雨のち晴れ。ときどき、嘘つき。

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  雨の日(5)  

 ごめんなさいっ。ごめんなさいっ。私が悪いのっ、ごめんなさいっ!
 謝罪を繰り返しても、誰の耳にも届かない。全身に激痛が走っても、心が痛いと叫んでも、悪いのは自分だから、ただ届かない謝罪を繰り返して、我慢するしかなかった。

 助けてくれたのは ――― 。

 「佳澄っ!」
 ばたんっ、と乱暴な扉の音にはっ、と飛び起きた。
 急にぎゅっと強く抱き締められる。何が起こってるのか把握する前に、ふわりと懐かしい、優しい香りが鼻腔を擽った。この匂いが好きだと言ったら、毎日使うようになっていた睦兄のコロン。それでようやく睦兄に抱き締められているんだと気づいた。
 「むっ、睦兄? どうしたの? っていうか、え、仕事は?」
 「郁斗を代わりに置いてきた」
 いつもより早い帰宅時間に驚いて戸惑うように問いかければ、更にぎゅっと抱き締められて、耳元でそう返事があった。小さくうめく。
 (郁斗先生、言わないって言ったの、に……あっ、)
 やられた、と思った。しょうがない、とは言ったけど、言わないとは口にしていなかった。文句を言ったら、きっとそう返ってくる。してやられたことを思って、溜息をついた。とりあえず、この抱擁から離れるほうが先だと思った。
 「ヘイキだって。ただ、ちょっと微熱があって、頭痛と……」
 「僕がヘイキじゃないんだよ。佳澄に何かあったらどうするんだ。生きていけないじゃないか」
 宥めようと言った言葉を遮られて、まるで駄々っ子のように言われる。それは、嘘偽りなく感じられて、大切なんだという気持ちがひしひしと伝わってきた。それだけで、幸せじゃない、と自分に言い聞かせる。言い聞かせて、ぽんぽんと睦兄の背中をあやすように叩いた。
 「心配かけてごめんなさい。薬はちゃんと飲んだから、寝てれば元気になれるよ」
 そう言うと、ようやく睦兄が少しだけ身体を離してくれた。顔を見れたことが嬉しくて、自然と頬が緩む。それでもまだ、睦兄のキレイな顔は不安げな表情を浮かべていた。
 「睦兄、お願いがあるんだけど」
 ベッドの縁に座っている睦兄をじっと見つめて言う。
 「うん?」
 「私が眠るまででいいの。手を繋いでて」
 具合が悪いときはいつだって、そうしてもらっていたから、つい甘えたくなる。だけどこれは、私が口にできる睦兄への唯一の我侭で、だからこそ睦兄は優しく微笑んで、「もちろん」と頷いてくれる。
 もう一度ベッドに横になって、睦兄の手を握る。伝わってくる体温に、泣きたい気持ちに駆られて、顔半分まで掛け布団を引き上げた。

 黙っていると、まるでシャワーを流しているような小さな小さな、雨の音が聞こえる。睦兄の温もりを感じられるのなら、それも気にならない。さっきまで見ていた夢ももう、忘れてしまった。

 ――― むしろ、今は部屋の中にふたりっきりで閉じ込められているみたい。世界中で二人だけ。本当にそうなれば、雨の音もヘイキになれるのに。世界が雨に覆われていても、かまわないと思えるのに。不安も、罪を暴かれる恐怖も抱かなくてすむのに ―― ふたりっきりなら、怖くない。

 「…………睦兄?」
 「どうした?」
 低く落ち着いた声が優しく応じてくれる。すっかり冷え切っていた心の中がじわりと、温かくなっていく。ううん、と首を振って、握っている手に力を込める。睦兄の顔を見て言うほど強くはなくて、瞼を閉じたまま口を開く。
 「わたし……まだ、この手を離さなくていいよね?」
 子どものような問いかけに、少しの間も開けずに強い力で握り返されて、「あたりまえだよ」と声がした。
 それは胸に切なく響く。
 いつかは、この手を離さないといけない。それはわかっているけど、心のどこかが願ってる。一生そんな日が来なければいいのにって。勿論、それは許されることじゃないけど。だけど、睦兄に頷いてもらえる「まだ」が永遠に続けばいいと思っていた。

