雨のち晴れ。ときどき、嘘つき。

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  曇り日(2)  

 映画は文句なく面白かった。主人公の女優もベテランの域に達していたし、周囲を固めている俳優たちも地味ではあるけど演技に定評がある。だからこそ、銃撃戦があったり、ファンタジーだったりと派手な演出のない、主人公の生き様が描かれただけのストーリィだったが、胸にじんわりと切なさが広がり、感動がしっかりと残った。

 「パンフレット買わなくて良かったの?」
 「うん。私は買わないの。村田君は?」
 俺もいらない、と同意するように肩を竦めるのを見て、それならと二人で映画館を出た。時計を確認すると、三時三十分を過ぎたところだった。通りを行き交う人たちは多くが学生のような男女で、やっぱりこうして異性で、しかも映画館から出てくるとデートしているように見えるんだろうな。そう思っていると、少し前に立っていた村田君が時間を確認して、振り向いた。
 「珈琲飲みたいんだけど、付き合ってくれる?」
 遠慮がちな口調に、思わず笑ってしまいそうになった。郁斗先生なら、強引に引っ張っていくし、睦兄はそれが当たり前のように、ごく自然に喫茶店に向かう。睦兄のことを想うとさっきまでの映画の余韻はすっかり吹き飛んで、寂しさが押し寄せてくる。それを誤魔化すように、村田君に向かってうなずいた。
 「まだ門限まで時間あるから、いいよ。私も紅茶が飲みたい」
 「えっ、門限あるの? 何時?」
 「五時」
 驚く彼に片手の平をあげて見せると、更に眼鏡の奥の目を見開いて、苦笑した。
 「過保護なんだね、春日さんのお兄ちゃんって」
 私はその言葉に曖昧な笑みを返すだけにとどめた。門限を決めたのは睦兄じゃなくて郁斗先生なんだけどなあ、と胸の内で溜息を落としながら。

 小さいけど趣味のいい喫茶店だった。入り口には小さな鈴がついていて、ドアを開けるとしゃらん、と涼やかな音が鳴った。歌の入っていない音楽が小さく流れていて、カウンターの内側でマスターらしき人が珈琲を淹れている。足を踏み入れると、いらっしゃい、とは言わずにそういう意味を込めるように、視線を合わせて頷いてくれた。他に、男女一組の店員さんがいて、店内の隅々に気を配っている姿があった。カウンター席には常連らしきお客さんがそれぞれくつろいだ様子で、三人ほど座っていた。テーブル席が六つあって、私と村田君は観葉植物でカウンターからは隠れた位置にある窓際の席に座った。即座に店員さんがメニューを持ってくる。
 「ご注文が決まりましたら、手を挙げてお報せ下さい」
 その言葉に思わず村田君と顔を見合わせる。よくあるボタン式のものでもなく、呼びかけるわけでもなく、手を挙げるということが不思議で、面白かった。珈琲も、紅茶も豊富な種類が置かれていて、店の雰囲気も合わさり、とてもこのお店が気に入ってしまった。少しして、「決まった?」というように村田君が顔をあげる。頷くと、手を挙げた。すぐに店員さんが来て、私はアールグレイティーを。村田君はアメリカンを注文した。
 「ケーキとか食べない?」
 「ううん。甘いものってそんなに得意じゃないから。村田君は? お腹すいてないの?」
 「大丈夫。昼に結構、重いもの食べてきちゃってさ」
 そっか、と頷くと、二人の間に沈黙が落ちた。
 嫌なわけじゃないけれど、変な感じがする。睦兄や郁斗先生と二人っきりになることは多いから、異性といて特に緊張するということもないのに。
 ふっと顔をあげると、村田君がじっと見つめてきていることに気づいた。
 「ど、どうしたの?」
 動揺しながらそう問いかけると、はっと我に返ったように顔を窓に向けてしまった。
 「ごめんっ、なんでもないんだ」
 焦ったような口調で言われて、その声の強さに、それ以上の追求も出来なくて、再び黙り込むしかなかった。そういえば、図書室でこの映画に誘われたときもそうだったと思い出す。何か言いたそうな顔つきで私を見てる。告白とか、そんな甘い空気じゃなくて、どこか思いつめたような目で。
 どくんっ、と心臓が大きく鳴ったような気がした。まるで、睦兄と同じ。村田君の思いつめたような目は、睦兄と同じで、罪悪感を抱えているひとのもの。誰にも言えない苦しみに苛まれている目。そう気づいた瞬間、心臓がうるさいほどに鳴り響いて、頭が激しく殴られるような痛みに襲われた。
 「……春日さん?」
 空気が変わったことに気づいたのか、タイミングよく村田君が窓に向けていた顔を戻してきた。怪訝そうな表情で見つめられる。慌てて取り繕うと笑顔を浮かべようとして ―― ちょうど注文をした品物をお盆に乗せた店員さんが割り込んできてくれた。
 「お待たせしました」
 ほっ、と息をついて、テーブルの上に乗せられていく紅茶のカップやポットに視線を向けた。今は、顔をあげられない。とにかく、店員さんがいなくなる前に気持ちを落ち着かせようと思った。珈琲を置いて店員さんが去ってから、カップに注がれた一杯目に口をつける。優しい香りが漂って、流し込んだ熱が喉を通り過ぎていく。少しだけ熱と苦味が舌先に残ったけれど、落ち着きを取り戻すには十分だった。

