雨のち晴れ。ときどき、嘘つき。
雨の日(3)
雨が降っているせいで、部屋の中は湿気がこもっていたから除湿機の電源は入れたけどクーラーは入れてないのに、どうしてこんなに部屋の中は寒いのか、その原因に思い至って視線を向けた。
「……どうしてこんな時間に、郁斗がここにいるんだ?」
「やだなー。可愛い婚約者を送ってきたに決まってるデショ」
郁斗先生はソファにまるで主人のように座って、ミネラル水と氷の入ったコップをからんからんと揺らしてからかうようにドアの前に突っ立って不穏な空気を纏っている睦兄に言った。
ね、佳澄ちゃん、と同意を求められる。私に振らないで、とキッチンの中で冷や汗をかきながらフライパンに割ってだし汁を混ぜた卵を流した。
「 ――― 佳澄」
「睦兄、ほら。とりあえず、着替えてきて。私も明日の下ごしらえしたら、お風呂入って寝ちゃうから」
私が言うと、睦兄は納得のいかない顔つきで自分の部屋に戻っていった。ほっと胸を撫で下ろして、郁斗先生に苦情を突きつけることにする。
「だから、ご飯食べたら帰ってって言ったのに」
軽く睨みながら言っても、効果はまったくないみたいで、ひらひらと手を振りながらグラスに残っていた水を飲み干していた。
下ごしらえした材料を冷蔵庫と冷凍庫に分け入れて、食器を片付け終えた頃には、睦兄がお風呂から上がり、スーツから部屋着のラフな姿になって再び、リビングに戻ってきた。
「で、まだお前がこんな時間に我が家にいる理由を聞いてないけど」
不機嫌な口調で言いながら、キャビネットを開けて置いてあるウィスキーボトルとグラスを取って先生の向かい側のソファに座った睦兄を見て、呆れた気持ちになった。結局は先生がいるときにしか飲まないアルコールに嬉々として手をつけているくせに。
先生もわかっているのか、私に合図のように視線を向けてくる。はいはい、と心の中だけで返事をして冷凍庫から氷と冷蔵庫からお酒のおつまみになるようなものを取り出して持っていった。テーブルの上に置いて、御礼を言うふたりに口を開く。
「私は寝るからね。ふたりとも、明日も仕事があるってことを忘れずに」
きちんと釘を刺すと、先生は「はーい、おやすみー」と聞き流すように返事をして、睦兄は笑顔で「おやすみ」と言った。私も「おやすみなさい、睦兄」と名指しで返して踵を返す。
「えー。オレにはないのー? 佳澄ちゃん、オレの夢を見るんだよー」
不満そうに言う郁斗先生の声は、扉を閉めることで遮った。
お風呂に入って部屋に戻る。静まり返った部屋の中では、まだ止まない雨の音が聞こえる。音楽をかけようかと思ったけど、どうせそれくらいでは消えてはくれない。
(さっさと寝てしまおう。)
それが一番だと、机の上に置いている目覚まし時計をかけてから、ベットに向かった。寝ようとして、ふと枕元に見慣れないものがあることに気づいた。小さなリボンのついた袋。手の平サイズのそれに眉を顰める。薄い紫色の袋を持ち上げると、ふわりと香りが漂ってきた。ラベンダーの香り。タグがついてあることに気づいて、よく見ると『ラベンダー:心地いい睡眠を促します。』と書いてあった。
(いつの間に ――― 。)
こんなことをするのは、睦兄しかいない。
やっぱり朝の学校に行きたくない発言は、気にかけてしまったらしい、と申し訳ない気持ちになった。だけど、こうして気遣ってくれることが嬉しい。雨の日に沈んでしまう気持ちをいつもこうして引き上げてくれる。ほんわかと胸の中が温かくなっていく。
「明日の朝御飯は睦兄が好きなオムライスにしよう」
今日はよく眠れるだろうから、明日は早起きできる。それに、明日には雨があがると八十%近く当たる気象予報士が言っていた。だからきっと、大丈夫。そう言い聞かせて、枕元に小さな袋をそっと置いてから眠ることにした。
「お前さ。戻ってくる気ないの?」
睦月の問いかけに、二杯目のウィスキーをグラスに注ぎながら「ないない」と応じて、あっとそこでわざとらしく付け足した。
「佳澄ちゃんが結婚してくれたら、戻ってもいいぜ。どうしてもっていうならだけどな」
「二度と戻ってこなくていい。むしろ、僕と佳澄からは見えないところに行ってくれ」
憮然とした表情で、冷たく突き放される。男でも見惚れてしまうほどキレイな顔をしている睦月の表情がない顔は、見慣れていても怖いと感じてしまう。外面のよさは同じだけあるはずなのに、急に不機嫌になる理由、というよりも感情を見せるのは決まって、義妹のことだけだった。最初はそれが面白くてちょっかいをかけていたわけだが。
「なあ。オレ、聞いちゃった」
ふと、今日この時間までこの家で睦月を待っていた理由を持ち出して、手に持っていたグラスを揺らす。同じく二杯目を注いでいる睦月は思い当たることがないのか、眉を上げただけで話の本題を促してきた。些細な変化を見逃したくなくて、注意深くその表情を見ながら言う。
「おまえさ。お見合いしたんだって?」
「………本当におまえの情報源が怖いよ、僕は」
呆れた表情を浮かべて溜息をついた睦月は、二杯目のウィスキーを一気に流し込んだ。苦笑して、肩を竦める。
「わかってるとは思うけど」
「佳澄ちゃんには言わないよ」
先回りして答えると、諦めたように口を開いた。
「 ―― 重要な取り引き会社の社長婦人がお節介にもお見合い好きなおばさんだったんだよ。断れなくてね」