 規則正しい佳澄の寝息を聞きながら、心に抱えている重みを吐き出すために深く息をついた。すっかり佳澄の手は力を失っているけれど、まだ離したくなかった。そう思った途端、普段は抑えている衝動が溢れてくる。
 この手を、離したくない。ずっと、握っていたい。できるなら、佳澄をこの手で幸せにしたい。誰にも渡したくない。だけど、そう思った瞬間に、いつもの吐き気に襲われる。
 (そんなこと、許されるわけないんだ。)
 胸の奥に抱えていることを知られるわけにはいかない。佳澄が知ったら、二度と自分を見てくれなくなるだろう。そうして、深く傷つけることになる。それがイヤで、堪らなく怖くて、だから兄として ―― 家族として見守っていることしかできない。
 (罪は、罪だ……。)
 自分に出来ることは、佳澄の家族でいてあげること。そして、いつか違う誰かの手で幸せになってもらうこと。自分では、それはできないから。
 弱虫だといわれても、卑怯だと罵られても、佳澄を守るためなら何でもする。だからこの手を、今はまだ ―― 。



 えーと、オハヨウございますって、多分……、朝だよね。窓辺からカーテン越しに差し込んでくる日差しを確認して、再び視線を戻す。繋がれた手はまだ握られたままで、驚いた。絨毯に座り込んで上半身をもたれさせて寝入っているのは、間違いなく睦兄。背中を向けているけど、規則正しい寝息が聞こえてきて、困惑した。
 (もしかして、ずっと傍についてたの?)
 上半身を起こそうとして、手もまだ繋がれたままだと気づいた。そっと、睦兄の手からはずして、後ろから顔を覗き込む。伏せられている長い睫は影を落としていて、唇は柔らかく緩んでいる。キレイな顔が今は幼い顔つきで無防備に眠っていた。頬が緩んで、笑みが零れる。久しぶりに見る、睦兄の寝顔。小さい頃は眠れないと言っては睦兄のベットに潜り込んだ。怖い夢を見たと泣いては、添い寝をお願いして、一緒に眠ってもらってた。睦兄はそれを許してくれたし、眠りにつくまで手を繋いでいてくれた。いつだって、睦兄は優しい。初めて出会った頃から、ずっと。本当は、私は睦兄に憎まれても仕方ない存在なのに ―― 。
 「……か、すみ?」
 ゆったりと瞼が持ち上がって睦兄の黒く澄んだ目が私を見る。いつの間にか伸ばされていた手が頬に触れていた。
 「なんで、泣いてるんだ?」
 「っ、」
 そう聞かれて初めて、涙が零れていることに気づいた。指が優しく拭ってくれる。
 「まだ頭が痛い? 怖い夢でも見た?」
 「……うん。睦兄が私を置いてどっか遠いところに行ってしまう夢」
 本当は違うけど、そう言って誤魔化すしかない。本音が入り混じった嘘を口にした。まだ起きたばかりの睦兄は少し寝ぼけているのか、何度か瞬きを繰り返す。私はそれに笑って、睦兄の手から離れてベットを降りた。そのまま、カーテンを開けるために足を向ける。しゃっ、と大きく音を立てて開けると、雨はすっかり上がっていた。朝日が眩しく照り付けてくる。
 佳澄、とすぐ後ろから呼ばれて振り向くと、立ち上がった睦兄がすぐ側まで来ていた。じっと見つめると、滅多に見れないくらい優しい微笑みが浮かんでいた。
 「僕はどこにもいかないよ。佳澄が望んでくれる限り、ずっと傍にいる」
 その声は温かくて、寂しさを抱えた心を包んでくれる。だけど、素直に頷けないのは、それが私が望んでる限りっていうところ。じゃあ、睦兄は。睦兄の気持ちは、って聞き返したいけど、でも、それは私が聞いていいことじゃないから、やっぱり、寂しくなる。
 「睦兄は……」

 「えっへん。おっほんっ!」

 言いかけた言葉を遮るようにわざとらしい咳払いが聞こえてきて、ドアを見ると郁斗先生がひらひらと手を振って立っていた。
 「郁斗……。僕たちがいるときは、合鍵を使うなって渡すときに釘を刺したよな?」
 睦兄が呆れたように言いながら、振り向いた。
 「仕方ないデショ。昨日から真面目にお仕事しててお腹へって死にそうで、ぴんぽーんって押してふたりが出てくるのを待つ元気なかったんだもん」
 「はいはい。何か作ってやるよ。佳澄はゆっくり着替えておいで」
 後半は私にそう言って、睦兄は郁斗先生を促しながら部屋を出て行った。ぱたん、とドアが閉められて、私はほっと息をつく。もう少しで、ずっと我慢してきたことを口に出しそうになってた。ふぅっと、溜息が零れる。
 だけど、もう雨は上がったから。少なくとも、天気だけでも晴れ渡っている。頭痛もない。ぱんぱんっと気合を入れるために自分の頬を叩いて、睦兄と郁斗先生が待っているリビングに向かうために着替えることにした。

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