雨のち晴れ。ときどき、嘘つき。
雨の日(4)
気象予報士の天気予報は見事に外れてしまった。昨日ほどじゃないけど、霧雨が降り続いている。その光景に思わず大きな溜息が零れた。同時にずきり、と頭が痛んだ。
「佳澄、村田君が呼んでるよ?」
上総の声に痛みで一瞬顰めてしまった顔をすぐに戻して廊下を見ると、手招きしている村田君の姿があった。
「うん。委員会あるの。行ってくるね」
「大丈夫?」
委員会用のノートと筆箱を取って、席から立ち上がると上総が気遣うように訊いてきた。えっ、と視線を向けると、可愛らしい顔なのに眉間に皺を寄せて変な表情をしていた。
「こーんな顔してたから。頭痛いんじゃない? 雨続いてるし、調子が悪いんでしょ?」
その顔は私の真似だったんだ、と呆れた気持ちになりながら、心配してくれる彼女に微笑んで見せる。
「あとは、委員会だけだし。大丈夫。有難う」
そう返事をすると、ほっとしたように笑ってくれた。
「じゃあ、何かあったら電話でも、メールでもしてね」
釘を刺すようなその言葉に頷いて、友達の優しさに感謝する。心配してくれる人がいるというのは素直に嬉しい。ただ、それ以上に踏み込めない自分が少しだけ悲しかった。雨の日が苦手だってことは話しているけど、その理由までは ―― 。友達だからと言って、全部を話す必要はないと思うけど、心配してくれる姿を見ると胸が痛む。そうして、恐らく上総は何も言わずに待っていてくれてることがわかるから、余計に。
「なんか、深刻そうだね」
はっ、と我に返って隣を見ると、村田君が難しそうな顔をして視線を向けてきていた。
「えっ?」
「悩み? ずっと、眉間に皺がよってたから」
ぐりぐりと自分の眉間を人差し指で押さえる。そういえば、上総にも言われたんだったと思い出して、笑った。
「違うよ。雨が続いてるからかな。ちょっと頭が痛いだけ」
そう答えると、村田君は眼鏡の奥の目を大きく見開いた。すぐに心配そうに言う。
「そうなの? じゃあ、無理して委員会にでなくてもよかったのに。俺が出ておくし」
帰りなよ、と続きそうな言葉を遮って言った。
「へいきよ。ちょっとだけだもん。それにあとは委員会だけだから、ちゃんとでるよ」
少し強い口調だったのか、一瞬押し黙った彼は、すぐに頷いてくれた。
「でも、我慢できなくなったら言ってよ?」
了解、と返事をすると、でもよかった、と安心したように言われる。怪訝な顔をすると、苦笑混じりに村田君は続けた。
「この委員会が唯一、春日さんと一緒にいられる時間だから」
そう言って、あっ、と慌てて口を塞ぐ。
( ――― え?)
どうしてそんな驚いた顔をしているのか、言われた言葉の意味もすぐにはわからずに、不思議そうな顔をしていると、彼は少しだけ先に立って歩き出した。
「あっ、村田君っ、ちょっ、」
慌てて後をついていく。後ろからでよくはわからないけど、その頬がほんのりと赤く染まっているように見えた。
思いもがけない告白に戸惑う気持ちが大きい。っていうより、告白だよね? 自信はないけど、告げられた言葉の意味がわからないほど鈍感じゃないつもり。 ―― むしろ、人の気持ちには敏感に察することができるようになってる。だけど、今は嬉しいというよりも、ただ時折だった頭の痛みが酷くなっていくのを感じていた。
隣で車のハンドルを握っている郁斗先生はさっきから無言だった。いつもなら、うるさいくらいに軽口を言っているのに。このままホテルに行こうか、とか。夜景のキレイな場所にデートに行こうとか。いっそ、教会にでも突っ走ろうとか、半分以上の本気を混ぜて。それでも、先生は私が首を振り続け、拒否する限りはそれ以上迫ってこない。それを知っていて、甘えるのは気が引けた。だから、突き放しているのに、結局こうして今、甘えている私はやっぱり卑怯者かもしれない、と情けない気持ちになった。
「言っとくけど、迷惑とかは思ってないよ」
ようやく、郁斗先生が話しかけてくれた。そうは言っても、顔は前を向いたままで、目が怖いくらいに不機嫌を訴えているけれど。
「……機嫌悪いのに?」
「そりゃあ、悪くなるデショ」
恐る恐る問いかけた言葉に、更に低い声で返される。同時に落とされた溜息にびくりと肩が震えた。
