雨のち晴れ。ときどき、嘘つき。
曇り日(5)
レストランを予約していたらしく、お店に入るとすぐに席まで通された。睦兄と向かい合って座って、思わず笑みが零れた。
「何かおかしい?」
「ううん。こうして二人でゆっくり外で食べるの久しぶりだなって思って」
柔らかな光を浮かべて、睦兄の瞳が細まる。その目に自分の姿が映っていることが嬉しい。自然と頬が緩んで、胸が温かな気持ちで満たされていく。ずっとこうやって一緒にいられたらいいのに。そう思ったとき、ふとサリナさんが言った言葉が脳裏に浮かんだ。睦兄、と気がついたら呼びかけていて、優しい返事にまっすぐ見つめる。
「睦兄の大切なものって、なに?」
睦兄は唐突な質問に驚いたように目を見開いて、困惑した表情を浮かべる。
「……僕の大切なもの?」
いつだって、私のどんな質問にも真剣に答えてくれる睦兄は、今回も真面目な顔で考え込む。だけど、それは答えを探しているというよりも、答えるかどうかを迷っているような表情だった。それでも、私の真剣な雰囲気に負けたように、微かに笑みを刻んで口を開く。
「佳澄だよ。決まってるだろう?」
率直な言葉は、どういう意味があるのか見つけることができない。
( ――― 妹として?)
そう切り返そうとした言葉を慌てて飲み込む。今ここで、そうだと頷かれたら、感情を抑えきる自信がなかった。
タイミングよく料理が運ばれてきて、それに手をつける。前菜から順番に出てくるから、ウェイターが行き交って、それ以上の会話は続けられなくなった。お皿に盛り付けられている料理の材料はなんだろう、とか学校での話し、差しさわりのない程度の睦兄の会社の話し。話題は尽きることはないけれど、最初の話がずっと胸の中に引っ掛かっていた。時々、それが出てこようとして、喉に引っかかり慌てて飲み込む。何度もそれを繰り返していた。
もう一度その話題を出してきたのは、睦兄だった。睦兄は、珈琲。私は、デザートのアイスクリームを食べているとき。
「佳澄は?」
急に問いかけられて、アイスクリームをすくおうとしたスプーンを持ったまま、視線を上げる。真剣な睦兄の瞳と視線がぶつかって、息を呑んだ。
「佳澄の、大切なものは?」
どきり、と胸が大きく高鳴る。それは質問された事に対してか、見つめられているからか。急に息苦しくなって、持っていたスプーンを置いた。かちゃっと思いもよらず大きな金属音が鳴って、動揺が更に広がってしまう。睦兄の瞳からは視線を逸らせずに、ただ頭の中が混乱する。
(睦兄みたいに。 ――― いつもみたいに。)
『大切なものは、睦兄だよ。決まってるでしょ』
そう言ってしまえばいいのに。
理解している頭とは裏腹に、気持ちが ―― 心がそれを拒否していた。答えられずに、ただ見つめていると睦兄はゆっくりと瞼を降ろした。その仕草は、まるで何かを諦めるかのような動きで、どくんっと胸が大きくなる。わけのわからない焦りがこみあげてきて、汗が手の平に滲む。
( ――― 何か言わなきゃ。)
そう思えば思うほどに、言葉を見失う。
「小さい頃は、睦兄ーって一身に叫んでくれてたのに、今はおまえにも好きな人ができたのかな。成長したんだね」
口を開く前に、目を開けた睦兄が苦笑とともにそう言った。
感慨深げに言う口調の中に、微かに自嘲するような響きがあるような気がして、開きかけた唇をきゅっと引き結ぶ。奥歯を噛み締めて、泣きたくなる気持ちを堪えた。
「誰だなんて訊くのはやめておくけど、なにかあったら ――― 」
「むっ、睦兄はっ?!」
それ以上続けられたら、我慢できない。絶対、泣く。そう確信したから、慌てて話を遮った。
「好きな人?」
頷いてから、失敗した。この話題自体がダメなのに、続けてどうするの。自分で自分に呆れてしまう。黙り込んでしまった睦兄を見ながら、溜息が零れた。
「睦兄。もう出よう」
答えを聞くことが怖くて、思わずそう口にしてしまっていた。
「 ――― 佳澄」
不意に真剣な声で名前を呼ばれる。まっすぐ見つめてくる睦兄の瞳には、切なげな光が宿っていた。立ち上がることができなくなる。
(どうして、そんな顔するの……?)
