雨のち晴れ。ときどき、嘘つき。
曇り日(3)
昨日は村田君の告白に返事が出来ないまま、帰宅することになった。本当は断ろうと思ったけれど、それは村田君本人に遮られてしまった。彼曰く、返事はまだいらない、と。暫くは友達として付き合って、お互いのことを ―― というよりも、村田君のことをもっと知ってから、それから返事してほしい。そう言われてしまったことと、同じ委員でもあるし、気まずくなるのは嫌だという思いもあって、返事は保留になった。
「佳澄?」
名前を呼ばれて振り向くと、怪訝そうな顔つきで睦兄が立っていた。思ったよりも間近にいたことで、どきんっと胸が高鳴る。手を伸ばせば触れられる距離。いつもなら無理矢理でも誤魔化せた距離を、今はどうしようもなく意識してしまう。なんとか問いかける言葉を平静を装って紡ぎだす。
「な、なに睦兄?」
「玉ねぎをそんなにどうするんだ?」
後ろから覗き込むように見ている睦兄の視線と言葉に我に返った。慌てて振り向いて、ボールに一山と、まな板一面の切られた玉ねぎを見て、一気に血の気が引いた。
「どっ、どうしよう?」
ドレッシングでも作ろうと切り始めた玉ねぎで、確か、そんなに分量はいらない。むしろ、四分の一くらいでいいはず。仕方ない。今日の夕飯はビーフシチューにでもしよう。今から作ってたっぷり煮込めば、玉ねぎがとけて甘い味になるし。あとは、サラダにも使って。他にも ―― 。考え込んでいると、ぽんっと大きな手の平が乗せられた。呆れたような顔で、だけど面白がるように。
「何か悩みがあるなら聞こうか」
「えっ?」
「昨日、同じ高校の男の子とデートしたんだろう。郁斗が言ってたよ」
驚いて息を呑む。なんでもないことのように平然とした顔でその言葉を告げる睦兄に胸が痛んだ。絶望を感じながら、再びまな板へと視線を戻して俯く。
「……デートじゃないよ。友達が行きたかった映画のチケットをくれたから観に行っただけ」
「異性同士で映画館。帰りは喫茶店。どう考えても、デートだと思うけどね」
友達同士でだって、それくらい行くのに、と思ったけれど、やけにデートだと言い張る睦兄にかちん、ときた。
「郁斗先生ともそれくらいするし。睦兄とだって、同じことするじゃない」
「僕たちは兄妹で、郁斗と出掛けたって、次の日にそんなふうにぼんやりしたりしないだろう」
兄妹、という言葉が火に油を注いだ。頭の中が真っ赤になって、考えるよりも先に言葉が飛び出していく。
「兄妹って、血は繋がってない!」
ハッと小さく息を呑む音が聞こえた気がして、慌てて自分の口を塞ぐ。振り向こうとして ―― 怖くなった。今、睦兄がどんな顔をしているのか。傷ついた顔をしていても、何を言っているんだ、と平然とした顔をされていても、きっと自分は傷つく。それがわかっているから、臆病だと自覚していても振り向くことはできなくなった。
「 ――― ごめん」
落ち込んだような謝罪の声が聞こえて、すぐに睦兄の気配が遠ざかっていった。多分、リビングに戻っていった。
ひとりになった途端、ほっと息をついた。同時に、口にした言葉を思い出して、胸が苦しくなる。血が繋がってないことはお互いわかりすぎているのに、いくら怒りに我を忘れていたとしても、わざわざ言葉にしてしまったことが情けなかった。兄妹としてしか、睦兄の傍にいられないことはわかっているのに。
そう思った途端、急に不安になった。やっぱり他人だと今の言葉で傷ついた睦兄が出て行ったら、どうしよう。もう別々に暮らそうと言われたら?
( ――― それは嫌っ!)
