■ Dark song 02 ■
随分と楽しそうですね、
かけられた声に、珍しく思案にふけっていた少女は我に返った。
それでもそんな素振りは見せずに、感情のこもらない声だけを返す。
「報告書の項目に余計なことを書く欄はなかったはずよ」
姿を死角になっている路地裏に隠したままで、相手が苦笑するのがわかった。
表で壁に寄り掛かっている自分は、周囲から見れば待ち合わせでもしているように
見えるだろう。
時折、時計を確認するフリを忘れない。
口を開いたところで、時間に遅れている相手への愚痴程度にしかわからないはずだ。
「相変わらず手厳しい。では、報告だけ。決行は3日後です」
「――――― 早いわ」
一瞬の間の後、少女は小さな声で返した。
その口調がわずかに震えていることに相手は気づいただろうか。
案の定、驚いたような言葉が紡がれる。
「証拠は整っています。これ以上遅らせると逃げられるかもしれませんが……」
それでも少女に絶対の信頼を寄せているらしい相手は、どこか緊張した声で聞いた。
「なにか問題でも起こりましたか?」
よほど珍しいのだろう。
少女が決定事項に口を出すのは。
たとえなにかが起こっても、決定したことを守るためならどんなことでもしてきたのだ。
実際に、少女のとても年齢に見合わない頭脳と行動力、判断力はそれを可能にしてきた。
だからこそ、躊躇うのはなにかあるのだろう。
相手はそう判断したようだった。
「……いや、わかった。3日後ね」
かすかに頭を横に振って、少女はそう返した。
「…………?」
なにか言いたそうな気配を放つ相手に、けれど少女はそれ以上の言葉を
許さないとでもいうように冷たい空気を纏った。
それに気づき、相手も「ではそのときに。」と短く言い置いて、気配を消した。
『 ――――― 早いわ』
自分が言った言葉を思い返す。
なぜあんなことを言ってしまったのだろう。
ほとんど無意識に紡いだ言葉だった。
早くなどない。
動きがあるその日は、完璧といっていいほど決行にふさわしい日だ。
もともと、それを決めたのは自分なのだから。
「この作戦は……。失敗だったのかも……」
俯いて灰色のコンクリートに視線を向けたまま、そう呟いた。
面影がちらつく。
どうしてかはわからなかった。
彼女なら、答えてくれるだろうか。
ちらつく面影とは別の存在を思い出して、フッ、と笑みを零した。
仕事のときに会いに行くことはできない。
巻き込むわけにはいかないから。
だけど……、会いたいと思った。
胸の中にわだかまる想いをきっと彼女なら教えてくれるはず。
そんな確信があったから。
もう何週間も会っていないから行けば、怒られるかもしれない。
『どうしてもっと早く会いに来ないの??!』
でも、同時に笑顔で迎えてくれる姿は想像できる。
『いらっしゃい』
懐かしさがこみ上げてきて、
――――― だから、傍に来ていた気配に気づけなかった。
声をかけようとして一瞬、時が止まったように思えた。
仕事の帰り道、ふと通りの向かい側で壁に寄り掛かって立っている少女を見つけ、
誰かを待ってるのか、と訝りながら名前を呼ぼうとして。
不意に少女が微笑んだ。
いつもの表情とさえ思えない微かなものではなく。
柔らかく ―――― 懐かしそうに微笑む少女があまりにも儚かった。
思わず、見惚れてしまった。
すぐに我に返り、周囲を見回す。他にその表情を見た者がいないだろうことを確認して、
今度こそ、声をかけるために傍へ歩み寄った。
「よ、こんな所でなにしてんだ?」
瞬間、驚いたように少女が顔をあげた。
……いや、怯えてる?