「佳澄ちゃんが倒れたって聞いたとき、オレがどんな気持ちだったか。我慢できなくなる前にオレのところにおいでっていつも言ってるでしょーに」
「……ごめんなさい」
素直に謝罪すると、再び溜息が落とされた。
「謝ってほしいわけじゃないよ。次からは気をつけてって釘を刺してるの」
「約束するから」
「睦月には言わないでって?」
しょうがないなーっ、とぽんぽんと左手で頭を叩かれた。
ほっと胸を撫で下ろして、車が地下駐車場に入っていくのをフロントガラス越しに眺める。郁斗先生の運転は上手くて、滑らかな動きで指定駐車スペースに入っていく。止まったことを確認して、シートベルトを外そうとすると手をつかまれた。
「郁斗先生?」
訝って視線を向けると、青い目がまっすぐに見つめてきていた。背筋にひやりとした冷たいものが流れていく。いつもの軽い雰囲気は微塵もなくて、重苦しい空気に息が詰まる。
「せっ、……」
「昨夜のオレと睦月の話を聞いてたね?」
ぎくりと全身が強張るのを感じた。問いかけ、というより、郁斗先生の目は確信を持っていて、言葉も確認するような口調で、心臓が一瞬止まるかと思うほど驚いた。
「ちがっ」
「迂闊だった。佳澄ちゃんは眠ってるものだと思って、つい油断した。ごめん、気づけなかったオレの責任だよ」
驚いて、違うっと言うよりも先に、心から申し訳なさそうに郁斗先生が言った。彼がこんなふうに反省した言葉を言うことは滅多にない。いつも人の何歩先でも先回りできるほど頭がいいから、反省するような羽目に陥らない。いつだって。だから、胸が痛んだ。
「そんなのっ、先生のせいじゃないでしょ? 私、寝る前にちょっと喉が渇いて、お水を飲もうと思ったの。だから、先生のせいじゃない」
「……やっぱり聞いてたのか」
溜息混じりに落された言葉に目を瞠る。騙されたんだ、と気づいたときには遅かった。ずるい、と拗ねる気にもなれずに、シートベルトを外そうとしていた手を動かした。かちり、と小さく音が鳴って、しゅるっと戻っていく。だけど、そこから先は動くことができずに、ただ力なく手を膝の上に落とすと、郁斗先生の大きな手に包まれる。
「オレは佳澄ちゃんが好きだよ。睦月とは違って、ちゃんと女として見てる」
「 ―― っ」
真剣な告白も、今はなにも聞きたくなかった。特に睦兄の名前も聞きたくない。手を振り払って、郁斗先生を見ると悲しげに瞳を揺らしていた。それがまるで憐れんでいるように見えて、ぎゅっと心臓を掴まれたみたいに苦しくなる。
「先生は知らないだけ。私がどんなに卑怯か知らないの。だから、そんなこと言えるんだよ。知ってたら言えないっ、知ってたらきっとっ」
――― きっと、睦兄と同じ言葉を言うんだよ。
そう言葉にしてしまったら、何かが壊れる気がして、言えなくなった。再び手を握ってきた郁斗先生はその甲に口づける。唇の柔らかい感触にはっ、と息を呑んで呆然と見ていると、優しい声で言った。瞳がまるで誘うように甘く揺らめいている。
「オレはどんな佳澄ちゃんでもかまわないって何度も言ってるデショ。卑怯者でも、犯罪者でも、それが佳澄ちゃんならオレは全力で守るよ。その自信があるからね」
伸ばされた手が頬をするりと撫でて、ほっそりとした指先が唇を辿っていく。近づいてくる吐息を感じて、我に返った。どんっ、と先生の身体を押し返して、急いで車のドアを開ける。
「 ―― 先生のバカっ!」
去り際にそれだけ叫んで、車から降りるとエレベーターのある場所に向かって振り返ることなく走った。空いたエレベーターに飛び乗って、ボタンを押す。扉が閉じると、ようやく安心できた。というよりも、ずるずると身体が崩れ落ちていく。しゃがみこんで、溜息をついた。
(睦兄があんなこと言うから ―― 。)
昨夜、水を飲もうと思ってリビングに続く扉を開けようとしたところで、意外な言葉が聞こえてきた。
(お見合い?)
足元が崩れ落ちそうになって、慌てて座り込む。目の前が真っ暗になってしまいそうだった。だけど、断ったと聞いて、ほっと息をつくことができた。立ち聞きは悪いと思って、もう寝ようと踵を返そうとしたとき、郁斗先生の声に再び足が止まった。
(睦兄が私を好き?)
