雨のち晴れ。ときどき、嘘つき。

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  曇り日(1)  

 オーソドックスですが、映画でも観に行きませんか、と誘われたのは、図書委員の当番の日。カウンター席で村田君と並んで、本のラベル貼りの仕事をしているときだった。チケットを目の前に差し出されて、握っている手を追って視線を上げると、村田君が強張った顔つきでじっと見つめてきていた。緊張していることが伝わってきて、私まで意味もなくどきどきしてしまう。

 「土曜日なんだけど、午後からでいいから付き合って欲しいんだ」

 幸いにも、テスト期間までまだ先で、図書室にいる生徒は数人。しかも長テーブルで本を読んでいるか、勉強をしていて、誰もこっちを気にしている様子はなかった。司書の先生も、今はお昼ご飯のためにカウンターから隔てられている司書室にいる。当番が終わるまであと十分はあった。

 「えーっと。それって、やっぱり、デートのお誘い?」
 戸惑いながら恐る恐る言うと、困ったように笑って、肩を竦められた。
 「うんって言いたいけど、それだと振られそうだから、ただの友達付き合いってことでいいよ。せっかくもらったペア券だからさ。男同士で行くのは暑苦しいだろう」
 気楽な口調に心が少しだけ軽くなって、しかも差し出された映画のペア券は流行の話題作じゃなく、ちょっとマニアックな作品で、丁度観たいと思っていたもの。行こうかな、という気持ちに心が大きく傾いて、だけど郁斗先生に知られたときに面倒ごとになりそうな予感に引き止められる。なにせ、あの先生は私に悪い虫がつかないためにこの学校に入り込んだと私と睦兄に公言している。実際に、休日に友達と出掛けるとどこから知るのか、詳細を聞き出そうとしつこい。今までは女の子同士だから後ろめたいことはなかったけど、面倒臭いという気持ちがないわけじゃない。返事に戸惑っていると、じゃあさ、と更に付け加えられる。
 「この前の委員会で心配させたお詫びってことで、どう?」
 はっ、と顔をあげると、言葉とは裏腹に眼鏡の奥で目が優しく笑う。
 先週の金曜日、委員会の途中で頭痛が酷くなって倒れてしまって隣に座っていた村田君が抱き上げて保健室まで連れて行ってくれたんだった。思い出して、急に恥ずかしくなる。あの後は保健医から連絡を受けた郁斗先生が飛び込んできて、あくまで担任の先生を装って村田君を追い出し、送ってくれた。そういえば、御礼を言っていなかったと慌てて姿勢を正して深々と頭を下げた。
 「あっ、先週はありがとう ―― !」
 「どう致しまして。で、どうかな」
 村田君はくすりと楽しそうに笑った。そうまで言って誘われると、断ることもできなくなって、頷いた。友達として、とまで言ってくれる村田君を突き放すことはできない。
 「よかった」
 ほっと胸を撫で下ろした村田君の顔を見て、ふと違和感を覚える。だけど、それが何か確信する前にカウンターに本を借りに来た生徒の対応に追われて、すぐに消えてしまっていた。

 しゃっ、とカーテンを開けると、残念ながら空は灰色の雲に覆われていた。それでも雨が降る気配がなく、太陽は出ていないけれど、わずかに切れている合間からは青い色が見える。曇り、三十%ぐらい。これくらいが暑くもなくて丁度いいかもしれないと胸を撫で下ろし、とりあえずラフな服装に着替えてリビングに向かう。
 私と睦兄は土、日でも平日と同じ時間に起きるから、テーブルに着いて新聞を広げて読んでいる睦兄はいつもの通りだったけれど、しっかりとスーツを着込んでいるのを見て、今日は仕事に行く予定なんだと気づいた。まだ会社を設立した当初、郁斗先生の取り決めで、土日は休みにしていたけれど、睦兄は私が高校生になってから、時々こうして土曜日も出勤するようになった。だけど、前日には教えてくれてるはずなのに、確か昨夜はそんなこと一言も聞かなかった気がする。
 「おはよう、睦兄。今日って会社に行くの?」
 「ああ、おはよう。少し、片付けておきたいことがあるんだ。佳澄も今日は出掛けるって言ってたしね」
 そうだね、と頷いて、私はキッチンに立った。手早く朝御飯を作ってテーブルに並べていく。いただきます、と声と両手を合わせて、いつものように朝食を摂ることにした。焼いたアジの開きに添えた大根おろしに醤油をかけながら、睦兄が口を開く。
 「来週の土曜日はパーティーに招待されてるんだけど、佳澄も行く?」
 「ううん。そういうの、苦手だし」
 「家族参加の気安いパーティーだから、重く考えなくても……。郁斗も参加するって言ってたよ」
 家族、と言葉にちくりと小さな棘が突き刺さる。前は、それで十分だって。そう思ってもらえるだけで幸せだって、上手に言い聞かせていることが出来たのに。睦兄がお見合いをして、断ったって聞いても。いつか出て行くんだと自覚した途端、家族、という言葉に素直になれなくなった。
 「佳澄?」
 怪訝な顔をしている睦兄に気づいて、はっと我に返る。
 「ほら。天気、来週一週間は曇りが続くらしいし。まだ雨が降るかもしれないから、家で大人しくしていたいの」
 思いついた言葉は本当に言い訳がましくて、もっと上手に嘘をつけたらいいのにと溜息をつきたい気持ちになった。これだと余計に ―― 。上目遣いで恐る恐る睦兄の顔を見ると、何気なさを装って隠そうとはしているけれど、その目に痛みを堪えるような、鈍い光が浮かんだことに気づいて、反省した。咀嚼した食べ物を飲み込むのに時間がかかっててしまう。なんとか、ごくん、と無理矢理流し込んだ。
 「ごめんね、睦兄……」
 「何言ってるんだ。気が進まないなら無理する必要はないよ。謝る必要もない」
 睦兄の目が優しく細まる。胸がどきんっと高鳴って、ばくばくとうるさいほどに音を立てる。見つめ返していると、全身が沸騰するかのように熱くなっていくのを感じて、慌てて俯いた。
 「ありがとう」
 他にどう言っていいのかわからずに、それだけを言葉にすることしかできなかった。