ともかく玉ねぎのことは放っておいて、戸棚からティーセットを用意する。ティーポットに葉っぱを淹れて、お湯を注ぐ。二人分のカップと、ティーポットを
お盆に乗せてリビングに向かった。
ごめんね、睦兄。言い過ぎた、と謝って、仲直りのために準備をしたと、二人のお気に入りであるアールグレイをカップに注いで、睦兄の前に置いた。自分の分も睦兄とは反対の場所に置いて、ソファに座る。
「佳澄が謝ることない。悪いのはつっかかった僕だから」
そう言って苦笑を零すと、カップに手を伸ばして紅茶を飲んでくれた。そのことに胸を撫で下ろして、自分も飲もうとカップに手を伸ばしたとき、タイミングが悪く玄関のチャイムが鳴った。
「きっと、郁斗先生だ」
睦兄もそう思ったみたいで、仕方ないと肩を竦めて立ち上がり玄関へと向かう。すぐに郁斗先生の賑やかな声が聞こえてきた。
「会いたかったよ、佳澄ちゃん」
「朝も会いましたよ?」
いつもの軽口に冷静に対処すると、郁斗先生はわざとらしく眉を顰める。
「俺はいつだって、佳澄ちゃんから離れたくなんかないんだ」
「ストーカーか。おまえは」
後ろに立っていた睦兄がぽかん、と郁斗先生の後頭部を叩いた。
睦兄との穏やかな時間はなにものにも代え難い幸せな、大切なひと時だけれど、郁斗先生と三人のこの時間もとても好きだった。ソファに座った郁斗先生には珈琲を用意する。
「郁斗先生、夕飯も食べていってくれる?」
「もちろん。いつものことデショ」
当たり前のように言う郁斗先生の言葉に睦兄は呆れた顔をする。玉ねぎたっぷりになるだろうシチューが無駄にならなくてすんだと胸を撫で下ろして、私はよかったと呟いた。じゃあ、準備に取り掛からなくちゃとやる気になって、二人を置いてキッチンに戻ることにした。
「おまえさ、それってヤキモチだろ」
ほんの少しだけ見え隠れする微妙な睦月の不機嫌な空気を読み取って、その理由を聞き出してみれば、実に面白くない ―― だけど、興味深い感情にからかうように口にすると、睦月は途端に顔を顰めた。ヤキモチ。嫉妬。この睦月がそんなものを女性に抱くところなんて、初めて見る。最も、昔の自分だったらそんな感情、気づかなかったかもしれない。佳澄ちゃんに出会ってから、初めてばかりの感覚に戸惑いながらも受け入れて慣れたから気づける他人の感情だった。
「娘を取られたくなーいっていうの? 父親的嫉妬。佳澄ちゃんがオレのところに来るって決まったら、大変だねー」
「そんなことには永遠にならないから、おまえは安心してていいよ」
家族としての嫉妬。そう告げたとき、どこかほっとしたように見えた。胸の内で「馬鹿だな」と呟いてやる。どう考えたって、男としてのヤキモチが図星だとわかることなのに。まだ誤魔化そうとしているから。
「郁斗は妬かないのか? おまえ以外の男とデートしたのに」
「佳澄ちゃんはデートじゃないって言ったんだろ。彼女の気持ちが伴ってないなら、本人に嫉妬をぶつけるようなガキじゃないんだよ、オレは」
「 ―― あくまで、教員だろ。相手の子に可哀想なことするなよ」
言いたいことを察したのか、呆れたような視線を向けてくる睦月を見て、にやりと笑う。肩を竦めれば、それが返答。やれやれと苦笑を零すその横顔を盗み見る。一見無表情のようだけど、動揺していることが手に取るようにわかった。気持ちを落ち着かせようとしているのも。苦いものがこみあげてくるのを誤魔化すように、話を逸らすことにした。
「そういやさ。土曜日のパーティーなんだけど、オレはあくまで睦月の知り合いってことでいい?」
「かまわないけど。なにか不都合があるのか?」
「あー。ひょっとしたら教え子が来るかもしれないんだよね。そりゃ会社辞めたわけだけど、バレると面倒だし」
なるほど、と頷いて、睦月は了承した。しかし、ふと思いついたのかカップを傾けていた手を止めて訊いてくる。
「ってことは、佳澄の同級生?」
「さあ。あんまり知らない子。オレが知らないって事は、佳澄ちゃんも知らないんじゃないかなー」