 ――― 冷静に。冷静に。
 そう自分に言い聞かせ、思い切って村田君に視線を戻した。

 「何かあるなら、言って?」
 そう聞いた瞬間、自分でも唐突かもしれないと思ったけれど、意外にもその言葉はすんなりと、まるでなんでもないことのように口をついて出ていた。睦兄にはなかなか切り出せないのに。胸に痛みが一瞬だけ走る。
 村田君は驚いたように眼鏡の奥の目を見開いて、それからすぐに苦い笑みを零した。目の前に置かれた珈琲に口をつけて、カップを静かに戻すと、参ったな、と小さく呟いた。
 「俺ってそんなにわかりやすかった?」
 そう聞かれて、首を傾げる。わかりやすい ―― というよりも。身近にいる、いつも見ているひとと同じ目をしていたら、気づかないわけない。だけどそれを言うことはできずに、誤魔化すようにもう一度、紅茶に口をつけた。
 「たまたま、偶然ってやつなんだけどね。言わないのもフェアじゃない気がしてさ」
 躊躇いがちにそう切り出して、一度大きく息をつくと、意を決したように口を開いた。
 「実は俺って、春日さんのお兄さんがお見合いした相手の弟なんだよね」
 びっくりして何も言えなかった。ただ驚いて村田君の顔を見ていると、更に続けられる。
 「で、お見合いの相手 ―― つまりは姉さんなんだけど。春日さんのお兄さんに一目惚れしてしまったって。でも、」
 「振られた……?」
 睦兄と郁斗先生の会話を思い出してそう呟くと、ああ、聞いてたんだ、とうなずいた。聞いてたというよりも、立ち聞きしていたんだけど。胸の奥に痛みが走る。落ち込みそうになるにも関わらず、村田君の呆れたような声が響く。
 「しかもその理由が君。春日さん。だから、姉さんから彼女に恋人がいないか探ってほしいって頼まれてたんだよ」
 「私に恋人?」
 思いもがけない言葉に目を丸くしてしまう。どうして、睦兄とお見合いと私の恋人が繋がるのかわけがわからない。困惑していると、村田君も同じように困ってるというような顔つきで溜息をついた。
 「断られた理由が、妹が一人前になるまでっていうからさ。単純な我が姉は、その妹に恋人でもいれば、妹をそいつに任せて、自分は春日さんのお兄さんとくっつけるって思ったんだよ。それでたまたま春日さんと俺が同じクラスだと知って聞き出す役目を押し付けられたわけなんだ。まったく」
  呆れたように言う声とは裏腹に、その言葉の端々に家族への ―― お姉さんへの愛情が込められているように聞こえて、そのことに怒るよりも先に、胸が温かくなって、思わず笑ってしまった。こういうふうに、素直に愛情を示すことができればいいのにな、と羨ましく思う。無理矢理隠してしまおうとするから、いつも些細なきっかけで溢れ出しそうになる。それを押さえつけようとするから、更に気持ちが歪んでしまう。いつも。 ――― あのときから。