 睦兄を見送って食器を片付けていると、黒いTシャツとジーパンというラフな服を着た郁斗先生が姿を見せた。「おはよーさん」と言いながらも、眠そうにあくびをかみ殺しながら、椅子に座る。その姿は大学の頃にこの部屋に泊まりにきていたときと変わらない。次に「朝食はー?」と聞かれることもわかっていたので、用意していた郁斗先生の分をテーブルに手早く並べた。

 「さすが佳澄ちゃん。オレの分もちゃんと準備してくれていたなんて、感激だなー」
 「土、日はいつもウチで食べてるじゃないですか」
 「そうだっけ?」
 「いまさら。今日は睦兄は仕事で、私もお昼には出掛けちゃいますよ」

 郁斗先生の向かい側に座って、湯のみに入ったお茶を眺めながら、今日の予定を何気ない口調を装って口にした。

 「 ――― だれと?」
 低く真剣な声に顔をあげると、郁斗先生は焼いた魚をつついていた。骨と白身を几帳面にキレイに分けるためにほぐしている。先生の魚の食べ方は本当に惚れ惚れしてしまう。ただ焼くだけの料理でも、キレイに食べてもらえると嬉しい。睦兄のときは食べ方のひとつひとつに見惚れてしまう。
 「佳澄ちゃん?」
 促されて、はっと我に返った。
 「と、友達と映画を見に行くんです」
 そう言って、動揺を隠すために湯飲みに口をつけた。お茶をごくりと飲み干すと、少し苦味が残って眉を顰めた。それに温い。そういえば、さっき睦兄のために急須に淹れた、残りを注いだんだったと思い出す。淹れ直そうと席を立つと同時に、ふうん、とわざとらしいくらいに大げさな返事が聞こえてきた。その棘を含んだような言い方が気にかかったけれど、言い返したら墓穴を掘りそうで、何も言わずにキッチンに向かう。それ以上の追求は珍しくなかった。代わりに、思い出したような声がかけられる。
 「そういや、睦月から聞いた?」
 「なにをですか?」
 「来週の土曜日のパーティー」
 うなずきながら、急須の中のお茶の葉を捨てた。古くなった茶葉は、役目を終えたら捨てられてしまう。自分でしていることとはいえ、胸の奥底からじわりと苦しみが染み出してくるようだった。
 「オレも参加するんだ。一緒に出ようよ」
 「……いやです」
 止めていた手を動かして急須の中に新しい茶葉を入れて、ポットからお湯を注ぎ込んだ。郁斗先生専用の湯飲みを食器棚から取り出して、一緒に持っていく。
 「面白いもんが見れると思うけどなー」
 お味噌汁をお椀の縁から飲んでいた郁斗先生は、悪戯っぽくにやりと笑う。
 「面白いもの?」
 嫌な予感がする。
 私が中学を卒業して、高校入学を待つ春休みに訪れてきていた郁斗先生が同じような顔と口調で言った。「高校の入学式には面白いことがあるよ」と。そうして、入学式で新任の先生として姿を見せた。
 「何を企んでるんですか?」
 「ひーみつ。あ、けど。佳澄ちゃんがパーティーに出ないと睦月がちょっと困ったことになるようなことかなー。出席してくれれば、たいしたことにはならないかもしれないけどねー」
 ご馳走様、と最後に付け足して言う郁斗先生の口調はあくまで軽くて、本気なんてひとつもないように思える。だけど私は知ってる。郁斗先生は私には嘘をつかない。本当に、私が出席しなかったら睦兄は困ったことになるはず。
 「…………ずるい」
 拗ねるように言っても、テーブルの上に置いた急須を取って自分の湯飲みに注ぐ郁斗先生は、なんでもない顔で受け流した。
 「うん。知ってるデショ」
 わかりました、と了承する代わりに、溜息を一つわざとらしく吐き出して、すっかりキレイに片付けられた食器を取って、ふたたびキッチンに戻った。流し台で手早く洗って、食器乾燥機の中に入れておく。スイッチを押すと小さな音が鳴り始めた。
 家の中の用事 ―― 掃除機をかけて、洗濯物を干した ―― を終わらせた頃には出掛ける時間になっていた。部屋に戻って、できる限り可愛らしく、かつシンプルに見える服装を選んだ。半袖の縁にレースがあしらっている白いシャツと膝が隠れる程度にはあるプリーツの紺色のスカート。映画館の中は寒いかもしれないと思って、念のためにカーディガンを折り畳んで鞄の中に入れた。準備を整えた頃には、ギリギリに着く時間になっていて、少し急いで夏用のショートブーツを履いた。
 「郁斗先生ーっ、出掛けますから。帰るときは鍵を忘れないで下さいねー」
 朝食を終えてからは、リビングのソファに寝そべって本を読んでいた郁斗先生に玄関からそう叫んだ。
 「はーい。何かあったら、電話するんだよー」
 返事をして、出て行こうとした瞬間、郁斗先生の言葉が更に続いた。
 「男の子と出掛けるときの門限は五時だからねー」
 ぱたりと閉まったドアを思わず振り向く。

 『 ――― おまえの情報源が怖いよ』

 しみじみと頷く。本当に、郁斗先生はどこまで知っているのか。呆れながら、ともかく急がなきゃと言い聞かせて足を進めることにした。
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