心臓が鷲掴みされるかのようにぎゅっと痛くなる。押し寄せてくる不安が溢れ出しそうで、手を握り締めた。
「これだけは約束するよ」
口を開いた睦兄が発した声は、とても優しい。
「僕にとって、佳澄は誰よりも大切な妹で、家族だよ。それだけは変わらないから」
優しいのに、告げられた言葉はなによりも残酷に張り裂けそうだった胸を突き刺していく。零れそうになる涙を堪えることに精一杯で頷くことも口を開くこともできなかった。
――― ピンポーン、ピンポンピンポンピンポーン。
滅多に鳴らないインターホンがうるさいほどに鳴り響いて、無視して寝続けようとした身体を仕方なしに起こす。横になっていたソファはあまりベットと変わりない大きさと柔らかさで、大抵は寝室まで行くのも面倒なこともあってここで眠ることが多かった。
「あー。わかった、わかりましたって」
適当に羽織っていたシャツをズボンの中に無造作に入れて返事をしながら玄関に向かう。
(こんな非常識な奴は知り合いにいなかったけどなー。)
玄関に置いている時計を見ると夜の十時は過ぎている。そういえば、下のオートロック式の玄関からは音は鳴らなかった。とすると同じマンションの人間に限られて、そうなると ―― 最もこの非常識な行為とは結びつかないがひとりしかいない。
「睦月?」
かちゃりとチェーンを外して鍵を下ろす。玄関を開けた途端、胸にぶつかってきた衝撃に慌てて身体を捻って、中に引き込み廊下に押し倒した。ぐっと喉元を押さえようと顔を上げて ―― 心臓が凍りついた。
「かっ、佳澄ちゃんっ?!」
これ以上ないほどに驚いて、急いで身体を起こし体重をどける。
「こんな夜中に、どうし ―― 」
声をかけて、はっと息を呑んだ。天井を見上げたままの彼女のに目には、何も写っていない。それだけで事情がわかったような気がして、とりあえず冷静に彼女の手を取った。ゆっくりと引き起こし、そのまま廊下に座り込んだ彼女と目線を合わせるためにしゃがみこむ。
「 ―― 睦月と何かあった?」
ううん、と首を振る。それを何度も続けてやめようとしない彼女をそっと、抱き締める。温かいぬくもりに、胸が切なくなった。不意に肩が濡れていく感触を感じて、背中に回した手でそっと撫でる。
「いいんだよ、泣いても」
損な役回りだと内心は溜息をつきたい気分だけど、睦月のことで彼女が泣ける場所はここしかないとわかっているから、億尾にも出さずにただ優しく抱き締める。嗚咽と共に聞こえてくる睦月の名前を呼ぶ声は、あまりにも悲痛に満ちていて、お互いを想い合いながらも口に出さない二人に苛立ちはあるものの、だからといってどうすることもできない自分が歯痒かった。それを誤魔化すためにぎゅっと強く抱き締めている腕に力をこめる。
どれくらいそうしていたのか、やがて落ち着きだした彼女は、我に返ったように言った。
「ご、ごめんね、郁斗先生! 急にっ、あの!」
「待って、今離れるとちょっと男としてやばいかも」
焦る彼女の真っ赤になっている顔は想像できて、笑みを含みながら冗談交じりにそう言うと、更に慌てた声が腕の中から聞こえてきた。
「せっ、先生っ! かっ、帰るから! ごめんなさいっ!」
「いーの、いーの。今日はゆっくり会えなかったから思いもがけなくて嬉しいよ」
ばしばしっと背中を叩く小さな手に愛おしさを感じながら、離れがたくて腕を外せずにいる。
