雨のち晴れ。ときどき、嘘つき。

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  暴風雨(2)  


 郁斗から連絡を受けて、会社を早退した。マンションに帰るまでずっと、頭の中は佳澄のことで一杯だった。状況はわからない。ただ、具合が悪くて倒れた。マンションにいる、とだけ言って電話は切れた。いつもなら郁斗は会社まで代わりをしに来るがその余裕もなかったんだろう。そうなると、佳澄の体調はよほど悪い。不安で今にも足元が崩れ落ちそうになっていた。
 「佳澄っ?!」
 玄関を通り過ぎて、急いで部屋に向かう。ドアを開けると、郁斗が「しぃっ」と人差し指を立てて言った。ベットに横たわって眠っている佳澄の姿を見つけて、ほっと息をつく。
 「……佳澄」
 ベッドの傍らまで歩み寄って、顔を覗き込む。苦しげに眉根を寄せ、その寝顔はとても穏やかとは言えないもので、胸が苦しくなる。手を伸ばして、そっと頭を撫でた。
 「……にぃ」
 微かに名前を呼ばれた気がして、佳澄の手を握る。いつも温もりをくれるその小さく柔らかい手が今は、ひやりと冷たくて悲しくなった。
 「ここにいる。何も心配ないよ。心配いらない」
 強く手を握り締めて、呪文のように何度も繰り返す。
 「ごめ……っ、ごめ、さい……」
 無意識に紡がれる謝罪の言葉に胸を貫かれる。こんなに佳澄が傷つくことはなにもないのに。そんな必要はどこにもないのに。
 (謝るのは僕なんだよ……。)
 本当は、こんなふうに苦しんでいる佳澄の手を握る権利すらない。わかっているけど、離すこともできなかった。繰り返し、頭を撫でながら握っている手に力をこめる。そうしているうちに、ようやく表情からも力が抜けて、穏やかな顔つきになった。規則的な寝息が聞こえてきたことに、胸を撫で下ろす。それを見計らったように、同じように傍で見守っていた郁斗が声を潜めて話しかけてきた。
 「なぁ、もしかして佳澄ちゃんってさ」
 「……郁斗」
 視線を向けると、青く染まった郁斗の目と合う。いつもの装った雰囲気を消し去って、酷く冷たい空気を纏っていた。逸らすことを許さない真剣な面持ちに、隠しておくことはできなかった。
 「佳澄は実の母親に、虐待を受けていたんだよ……」
 言葉にした途端、脳裏に浮かび上がる。小さな佳澄が母親に叩かれて、縋るように「ごめんなさい」と叫んでいた姿。初めてそれを見つけたとき、強い衝撃に襲われた。どうして気づいてあげられなかったんだと、自分を責めた。
 「再婚した僕の父親が病気にかかって、看病疲れしたんだろう。生活にはお金も必要だったから働かなきゃいけない。ストレスが全部、佳澄へと向けられた。知ったときは、絶望したよ。父親のせいなのに。僕の父親のせいなのにっ、どうして幼い佳澄が虐待されなきゃいけないんだ?」
 「睦月……」
 窓を叩く雨の音が聞こえる。そういえば、と思い出した。
 「あの日も、こんなふうに雨が降っていたんだ」

 ただいま、と鞄を置いて玄関を上がった。いつもは、小さな佳澄が「お帰りー」と嬉しそうに、無邪気に駆け寄ってくるのに迎えはなかった。遊び疲れて寝ているのかもしれない、と苦笑いが浮かぶ。けれど、ふと喧騒が耳に届いた。女性の甲高い声に気づいて、慌てて声がする方向に急ぐ。嫌な予感がした。リビングを過ぎて、余計に違和感を抱いた。外は雨が降っているのに、ベランダへ通じる窓が開け放たれていて ―――
 「言うこと聞かないなら、あんたなんかいらないわっ!」
 「やぁっ、ごめんなさいっ、ごめんなさいっ……!」
 「うるさいっ! あんたさえいなければ!」
 目の前の光景に全身から血の気がさぁっと音を立てて引いていく。母親であるはずの女性が、佳澄をベランダから突き落とそうとしていて、佳澄は柵に必死になって捕まっていた。 ――― 小さな手で。
 「なっ ―― !」
 かっと頭の中に怒りがわきあがって、慌てて佳澄のもとへ走り寄っていた。
 「なにしてんだっ! なにしてんだよ!」
 「むつにぃ ―― っ! たすけて!」
 「また助けてもらおうって言うの?! あんたさえいなければ私はっ!」
 手が振り上げられる。あの手が佳澄を叩いたら、その衝撃できっと落ちてしまう。そう感じた瞬間、何も考えられなくなって、女性を突き飛ばしていた。

