還っておいで……。私のもとに。
全てを生み出し、おまえを作りし私のもとへ。
還っておいで……。
――――― ッ??!
セラは反射的に伏せていた顔をあげた。
「……セラ様?」
訝るように声がかけられる。
視線を向けると、ウリエルが心配そうに見ていた。
「今……、声がしなかった?」
「声、ですか?」
ウリエルは暫らく周囲に視線を向けていたが、眉根を寄せてセラへ戻した。
「いいえ、聞こえませんが……なにか?」
目が見えないぶん、ウリエルの感覚は鋭く。見えないものが見えるし、聞こえないものが聞こえる。
そのウリエルが、聞こえないというのなら、気のせいかもしれない。
そう思い直して、セラはなんでもない、と首を横に振った。
「きっと……、気のせいだわ」
そう呟いた途端、目の前の扉が開かれた。
白衣に身を包んだラファエルが姿を見せる。
「ガブリエルは?!」
彼へ駆け寄って、セラは掴みかかるような勢いで聞いた。
ラファエルは落ち着かせようとセラの肩に優しく手を置いて、口を開いた。
「とりあえず命の心配はないよ」
ほぅ、と安堵に息をついたのもつかの間、「とりあえず」という言葉に引っかかる。
不安げに瞳を揺らすセラから視線を外して、ラファエルはウリエルを向くと口を開いた。
「器の損傷がかなり酷い。けど、精神が壊れかけてるのがいちばんの問題なんだ」
「……治療法はあるのですか?」
ラファエルの言葉からおよその推測はできたが、ウリエルはショックを受けているセラの代わりに訊いた。
青ざめた顔で俯いているセラの方へ視線を戻して、ラファエルはゆっくり言葉を紡ぐ。
「……コールド・マインド・コントロール(精神凍結制御装置)」
推測通りの言葉に、ウリエルは息をついた。
セラは震える手の平を強く握り締める。
「それしかないの……?」
掠れるような声で問うセラに、目を閉じてラファエルは頷いた。
「本人もそれを望んでる」
「ガブリエルが?!」
驚きに目を見開いてセラは顔をあげた。
「意識は一応あるからね。話しておいで。でも、5分だけだよ」
そう言うと、ラファエルは彼女の背中を押した。セラは一瞬だけ躊躇したが、すぐにガブリエルがいる部屋の中へと足を踏み出した。
扉が閉まると、ラファエルは一気に疲れがでたかのようにその場に座り込んだ。
「 ―――― 吸いますか?」
ふと、目の前に一本の煙草が差し出された。
「どうしたの、これ?」
「ルシファーに数本ほどもらったんですよ」
ラファエルは軽く肩を竦めてそれを受け取った。
「人間のものだろ? 見るだけでわかるよ。これには身体に害を及ぼすものしか含まれてない」
軽蔑するような視線で見ながら、嘲るように言うラファエルに「そうですね」とウリエルも同意して頷いた。
「でも、精神を安定させるものでもあるらしいですが……」
「まやかしだって。結局その一瞬の安定のためにやがて、堪えきれない苦しみを味わうことになる。そうなるぐらいなら、僕は今の苦しみを乗り越えるよ」
「ご立派ですね」
からかうようにウリエルが言った。
ラファエルはフッ、と自嘲するような笑みを零す。
「僕は診てきたからね。薬に頼って一瞬の安楽を味わい、その代償に狂気を伴いながら自らの欠片を失っていた者たちを……」
「天使降落(てんしこうらく)……ですか」
ウリエルの紡いだ言葉に肯定を返す代わりに、瞼を伏せた。
「まだ今も……耳に残ってるよ。絶望に打ちひしがれる断末魔。救いを求める姿も脳裏に焼きついて離れなかった。あのとき……、セラちゃんとミカエルがいなかったら僕も狂ってたよ」
思い返される幻を振り切るようにラファルは頭を左右に揺らした。
「ときどき思うんだ……。本当に神は僕たちを愛して下さってるのかってね」
ラファエルは悲しそうに眉根を寄せる。
「それは……」
いつもの飄々としたラファエルが見せるつらそうな表情に、ウリエルは言葉を返すことができなかった。
自分も同じように疑問に感じていたことなら……尚更。
「どっちにしても今回の事で何かが変わるような気がするよ」
ふいっと、セラが姿を消した扉へ視線を向けてラファエルが言う。
「……良くも悪くもというところでしょうけどね」
複雑そうな口調で言うと、ウリエルも扉の方に向き直った。