ほっと息をついて、再び紅茶を飲みだす。それ以上追求されないよう、同じように珈琲に口をつけた。佳澄ちゃんが淹れてくれる珈琲がなにより美味だね、としみじみと思いながら。
◆
今週提出分の課題を片付けて、一段落ついた。うーん、と両腕を伸ばしていたら、ふと机の上に置いている卓上カレンダーが目に入った。土曜日。パーティーに行く約束をしてしまったことを思い出して、とりあえず日付にマーカーで印をつける。小さくパーティーと書いて、思い出した。そういえば、パーティーに着ていけそうな服ってあったっけ。
クローゼットに向かって、扉を開けて中を探る。パーティーなんていつ以来だろう。確か、まだ郁斗先生が会社に勤めていた頃だったから、少なくとも二年は前。その頃の服なんてあったとしても、着れないに決まってる。探すのを止めようとして、不意にばさりっと頭上から何かが落ちてきた。
「 ―― 痛いっ」
ぶつかった衝撃に、頭を抑えて呻く。
床へと落ちたそれに視線を向けて、あっ、と声をあげた。それを拾って、パラパラとめくる。
「懐かしい ―― ……」
写っているのは、睦兄と私の小さい頃の写真。小さい頃と言っても、睦兄はもう、中学生。幼い私を抱き上げて、にっこり笑ってる。手を繋いでいたり、一緒に乗り物に乗っていたり。どれも私は満面の笑顔で、睦兄も優しく微笑んでくれているのがわかる。いつだって、一緒にいてくれた。誰よりも傍にいてくれた。だけど、あのときから睦兄の瞳にあったのは ―― 。
「佳澄?」
呼びかけられる声に視線を向けると、部屋のドアの前で睦兄が怪訝そうな表情をして立っていた。咄嗟に手にしていたアルバムを適当に放り込んでクローゼットを閉めた。
「睦兄。どうしたの?」
「いや。通りかかったら物音がしたから。何かあったかと思って」
「なんでもないよ。土曜日に着て行く服を探してたら、上の棚からいろいろ落ちてきちゃったの」
そう言うと、気遣うように問いかけてきた。
「大丈夫か?」
「うん。へいき。私、お風呂にでも入ってこようかな」
誤魔化すようにいつもの様子を装って、ドアのところで佇んでいる睦兄のもとに足を踏み出す。睦兄はスッと横に避けてくれながら、口を開いた。
「土曜日のドレスだけど」
「明日、適当に借りて ――― 」
「一緒に買いに行かないか?」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。驚いて顔を向けると、睦兄は真剣な表情を浮かべていた。一緒に、という言葉に胸が大きく高鳴る。ばくばくと音がして、かっと身体中が熱くなる。
「い、いいの? 仕事、忙しいでしょ?」
「明後日なら丁度学校が終わる時間くらいに帰宅できるから。迎えに行くよ」
「うんっ。嬉しい!」
正直に言葉が滑り出てしまって、ハッと慌てて口元を抑える。恐る恐る睦兄の顔を見れば、優しく微笑んでくれていた。どきり、とまた胸が高鳴る。
「僕も楽しみにしてるよ」
ぽんっと私の頭を軽く叩いて、睦兄は自分の部屋に戻っていった。私はそれを見送って、睦兄の手が触れた頭を触る。温かくなっていく気持ちにしみじみと思う。
(やっぱり、私って睦兄が大好きなんだなー。)
他の誰にも感じないこの気持ち。だけど、同時に感じる胸の痛み。もしも普通の男女として出会っていたら、素直に気持ちを打ち明けることができたかもしれない。昨日の村田君みたいに。好きだと告白して、どきどきしながら返事を待って。受け入れられたらきっと、天にも昇る気持ちで嬉しくて眠れなくて舞い上がって。考えたくないけど、振られたら一晩中だって上総に泣き言でも言って慰めてもらってそれですっきりして次の恋に進む。若いんだもん。胸の痛みはあったって、時間が癒してくれるはず ―― 。
どうして、と無意識に呟きが零れ落ちた。その声を自分で聞き取って頭の中で繰り返す。
( ――― どうして。)
私達の出会いは、あまりにも。
素直になるにはあまりにも ――― 。
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