 「我に返ったときには、母親だった女の姿は消えてて。僕は泣きじゃくる佳澄をなんとか助け出した。だけど、消えたと思った女は、ベランダの下に落ちてたんだ……。僕が突き落としたんだよ」
 だけど、そう自覚はしてもショックは受けなかった。腕の中で泣いている小さな佳澄から伝わってくる温もりを抱き締めて、彼女を助けることができた、その安心感だけが全てだった。佳澄を失わないでよかったとしか、僕には思えなかった。
 「警察もきたけど、佳澄が僕から離れようとしなくて。僕は守ってくれたんだって。母親から守ってくれたんだ ―― そう言って、しがみついたまま動こうとしなかった。佳澄の言葉と身体の怪我、そして周囲で聞いてた人たちもいて、正当防衛が認められた。でも僕にはそんなことはどうでもよかった。佳澄さえ、守れたならそれで、良かった ―― 」
 今も思う。この瞬間、握っている手から伝わってくる温もりに、佳澄を失わないでよかった、と。
 「それで佳澄ちゃんは、雨の日が苦手なのか」
 納得したように零す郁斗の言葉に罪悪感が浮かぶ。きしりと胸が痛んだ。
 「僕の父親が病死したときも。佳澄の母親が亡くなった日も、雨の日だったから」
 そして ―― 。
 胸の一番奥に押し込めていた出来事が浮かび上がろうとしたとき、ぴくりと佳澄の手が動いた。睫が小さく震えて、ゆっくりと瞼が持ち上がる。
 「佳澄!」
 「佳澄ちゃん?」
 ぼんやりとしていた目が何度か瞬きを繰り返して、やがてしっかりしてくる。困ったように瞳を揺らして、口を開いた。
 「ごめんね、心配かけちゃった? 郁斗先生まで、ごめんなさい」
 「謝らなくていいよ。具合はまだ悪い?」
 繋いだ手を意識させるように ―― ひとりじゃないと伝えるために、力を少しだけ入れて握る。嬉しそうに微笑んで、握り返される。
 「もう良くなったよ」
 無理をして言っているのは明らかで、窘めようとして郁斗に遮られた。
 「そんな顔色で言われても、本気に取れないって。ほら、薬もってきといたから、飲んで。なんなら、添い寝してあげ ―― 」
 思わず郁斗の腹部に肘をめりこませていた。ぐぅっと呻く声は聞こえないフリで、郁斗から薬を奪って佳澄に渡す。上半身を起こしてそれを飲むと、再び佳澄は横になった。
 「無理しないでいいから、ゆっくり休むんだよ。僕はちょっと郁斗に話があるからリビングにいるけど、何かあったらすぐ呼んで」
 「 ―― 睦兄も、郁斗先生も私を甘やかしすぎてるよ」
 それには答えずに、笑みだけを返す。甘やかしたい。優しくしたい。佳澄にそう思うことはとても自然のことで ―― 。
 「睦月はともかく、オレはめーいっぱい下心があるから、安心して甘えてって、むっ、睦月! こらっ、離せ!」
 抵抗する郁斗の襟首を掴んで引っ張っていく。
 「じゃあ、おやすみ」
 そう言って、佳澄の部屋を後にした。ドアを閉めて、郁斗から手を離してリビングに向かう。大人しくついてきて、郁斗はソファに座った。どさりと、不貞腐れたように。佳澄は妹だったけれど、弟がいたらこんな感じかもしれないと思うと、苦笑いが浮かぶ。
 「何か飲むか?」
 「酒」
 「まだ早いだろう」
 即座に返ってきた答えに呆れながら、アルコール類が入れてあるキャビネットからブランデーとグラスを取り出す。適当に氷も入れて持って行く。一杯だけだぞ、と釘を刺して渡した。

 「 ――― それで?」

 向かい側に座って、無言でブランデーを口にする郁斗を促す。黙っているつもりはなかったのか ―― 誤魔化すときは徹底して相手を煙に撒くことができることを知っている。肩を竦めて、口を開いた。最も、その声は限りなく不機嫌を纏っていたけれど。
 「この前話してた見合い相手だよ、おまえの」
 言葉の意味をつかめずに、思わずじっと郁斗に視線を向ける。
 「佳澄ちゃんを叩こうとしてたから、オレが間に入った。っても、オレには佳澄ちゃんしか目に入ってなかったから、後のことはわからないけどね。佳澄ちゃんをエレベーターに乗せた途端、倒れたんだよ」
 その事実に息を呑む。
 叩こうとしただって? その言葉が胸を貫く。何も知らない佳澄にそんなことをする理不尽さに腹が立った。ほとんど無意識に胸ポケットに入れていた携帯を取り出してボタンを押そうとしたところで、郁斗の声がした。
 「やめとけって。何を言うつもり?」
 「佳澄に乱暴しようとしたんだ。釘を刺しとく」
 「佳澄ちゃんに近づくなって? 余計に相手を煽るだけでしょ。それは」
 冷静に言われる言葉に、そうだな、と納得する。携帯を適当に放り投げて、ソファに深く背中を預けた。天井が目に入り、額に手を置く。胸の中に渦巻く怒りを抑えるために、息をついた。このまま放っておくこともできない。
 「……見合い相手がそんなにわからず屋だとは思わなかった」
 「会社が絡んでるからね。相手も強気なんだろうさ」
 厄介だな。個人的な付き合いならどうとでもできるが、会社が絡んでいるとなると下手なことはできない。郁斗と二人でやっていたころはともかく、今は他にも社員がいる。責任を放り出すわけにはいかず、そうはいっても、佳澄と会社を天秤にかける気にもなれない。佳澄を傷つけた相手を許せるはずがなかった。
 「まぁ、この件はひとまずオレに任せといて。土曜日のパーティまでにはなんとかするよ」
 郁斗の声に視線を向ける。目には自信が込められていて、何かを企んでいることは容易に想像できた。
 「郁斗。これは ―― 」
 「オレには関係ないなんて言わないでよ。佳澄ちゃんを傷つけた時点で、これはオレの問題にもなったんだから」
 そう言って、一気にブランデーを煽る。いつもと違うその動きに、少し驚いた。大学の頃から郁斗が怒る姿は滅多に見たことがない。わかっていたつもりだったけれど、本気だということが伝わってきて、胸が痛んだ。郁斗が本気で佳澄を好きで、佳澄もまた郁斗を好きになったのなら、そろそろ繋いだ手を離さなければいけないのかもしれない。その時が、近づいている。

 窓を叩く雨と、風の音に視線を向けると、まるで今の気持ちを表すように、外は暗雲が立ち込めていた。

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