音を立てないように扉を閉めると、セラは診察用に備え付けられている簡易ベットの上に横たわってるガブリエルの方へ足を進めた。
普段から細かった腕や足は触れるだけで折れそうで。
傷跡はラファエルが治療したのか見当たらなかったが、それでも痛々しい姿にセラは心臓が締め付けられたようになる。
そっと、痩せ細ったように見える頬に触れた。
「…………セラ様?」
ゆっくりと瞼が開いて、青く澄んだ瞳が現れる。
ただ一言、ガブリエルに名前を呼ばれただけでセラの瞳から涙が零れた。
慌ててそれを拭って、セラは微笑みを浮かべる。
「ガブリエル……。会いたかった……」
そう言うと、ガブリエルの手が持ち上がり頬に触れているセラの手に重なった。
「私も会いたかったです。ずっと……ずっと」
ガブリエルの瞳にも涙が浮かぶ。
セラは堪えきれずに彼女の首に抱きついた。
「……なさいっ、ごめんなさい……私のせいで……!」
謝っても許されることじゃない。
わかっていても、そうすることしかできなかった。
泣きじゃくるセラをあやすようにガブリエルは優しく抱き返して、そのぬくもりを確かめるように目を閉じる。
「私の選んだことです。貴女が苦しむ必要はありません」
「でも、私がガブリエルを連れて行ってれば……!」
ガブリエルは小さく首を横に振る。
「あのときの貴女が、もしも私を連れて行ってくれると言ったとしても、私は結局は断っていたでしょう。天上球から……、領域から離れることはできませんでした……」
今はもうない領域を……心から愛していた。
守りたかった。
脳裏に焼きついている穏やかな場所 ―――― 。
「アレクを……恨んでるの?」
震える声で、セラは口を開いた。
「アレクシエル様は狂っておられたのでしょう? 普段のあの方はとても ――― 首座にふさわしく厳しくも優しい方でした」
セラの問いには答えずに、ガブリエルは少しだけ彼女から身を離して言う。
「アレクシエルは……すまなかったっ…て。そう貴女へ伝えてって……」
セラは声を絞り出すように言って、触れていたガブリエルの手をぎゅっ、と握る。
消滅した、と言葉を続けることはできなかった。
けれど、苦しそうに顔を歪めるセラの表情に、全てを察したのかガブリエルはもう一度セラの身体を優しく抱き寄せた。
「……全ての始まりは何だったのでしょうね」
耳元で囁かれた言葉に、セラは息を呑む。
「ガブリエル……?」
「私はコールド・マインド・コントロール(精神凍結制御装置)に入ります。出てこれるのはいつかわかりません。少なくとも……数十年はかかるでしょう」
コールド・マインド・コントロール(精神凍結制御装置)は、天使たちが自らを癒すためのものだった。身体の傷よりも深い傷を負った精神のために。
ただ、一度入ってしまえば十年の単位でしか出てくることが出来なくなってしまう。
「どうしても?」
「罰でもあるのですよ。領域を破壊し、同族を滅ぼした……」
悲しげに瞼を伏せる。涙を流すのを堪えるように、ガブリエルの睫が
小さく震えていた。
「セラ様……」
かける言葉を見失っていたセラに、ふわりと笑顔を見せてガブリエルが言った。
「忘れないで下さい。この先、なにがあろうと、私は貴女の味方です。またいつか、必ずお会いできると信じていますから」
ガブリエルの雪のように白い手を握り締める。弱々しいけれど、優しい力が返された。
「……うん。有難う、ガブリエル」
もっと、伝えたい言葉はたくさんあったが、今のセラにはそう口にするのが精一杯だった。
笑顔と共に ――― 。
「私が守護する水の加護を貴女へ…、永遠に」
囁くように言って、ガブリエルはセラの頬に口付けを落とすとゆっくりと手を離した。
懐かしい言葉に……堪えきれずセラの瞳から涙が溢れ出す。
その姿を愛しそうに見つめながら、ガブリエルは「さあ、」と扉へとセラを促した。
促されるまま、セラは振り向くことをせずに部屋を後にした。
『……全ての始まりは何だったのでしょうね』
ガブリエルの言葉が脳裏に浮かぶ。
セラは、窓の外に視線を向けたままで、思いを巡らせていた。
全ての始まり……。
(私とセイが出会ったこと……?)
違う。
もし、生み出されたことから始まっているのなら。
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