「とりあえずなにもしないから、紅茶でも飲んで行けば?」
「 ――― とりあえず?」
「今夜はね。そのまんまだと、睦月にばれちゃうよ」
そう告げると、暫く考え込んだように沈黙を守っていたけれど、やがて頷くように小さく頭が動いた。
電話越しの嫌味な声を聞きながら、紅茶のパックを入れたカップとインスタントの珈琲粉が入ったカップにお湯を注ぐ。湯気があがるのを思わず見つめてしまう。途端、聞いているのかと受話器越しに低い声が聞こえてきて我に返った。
「ああ。聞いてるって。仕方ないだろ、学校の課題でわかんないって聞きにきたんだから。ちゃんと一時間で返すって。一分でも過ぎたら迎えにくればいいさ」
まだまだ続きそうなお説教にうんざりして、問答無用で電源を落とした。
カップを持ってリビングのソファに座っている彼女のところまで行く。冷たい氷をタオルに包んだものを瞼にあてていた。その前のテーブルにカップを置く。
「ありがとうございます」
気づいた彼女が手を下ろして、御礼を口にした。それを受け止めて、自分に淹れた珈琲を一口流し込む。彼女もタオルを置いてカップを手に取る。それを飲んでほっと息をついたのを見て、頬が緩んだ。
「まだ赤いですか?」
「いや。可愛いなーって見てただけ」
たちまち目よりも真っ赤に頬を染める姿に笑みが零れる。
「からかわないで下さい!」
ムッとした口調に事実だよ、と肩を竦める。もうっと頬を膨らませて呆れられた。その流れで、何気ない口調を装って訊いてみることにした。
「で、睦月に何を言われたの?」
「 ――― っ!」
小さく息を呑んで、途端に押し黙る。とりあえず同じように沈黙を守って様子を見ていると、微かな声が聞こえてきた。
「大切な家族 ―― って、わかってるけど……」
その言葉に零れそうになる溜息を珈琲を飲むことで誤魔化す。
(家族ねぇ。)
佳澄ちゃんにとっても、睦月にとってもそれは事実で大切なことなんだろうけれど、第三者から見ればそれは逃げているようにも聞こえる。確かに家族だ。だけど、血は繋がっていなくてしかも、お互いこれ以上ないほどに想い合っているというのに。まるで、家族という絆が失われたらすべてが壊れるかのようにそのことにしがみついているように思えた。
「いっそ、睦月が好きだって告白すれば?」
気持ちを押し込めてぐるぐるしてるよりも、健康的だろう。半ば投げ遣りにそう言うと、彼女は小さく首を振った。
「そんなことしたら、家族じゃなくなるもの……」
やっぱり、「家族」。どうしてそこにしがみつくのかさっぱりわからない。その想いが一番の障害だっていうのに。
「わからないなー。家族でいたい。でも睦月が男として好きだから、家族と言われることが嫌。佳澄ちゃんはどうしたいの?」
口にしながらまずったと思った。冷静さが欠けているのは、好きな子の好きな相手への相談に乗ってしまっているという不毛な状況のせいだ。再び、睫を小さく奮わせる彼女にどきり、と胸が高鳴る。慌てて言った。
「それがわかれば、悩んでないよね」
とりあえず、睦月をぶっ飛ばしてやりたい。
( ――― 覚えてろよ、睦月。)
俯く彼女の頭を見ながら、抱き締めたい衝動が突き抜けてくるのを堪えつつ、脳裏に浮かんだ親友の姿に恨み言を向けた。
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