「どこだよ、それ」
ひとつの大手会社が睦月の口からあがる。聞き覚えがあった。最近、睦月から回ってくる会社の資料と情報を比べて、確かに重要な取引先だと納得した。
「娘はいなかったぜ。ってことはおまえの年齢に合うあたりっていうと、姪か。我侭な性格だって聞きかじったよーな」
「本当にお前は怖いよ、そういうところ。なんで取引先の家族、親戚事情を知ってるんだ?」
うろ覚えに口にしていると、ぺしっと頭を叩かれた。にやりと口の端をつりあげて、空になった睦月のグラスに三杯目を注ぐ。
「姪御さん。確かに我侭そうだったな。まあ、失礼のないように断ったから関係ないけどね」
「またあれか。僕には好きな女性がいるし、妹が一人前になるまで誰と付き合う気も、まして結婚する気もありませんって? 自分で言ってて、虫唾が走っちゃうわ、オレ」
交際を申し込んでくる女性の尽くを片っ端からそう言って断っているのを見てきたから、睦月の断るときの文句も、表情も想像するまでもなかった。そのときの睦月は完璧だ。付け入る隙もないくらいに冷たく、無表情。少しでも、外面のよさがあれば、「それでも待ってる」とかなんとか、押しかけてきそうな勢いが女性にはありそうだし、そう言ってもいいほど睦月は好条件の物件だ。顔よし、金持ち、社長さんってやつは。しかも、外面だけで見るなら、性格も優しく、女性をエスコートすることを常に自然としてしまう紳士。惚れない女性はいないだろう。だけど、恋愛面では酷く冷たい。特に感情を押し付けてくる女性に対しては、付け入る隙を与えない。二度と告白しようという気にさせないほど。
「いいじゃんか。結婚しちゃえよ。佳澄ちゃんはオレが責任をもってお嫁さんにするから」
「そこに佳澄の愛がなければ、何を言っても無駄なんですよ、郁斗先生」
空々しく言いながらグラスを呷る睦月を軽く睨む。
「オレの真剣な愛を邪魔してるのは、睦月デショ。学生の頃のオレの言葉を佳澄ちゃんに告げ口したし?」
「佳澄が騙されないように事実を告げるのも兄としてのお役目ってやつ?」
嘘つきめ、と声に出さずに視線を投げやる。それでも肩を竦めるだけで、睦月は目を逸らした。
なにが、兄だ。そう嘲笑してやりたかったが、その嘘がふたりの距離を縮めることがないとわかっていると、突きつける気にはならなかった。
「まあ、でも。おまえが真剣なのはわかってるよ」
急に話を振られて、眉を顰める。真面目な顔になった睦月は、ふっ、と苦笑を零した。
「佳澄との時間を持つためだけに学校の先生になるし。佳澄が雨の日にひとりでいるのが苦手とわかっているから、今日も残ってたんだろ。そうまでしておまえが女に付き合うところは初めて見るしな」
それは隠してもいない、むしろ公言している事実なだけに恥ずかしがることでもなく、何も言わずにただ、ウィスキーを飲んだ。ごくり、と喉が鳴る。明日学校があることを思うと、流石に五杯目で止めとくべきか。最も、瓶に残っている量もお互い一杯ずつというところか。
「会社を押し付けて、おまえと佳澄ちゃんの時間を奪った罪悪感もちょこっとはあるけどねー。ま、これっくらい?」
親指と人差し指の間を数ミリあけて突きつけると、ぺしりっと再び頭を叩かれた。その罪悪感が、佳澄ちゃんに強引になることができないストッパーだとは口が裂けても言うつもりはないけど、きっと睦月はわかっていて、黙っている。罪悪感を拭い去ってくれるつもりも、その傷口を広げるつもりもないらしい。まったくもって、生殺しだ。それを受容しているのもオレ自身なワケだけど。
「で、そのちょこっとの罪悪感がオレを唆すわけだ。おまえと佳澄ちゃんがくっついて幸せになるなら、オレも諦めがつくんだけどなーって」
何気ない口調で言うと、げほっ、と睦月がむせた。キレイな顔が珍しく動揺して、歪んでいく。
「学校の先生になると、これくらいで酔っ払うのか?」
「いたって正気。二日酔いにもならないね」
肩を竦めて言えば、不機嫌な視線に貫かれた。それでも、話を終わらせる気にはなれなくて、更に言い募る。
「佳澄ちゃんのこと、好きなんだろ?」
黙りこんだ睦月は、視線をどこか遠くへ投げかけて、ただグラスを呷る。それ以上の問いかけはお互い無駄のように思えて、瓶に残っているアルコールをグラスに注いだ。余った分を睦月のグラスに注ぐ。空になったガラス瓶は、透き通っている。見透かすようにじっ、とそれに視線を落として、睦月の言葉を待った。まるで、罪でも告げられてしまうような、重苦しい空気が漂う。
それを打ち破ったのは、睦月がついた小さな溜息だった。
「……そりゃね。佳澄のことは妹として大好きだよ。可愛いし、目の中に入れても痛くない」
誤魔化すなよ、と咎めようとして、睦月の強い視線に遮られる。オレが押し黙ると、睦月は先を続けた。
「だけど、女としてっていうのは、それは ―― 」
はっ、と息を呑んだ。それまで無表情だった睦月の表情が悲しげに顰められる。苦しみに染まった瞳で睦月が放った言葉がゆっくりと脳に浸透していく。
――― それは、罪なんだよ。
睦月が底知れない絶望を抱えていることが伝わってくるほど、その声は悲しみに満ちていた。
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