思い直して、困惑しながら言う。
「な、なにかあったのか?」
焦る声に、少女はなにかを隠すようにいちど瞳を閉じて、またゆっくりと瞼を開けた。
光を受けて金と見間違うような薄いブラウンの瞳がのぞく。
「考えごとをしてたのにいきなり声をかけてこないでよ。驚くから」
「……じゃあ、まずは遠くから名前を呼べってか?」
肩をすくめて言うと、少女は呆れたような表情を見せた。
「なんでそうなるわけ?」
先刻見かけた笑顔がまるで夢だったかのように。
いつもの表情だ。
もう一度、あの笑顔を見たいと思った。
一瞬で惹きつけられたあの顔を。
「お望みとあらば、呼ばなきゃな」
からかうように言って、口元に手を添え大きく息を吸う。
少女の顔にはできるわけない、と書いてあった。
「お ――― いっ」
通りに向かって叫ばれる声に少女はぎょっ、と目を見開く。
「ちょ、ちょ……」
慌てる少女に、けれど楽しそうな表情を浮かべて、続けて彼女の名を呼ぼうと
更に口を開きかけた。
が、寸前で彼女の掌に塞がれる。
「なに考えてるの?!」
「もがが! もがもがもがが……って窒息する!!!!」
少女の小さな手を強引に外して、抗議の声をあげた。
「あなたが変なことするから!」
周囲を見回せば、好奇心を向けられていた視線は、『なんだ、痴話げんかか』とばかりに
逸らされていた。
それでも彼女は睨みつける視線を送る。
「 ――― 悪かったよ」
頭をぽりぽり、とかいて謝罪の言葉を口にするが、その表情はとても
本気で言ってるものとは思えなかった。
睨んでいた少女は不意にくすくす、と楽しそうな笑顔を浮かべた。
…………驚いた。
先刻の何かを懐かしむような微笑もそうだが、少女がこんなに表情を
明らかにして笑っている姿を初めてみたから。
いつも微かに笑みを浮かべている程度だ。
そしてすぐに無表情になる。
だが、今はそれとわかるくらい。恐らく心から楽しそうに笑っていた。
「なんだ、そんな表情もできるんだな」
言ってからしまった、と思った。
少女の身体が微かに強張る。
「わ…わりぃ」
「ううん、久しぶりだから。こんなに楽しいのって」
小さく頭を振って言う少女の表情にハッ、と息を呑む。
柔らかい笑みは ――― けれど寂しそうな光を浮かべている瞳が裏切っていた。
一瞬、泣き出すのかと思った。
「……手、」
ふと、少女が呟く。
「え?」
「手が……」
聞き返すと少女は口を塞いでいた手を外すために握っていた手がそのままだと、
持ち上げる。
「ああ、」
思い出し、外そうとして……、ふと少女の両手に包まれた。
「もう少しだけ、このままでいてもいい?」
俯いたまま、遠慮がちに言われた言葉に苦笑する。
そうしていたいと思っていたのは一緒で。
「しかたねえな。妹の頼みは断れないから、ちょっくらデートでもするか」
そう言うと、少女は頷くかわりに少しだけ握っている手に力を込めた。
「……なるほど」
報告を聞きながら、書類を読んでいた青年は静かな口調で頷いた。
「リーダーとシルバーからの報告書は完璧だ。計画は順調そうだな」
満足そうに言う。
控えていたゴールドの称号を持つ青年が口を挟む。
「では決行は3日後と?」
「……いや、」
一瞬、剣呑な光を宿して統帥が口を開いた。
すぐに消えてしまったそれは、ゴールドが立っている位置からは見えない。
「早めるよ。……明日の夜だ」
「それはっ、いくらなんでも」
早すぎませんか?
そう続けようとして、遮られた。
「この報告書を見る限り、決行はいつでも良さそうだ。というよりは、早ければ早いだけいい。
それにだ。リーダーには早く戻ってもらわねば、他にも仕事がある。これ以上は時間の無駄だ」
断言される言葉に、ゴールドは納得した。
確かにリーダーをひとつの仕事に掛からせておくのは問題がある。
だが、そこでふと彼は疑問がよぎった。
いつものリーダーなら決行の日が決まった時点で一度は戻ってくるはずだ。
打ち合わせをするために。
けれど、今回は……。
「ゴールド、早まったせいで準備があるんじゃないか?」
かけられた声に我に返る。
「そうでした。では、失礼します」
動揺を押し隠して、足早に部屋を出た。
部屋から気配が遠ざかると、彼は深く息をついた。
背中を預けた椅子が小さく悲鳴を上げる。
「気になって様子を見に行ってみれば……随分と、」
目を閉じれば少女の楽しそうな表情が浮かぶ。
見たことがなかった。
……否、彼女のあんな表情を見たいとさえ思わないが。
自分ではない誰かに自ら触れていた。
脳裏で切り刻む。
必要なのは ――― 苦しみと。絶望。
狂おしいほどの独占欲。すでに狂っているといってもいい。
「君に許されているのは私だけだと、」
何度でも。
何度でも、わからせよう。
そう心に決める。
その甘美ともいえる想いに酔うように、彼はひとつの名を呼んだ。
ユウ ――――。