第一節.天に戻りし者たち(3)
 ―――― チッ。
 扉に手をかけたルシファーは気配を感じて、思わず舌を鳴らした。
 無視しようにも、目的がこの先にあるのだから、避けようもない。最も、この天界に戻ってくることを決めた時点で必ず接触してくるだろうことは予測できていた。それにしても早過ぎるが。
 溜息をつきそうになるのを堪えながら、無表情を作り上げ、扉を開ける。

「随分、元気そうだな?」
 部屋に足を踏み入れるよりも先に声をかけられた。
 皮肉のこもった口調は、長年会わなかった故の挨拶とは到底受け入れられないもので、そこにある何かしらの含みをわかっていながら、とぼけたように返事をする。

「あんたも元気そうでなによりじゃねえか。こんなトコでなにしてんだ?」

 ルシファーが視線を向けた先には、美しい女性が立っていた。

 月の光のように繊細な輝きを放つ金と銀の髪が、床に届きそうな長さで存在を誇示している。美貌の顔に埋まっている切れ長の淡いブルーの瞳がまっすぐと、ルシファーに向けられていた。

「ふ、ん。お前が私との契約を果たしてくるのを待っていたんだ」

 当然じゃないか……。
 男言葉で告げる彼女から、ルシファーは視線を外した。

「…………契約?」

 首を傾けるルシファーのすぐ横を短剣が過ぎていく。

「 ――――― ! なんだよ!」

 あと数ミリで彼の顔面にあたっていたところだ。
 抗議を無視して彼女はつかつかと彼の傍にいくと、ルシファーの襟首を掴まれた。

「忘れたとは言わせない! セラの首はどうした?!」

 ルシファーを睨みつける瞳は、今にも炎が飛び出てきそうなほど、燃え上がっている。
 美しい ――― 思わずルシファーはそう思っていた。

「ああ、わかってる。だが、全てを俺に任せるっていうのも契約のうちだぜ」

 真剣に告げる彼の言葉に、女性も我を取り戻したように彼から手を離す。

「お前はセラを愛してるんだろう?」
「あぁ、」

 間も置かず彼は答えて、ポケットに入れておいた煙草を取り出す。

「なら、なぜ私の契約を受け入れた?」

 先刻までの強気な様子から、わずかに困惑を浮かべた表情で訊いてくる彼女に、煙草の火をつけ銜えてからルシファーは「うーん。」と唸る。

 「他の奴のものになるなら、いっそ殺したほうがいいからさ。この俺の手で」

 ルシファーは片手をひらひらと振った。

「そうか ――― 。わかった。もう少し猶予をやる。お前がここに帰ってきたということはセラも天界へ戻ったのだろう? 機会はいくらでもある。そうだな?」

 自らを納得させながら、女性はルシファーに訊いた。

「……たぶんな」
「忘れるなよ。これは契約だ ――――」

 最後にそれだけを言い残して、女性は彼が入ってきた扉から出て行った。

 気配が完全に消えてから、ルシファーは扉から視線を外す。
 天井を仰ぐと、ため息混じりに呟いた。

「お前も忘れるなよ。俺は魔王と呼ばれてる男なんだぜ……」

 ―――― そうだろ、ザフィケル。
 お前は取り残されてるんだよ。過去に。
 どうしたって変えることのできない、過去に。
 捕らわれすぎてるんだよ。

 もう全ては始まってるんだ。



 さて、と。
 気分を変えるようにルシファーは踵を戻した。

 視線の先には薄汚れた玉座。周囲に施してある金細工の部分はすでに欠けている。

「あーあ。俺がいねーとすぐこれだ。主のものは大切にしろよなぁ」

 そう愚痴りながらも、脳裏ではわかっていた。
 この天地球にそんなことを理解できる連中など要るわけがない。たとえ、自分を主と認めてはいても。言うことを理解できるのが、果たして何匹いることか。
 まあ、だからこそ。いろいろとやり易いのだが……。

 苦笑いを浮かべながら、ルシファーは玉座に向かって手を伸ばした。
 とつぜん、玉座は闇に包まれて形を剣へとかえる。黒い鞘に入った剣は、誘われるように彼の手の中へと納まった。

「やっぱ、こっちの方が俺にはあってるな……」

 ぎゅっ、と鞘を握り締める。
 剣から力が流れ込んでくるのを感じた。

 人間の姿になるために、封印していた力。
 魔王としての ――――― 。

 (……なぁ、セラ。)

 やっぱり俺は魔王ルシファー以外の何者にもなれねぇ。
 お前を守りたくても。
 どうしたって憎しみの方が勝っちまうんだ。

 わかってくれとは言えない。わかってほしいとも思わない。
 ……ただ、気づいてくれ。

 俺の心に ――――― 。

 ルシファーは目を閉じた。
 背中に翼が広がる。
 瞬時に黒い光に包まれて、ルシファーは姿を消した。

 あとに残されたのは、ゆらゆらと空を舞う1枚の黒い羽根。行き場のない、1枚の羽根……。


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