そんなことありえない。あるわけない、とすぐに否定しながらも、睦兄の答えが気になった。妹として、という答えにやっぱりという落胆と、それでも嬉しい気持ちがわきあがる。大切に思ってもらえてるのなら、なんでもいいと縋る気持ちがあったから。だから、次の言葉は想像もしていなかった。
――― それは罪なんだよ。
そのあと、どうやって部屋に戻ってベッドに入ったのかも覚えていない。ただ、睦兄のその言葉が胸に深く突き刺さった。睦兄がどういう意味でそう言ったのかわからないけど、「罪」という言葉がまるでエコーでもかかったように、何度も何度も頭の中で繰り返された。
あんなに嫌いな雨の音も聞こえなくなるほどに ――― 。
社長室とプレートがかかった部屋の前に立って、ノックもせずにドアを開けた。すでに秘書から来訪の連絡を受けていたのか、さほど驚きもせずに書類から顔をあげることもなく、睦月が問いかけてくる。
「おまえ、仕事は?」
「オレが残業なんてするわけないデショ。それより、睦月チャンは今日の分の仕事まだ残ってるの?」
睦月が読んでいた書類の束を奪い取って、パラパラと見ると、たいした内容じゃないように思える。これくらいなら、まあ、いいか。と気持ちを割り切って、怪訝そうに見つめてくる視線ににっこりと笑ってやった。
「これ、オレがやっとくから。睦月はさっさと帰って、佳澄ちゃんの看病してやってくれる?」
「佳澄に何かあったのかっ?!」
がたんっ、と高級椅子があっけなく倒れた。それまでの表情ナシの顔は見る見る真っ青になって、目つきが鋭くなっていく。いつもならからかう余裕があったが、今はそんな睦月を見ていたくはなかった。
「微熱だけどさー。雨のせいかな。頭痛で倒れちゃった」
「あとは頼んだ」
必要な物をさっさと鞄にしまうと、短くそう切り捨てて扉に向かう。
へーへーと適当に返事しながら、椅子が倒れたから、革張りの客用ソファに座って書類に目を通し始める。ふと声がかかった。
「そういえば、珍しいね。おまえが代わりにここにくるなんて」
一瞬ぎくりと顔が強張りそうになったが、それを堪えていつもの愛想の良さを前面に押し出してひらひらと手を振る。
「オレの気が変わらないうちにさっさとお行き。佳澄ちゃん、睦兄、睦兄ってうめいてたよ」
止めとばかりに言うと、そうだな、とそれ以上の疑問を口にせずに、足早に部屋を出て行った。
睦月の気配が消え去って、静まり返った部屋の中で溜息をつく。窓ガラスから外を見ると、まだ雨が止んではくれていなかった。
「ちょっとした罪悪感だって言ったら、佳澄に何したんだーって問い詰められそうだしねー」
ぽつりと呟いてみる。誰もいない部屋では、虚しく響いた。ふっ、と苦笑が零れる。
まだ、まだ余裕はある。
ふたりが家族ごっこをしているうちは。その領域から抜け出そうとしない限り、隙はいつだってある。だけど、壊したくないと思っているのも本音だった。あのふたりの、互いを想い合う姿を。何かが強く結ばれているその絆を断ち切りたくはないとも思う。だからこそ、矛盾した行動をしてしまうんだろう、とそんな自分さえも愉しんでいるのだから、まったくどうしようもない奴だと、自分で呆れてしまった。それでも、あのふたりを失いたくないと思う感情こそが確かなもので、生まれて初めてだった。誰かを大切に想うことも。何があっても失くしたくないと想うことも。それはたった一人で生きてきた自分にはくすぐったくて、もどかしい感情ではあるけれど、仕方ない。特に佳澄ちゃんのことを思い浮かべると、心が温かくなるのも惚れた弱みだ。今更、抵抗しようとは思わないけど、いつかは決着をつけないといけないかもしれない。それでも、まだ早いと感じるのは確かで、今はまだふたりを見守れるだけの余裕があるから ―― 。
「あるかな、オレ。そんな余裕が……」
今日うっかり、佳澄ちゃんにキスしようとしてしまったことを思い出して、溜息をついた。初めてのキスは、もうちょっとロマンチックにと思っていたのに。女性に関しては要領いいと思っていただけに、衝動を抑えられなかったことが少し情けない。
「まあ、それが恋ってやつだねー」
ひとり呟いても、返事がないと虚しいだけ。わかっていても、こんな書類と向き合っていたら、つい独り言が多くなる。
「おおっ、これってあの睦月がお見合いしたって会社関連じゃん」
いいものみーっけ。
にやりと笑みが零れてしまう。睦月が見たら、何を企んでんだ、と怪訝な顔されること確実の笑顔が浮かぶ。間接的にしろ、佳澄ちゃんにちょっとでもいやな想いさせちゃったわけだしー。この会社に責任とってもらいますかね、とちょこっと残っていた罪悪感を押し付けることにする。それに、この先何かあったときのためにも準備は万端にってやつだな、と独りごちて、ズボンのポケットに入れておいた携帯電話を取り出した。
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