第一節. 真を探せし者たち(5)
 還っておいで……。私のもとに。
 全てを生み出し、おまえを作りし私のもとへ。
 還っておいで……。

 アレはきっと、神の声。
 この身体に溜め込まれた力を還元するために、呼んでるのかもしれない。

 それでも、もう逃げない。

 逃げたために、たくさんのものを失ったから。
 アレクシエルも、ガブリエルも。

 そして ―――― セイ。
 とても大切なひとを……。
 もう ――― なにを言われても、どんなに拒絶されても、信じるよ。

 セイと過ごした日々に偽りなんてなくて。
 同じものから生まれたから惹かれあったんじゃない。
 同じもの、というのなら。
 神に生み出された生命その全てが同じもの。

 そのなかで、出会って惹かれあったこの愛はきっと信じることができる。

 だから ―――― 待ってて。


 セラは固く手の平を握り締めると、目の前の神の塔へ通じる門を見据えた。

「覚悟はいいか?」
 セラの横で同じく門を見据えてるミカエルが訊く。

 反対側に立つラファエルとその隣のウリエルと同様に頷いた。

 少しでも油断すると、地面に這い蹲りそうになる感覚を重い威圧と共に受けながら、ミカエルたちは門を開け放った。


 塔への門を開けたセラたちの様子を塔の最上階から見下ろしながら、ルシファーは漆黒の目を細めた。

「最後の審判だぜ、あんたも」

 嘲りを含めた口調で言う言葉を、ルシファーの後ろでふわふわと浮かんでいる光が受け止めた。

[これでいいのか、ルシフェルよ]

「新しい時代の幕開けってヤツ? いいんじゃねぇ。あんたももう疲れたろ。一人でいくのは寂しいだろうからさ ―― 一緒にいってやるよ」

 可笑しそうに、光の球が震える。
 震えが止まったあとに、冷ややかな響きが返った。

[くだらぬよ]

 ルシファーは静かに目を閉じる。

[ルシフェル。くだらぬのだよ]

 繰り返される言葉。
『くだらぬのだ、ルシフェル。全て、くだらぬのだ』

 初めて聞いたときはその衝撃に言葉が出なかった。
 全身に震えが走った。生きながら、翼をもぎ取られるとはこういうことか、とまで思う苦しみを味わった。

 脳裏をセラの笑顔が過ぎる。

『ルシファー』

 何も知らない無邪気な奴だと、最初は鬱陶しかった。

『私はセイが好きッ!』
『それでも、私が聖を信じたいって思うのは馬鹿なことかな?』

 一生懸命に何かを想うその姿に ―― 魂に惹かれて、気づいた。
 きっと、あいつの中ではくだらないことなんてひとつもないだろう。
 バランスを失って破滅へ向かうこの世界の中でも、全てが大切だと笑うその姿はまるで ――― 。

『先輩!』

 暗闇の中で見つけ出した差し込む光。
 たとえ、自分の方を見ないとわかっていても。
 失えない、可能性。

 ルシファーの顔に皮肉めいた笑いが浮かぶ。
 手の中に剣が現れる。その柄を強く握り締めた。

 ふと、思い出した。

「そういえば、俺。あいつに真剣に言ったことなかったんだよな」

 からかうたびに、反応が面白いから。つい真面目になれなかった。
 いや ―― 、怖かったのかもしれない。
 真剣に振られて、傍にいられなくなることが。

「あーあ、俺って最後までカッコ悪ぃよな」

 苦笑しながら、振り向いた。
 視線の先には、光の球 ―――― 。

[おまえもくだらぬよ]

 言い捨てられる言葉。
 けれど、ルシファーはにやり、と笑みを零した。

「くだらないことでこの世は成り立ってるんだぜ、作り出したあんたが忘れるなんてな。今から思い出させてやるよ」

 剣に漆黒の光が宿る。
 それを振りかざすと、ルシファーは光に向かって駆けていった。




◆――◆


 ゆらゆら、と。
 深い闇の中を漂う。
 とても心地よくて、ずっとこのまま ―――― 。

 ……イ、
 だれ?

 …………セイ、
 ダメだ。起こさないで。

 俺はこのままで ―――― 。

『セイッ!』

 うるさい。うるさい。起こすな!
 俺はこのまま……。

『あー、そうですか。ふーん、だったら俺がセラちゃんにナニをしたってかまわねえんだな?』

 セラ……?

『あーんなこともそーんなこともしちゃっていいんだよなあ?』

 ………なんだって?

