ――――― 開け、地の扉。天界案内使ラジエルの名のもとに」
すると、それに反応するかのように地中から大きな地鳴りが響いてきた。
「う、うわぁ…っ、」
不意に地面が割れて、聖はその中へ吸い込まれるように落ちていった。
ラジエルもその後に続いて、割れた地面の中へ飛び込む。
背中には白い翼を広げて ――――― 。
とんっ、
聖は床に叩きつけられる寸前、光のようなものに包まれて、そっと地面に降ろされた。
「案内ご苦労でした、ラジィー君」
聞き覚えのある声が響く。
視線を向けると、ウリエルの姿があった。
「先刻ぶりですね、お疲れになったでしょう。お茶でもどうです?」
サングラスに隠れてよくはわからなかったが、恐らくはにっこり笑ってウリエルが言った。
「僕も同席していいんですか?」
聖の後ろからラジエルが問いかける。ウリエルは「もちろんですよ」と、頷いた。だが、聖はそれどころではない。
「俺は世羅の行方を ―――― 」
「聖、といいましたね。急がば回れ、という言葉も大切ですよ」
なにかしら含みのこもった口調で告げるウリエルを、困惑の眼差しで聖は見つめた。
【
Index】【
Back】【
Next】