 「ごめん。気を悪くしたよね」
 暗い顔をしていたのか、不意にそう謝る声がして慌てて首を振った。
 「うっ、ううん。違うのっ」
 「誤解してほしくないんだけど。それが理由だけで春日さんを今日、映画に誘ったわけじゃないから」
 村田君は否定する私に、優しく微笑んでくれた。どきり、と胸が高鳴る。胸のときめきというより、それはどちらかといえば、話の矛先が嫌な方向へ向きそうな予感で、私は俯くしかなくなった。それでも、村田君は誤魔化すつもりはないのか、はっきりとした口調で言う。
 「それで、春日さん。いないの、好きな人?」
 探るような声に、焦ってしまう。いないよ、と言えるほど嘘つきにもなれなくて、正直になれるほど素直な気持ちにもなれない。どうしようか迷っていると、もしかして、と先に言われる。
 「好きな人がいるけど、俺には言えない?」
 えっ、と驚いて見ると、それで納得したのか、やっぱりと小さく呟かれた。椅子に深くもたれた村田君は、真面目な顔つきになって、慎重に思えるくらいゆっくりと口を開いた。
 「 ――― 神木先生?」

 「郁斗先生?」

 唐突に持ち出された名前を聞いて、反射的に繰り返していた。まさか郁斗先生の名前が出されるなんて思いもしなかったのに、なぜか村田君は言い当てたように頷く。
 「やっぱり。春日さんも好きなんだ?」
 「もっ、て?」
 「学校の女子のほとんどは好きなんじゃないかな。結城さんと春日さんはそういったミーハー的なものはないと思ったんだけど、いや。だからこそ、他の女子よりも真剣?」
 どうだろうね、と私は曖昧に笑った。すっかり温かみを失くしてしまった紅茶に口をつける。飲み干してしまって、再び村田君に視線を向けるとまっすぐ見つめられていた。
 「まあ。俺は神木先生と春日さんが雨の降る日に一緒に帰ってるところも何度か見て知ってるから、なにかあるってことはわかってたけどね」
 その言葉に動揺して、皿に戻そうとしたカップが大きく音を立ててしまった。
 ばれないように気をつけていたのに。生徒がひとりも通らない場所で待ち合わせしてたし。混乱していると、村田君が苦い笑みを零した。
 「塾に行くには、あそこは近道なんだ。うちの生徒にもあまり知られていない抜け道だから静かだし。考え事するときなんかも通ったりするんだ」
 「そうなんだ……」
 ばれてしまったものを隠す気になれない。ただ頷くと、優しい声が言う。
 「言う気はないよ。心配しないで」
 空になったカップに視線を落としまま、うんと頷いた。
 「神木先生と付き合ってるの?」
 「違うの。そうじゃないけど、でも」
 でも、なんだろう。自分で言いかけた言葉でも、先に続く言葉はわからなかった。でも?
 言葉に詰まって黙っていると、ごめん、と謝る声がした。
 「立ち入りすぎたよ。だけどこれだけは覚えてて欲しいんだ」
 真剣な口調に、顔をあげるとまっすぐと貫くような視線を向けられていて、息を呑んだ。

 「俺は、春日さんが好きだよ」

 それは気がついていた。わかってた。だけど、突きつけられると、どうしていいのかわからない。ただ胸が痛い。どうして郁斗先生も村田君も素直にその言葉を口に出来るんだろう。まっすぐ。まるで躊躇う必要なんてなにもないというように。
 羨ましくて、 ――― 臆病な自分がひどく、惨めに思える。心がどんよりと、厚い雲に覆われていくかのようだった。

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