「そんなこと許すわけないだろっ?!」

 怒鳴りながら聖は目を覚ました。
 目の前では懐かしい顔が楽しそうにニヤニヤと笑みを広げていた。

「ようやく王子様のお目覚めか?」

「…………先輩?」

 目の前に立っている姿が信じられずに、聖は怪訝そうに見る。
 そう口を開いた聖にホッとした表情を浮かべ、ルシファーは苦笑した。

「ちゃんと生きてるみたいだな」

 そう言われて、聖は眉根を寄せる。気まずそうな表情で、応えた。

「残念ながら、そうみたいですね……」

 途端、小さな力の塊が聖の頭にぶつけられる。

「……っ! なにするんですかっ?!」

「好きな女を泣かせてんじゃねーよ」
 冷たい光を宿した漆黒の瞳が射抜くように聖を見据えていた。

 脳裏に最後の瞬間に見たセラの泣き顔が浮かぶ。
 あのとき口にした言葉は全て事実で、戯言だったと誤魔化すつもりはない。けれど ――― ……。

「泣いて……」

 今も、泣いてるんだろうか。
 そう思うだけで、心臓を鷲づかみにされるような気分だった。

「まあ、すぐ泣きやんだけどな」
 ルシファーは肩を竦めて聖に言った。

 ふと、真剣な口調に変わる。

「…………信じるとよ」
「えっ?!」

 驚く聖から視線を外して、ルシファーは瞼を伏せた。

「お前を信じるって言ってたぜ。セラちゃんは」

 一瞬、理解できずに聖は呆然となった。
 (信じる? だれを? ……俺を?)
 頭の中を疑問が埋め尽くす。

 騙していたんだ、と。嘘をついていた。
 そう言って、傷つけて。更に惹かれていたのは同じものから生まれたんだと、傷を深く抉った相手を信じるのか。

「……バカだ」
 思わず呟いて、けれど頬に熱いものが流れていくのがわかった。

 セラの ―― 世羅の笑顔が広がる。
 騙していた。嘘をついた。傷つけて ―― 泣かせた。

「…………バカだったんだ」

 世羅じゃなく。
 バカだったのは俺。

 知らず握り締めていた手に力を込める。

「先輩が世羅をどこか ―― 神さえも手の届かない所へ連れて行ってくれるならそれでいいと思った。代わりに俺が神に還元されれば少なくとも暫らくは世羅から逸らせる…そう、思ったんだ」

 苦しげな表情で言う聖の言葉を、ルシファーは黙って聞いていた。

 誤魔化すためにバービエルまで犠牲にしたというのに。
 だれよりも……。どんなに罵られても、世羅が大切だった。だから ――……。

『信じるよ』

 世羅の声が聞こえる。
 いつだって、そうだった。

 神から奪うために、人間への転生を促した俺を信じると言った。
 あの瞬間から、きっともう俺の中の復讐心は世羅を愛する想いに癒され始めてたんだ。

「……知ってるか」

 ふと、沈黙を破ってルシファーが口を開いた。

「俺は誰かの思惑通りに動くほどいい性格じゃねぇんだぜ」
 ニヤリ、と口の端を上げる。

 聖は苦笑を浮かべて「それでも」と、応えた。

「世羅のためっていうのは例外だろ? それに世羅もあんたに惹かれてるみたいだし」

 ぴくり、とルシファーの片眉が跳ね上がる。
 不機嫌な表情に変わった。

「俺の口から言いたくはないんだ。でもそれこそセラちゃんのためだと思って我慢して言ってやる」

 言いながら、ルシファーは聖に向かって歩み寄ると胸倉を掴んでグイッ、と引き寄せた。

「なっ?!」

 驚く聖をよそに、ルシファーは苛立ちをぶつけるように言葉を放った。

「世羅が正真正銘に惚れてンのはお前だっ!」
 ――――― がッ!

 聖が地面に吹き飛ぶ。
 ルシファーは倒れた聖を構わず引き起こした。

「弱気になろうが、お前が負けようが自分のことだから勝手にしろって言ってやる。だが、あいつの気持ちだけは疑うな!」

 掴んだままの手に力を入れて、聖の身体を揺さぶりながらルシファーが叫んだ。

「あんたになにがわかるんだっ! あいつはいつも大事なことはあんたに話して俺には話さない。俺を頼ろうとはしてくれないんだっ!」

 悔しそうに睨みつけながら聖が反論する。

 まっすぐと見てくる視線に、ギュっと一瞬だけ聖の襟元を掴んでいた手に力を込めて、ルシファーは手を放す。
 反対の手が強く握りこまれ、青白くなっていた。

「……あいつは何も言わねぇよ。俺はただ ―― ……」

 悲しげにルシファーの顔が歪む。

「俺とセラちゃんは似てるんだよ。だから手に取るようにわかるんだ」

 行動のひとつひとつ ―― 。思考の行き着くところが、まるで見えてるかのようにわかる。

 聖の目の奥の光が揺れた。
「似てる? あんたとセラが?」

「ああ、俺はそれがわかってて ―― だからこそ愛しいと思う。思える。だが、あいつはだからこそ俺を愛することは一生ないだろう」

 自嘲する表情を浮かべて、ルシファーはフッ、と息を吐いた。

 (だから魂だけでも傍にいてくれるなら、と願った。たとえそれが微かな希望だったとしても……。)
 叶わないとわかっていた契約に縋りながら ――― 。

「先輩……」
 戸惑った表情を浮かべる聖の額を小突く。

「だからといって、お前に同情されるほど俺は落ちぶれてねぇよ」

「……なんなんだっ、あんたは!」

 小突かれた場所を押さえながら、ムッとした顔で聖が言った。

「意地っ張りな世羅ちゃんはお前と対等でいたいんだよ。守られてるだけじゃなく、な。だから泣き言を簡単に口にはしないさ」

 それでもルシファーにはわかっていた。
 世羅が心の中でどれだけ聖を頼りにしていて、甘えているか。
 彼女という存在の全ては聖という心の拠り所があるから、たとえどんな真実を聞かされようと失われずにすんでいるのだ、ということを。

 もしも聖がいなければとっくに世羅の心は壊れていただろう。

 (胸に刻んでいるあの笑顔を失わせないために ―― 。)
 そう、きっといま自分はそのためだけに動いている。
 だから ―― 。

「聖、伝えに行ってやれよ。今のお前の本当の気持ちを」

 ハッ、と弾かれたように聖はルシファーを見た。

「復讐に染まっていた頃のお前の想いでもなく、あいつを守るための嘘でもなく、今のお前の本当の気持ちを伝えろ」

 ルシファーの言葉が聖の胸を貫く。
 本当の気持ち ―――― 。
 きっと今、届けたいのはたった一つの想いと言葉。

『愛している』

 約束したから。
 帰る場所は世羅のところだと。
 聖は決意を固めるように手の平を握り締めた。

 それを見て、ルシファーはスッと腕を伸ばす。指差したところにはうっすらとした光があった。

「あそこが出口だ。俺の力でここに還元されたとき結界を張っておいたが、時間がない。早く行け」

「先輩は?!」

 振り返る聖に皮肉めいた笑みを浮かべる。
 いつもの彼の表情だった。

「お前に心配されるようだと終わりだっていうの。ほら、さっさと行け!」
「だけど!」

 進むのを躊躇う聖を叱り飛ばすようにルシファーは言った。

「お前にはお前の、俺には俺の役目がある! 結界が閉じる前にさっさと行けって! これ以上、世羅ちゃんを泣かせんな!」

もう、世羅ちゃんの ――― 、あいつの泣き顔はうんざりだ。守りたかったのは笑顔。幸せだと、微笑む姿。

 聖は一瞬だけ躊躇って、すぐにルシファーの顔をまっすぐ見つめた。視線を逸らされずに頷くルシファーに、『わかった』と短く返して踏み出した。

その背中が止まる。

「……ありがとう、先輩」

そう言って、聖は今度こそ振り返ることなく光を目指して走り出した。

「世話のかかるやつらだぜ」
 その背中を見ながら、ルシファーは小さく呟いた。

 ずしり、と身体の重みを感じて膝をつく。
 力が吸い取られていくのがわかる。
 それでも、聖が行くまでは結界を解くわけにはいかない。

 その場に座り込んだ。
 膝を立てる。

 胸ポケットを探ると、くしゃくしゃになった煙草の箱が出てきた。唯一残されていた一本を銜えて、先端に火をつける。

 長い息とともに煙を吐き出す。

「まじぃ……」
 ゴホ、と小さく咳き込んだ。

「あー、世羅ちゃんが火ぃつけてくれた煙草……、もう一回吸いてぇよな」

 苦い味が口の中に広がって、身体中の力が失われていく感覚に襲われる。
 それでも、脳裏には世羅の笑顔が浮かんで ――― 。

『先輩!』

 ルシファーと呼ばれるよりも好きだった呼ばれ方で、思い出す。

 たとえ、報われることがない想いだったとしても、本当に傍にいられただけで幸せだった。
 似合わない言葉だ、と苦笑する。

 だが、最後まで踊ってやると決めたあの日から。
 ずっと、ずっと ―――― 。

 幸せ、だった……。

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