雨のち晴れ。ときどき、嘘つき。

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  暴風雨(3)  


 最近は晴れ渡ることがなく、空を灰色で覆った雲は、気紛れに雨を降らせる。見るとはなしに眺めていた窓硝子を打ち付ける雨粒に気づいて、再び降りだした雨にうんざりした。しかも、今から自分がすることを思えば、余計に気分を滅入らせる。最も、佳澄ちゃんや睦月のことを考えると、予定をやめる気はさらさらないけれど。
 テーブルの上に置かれて、さっきから飲むわけでもなくただ、中に入れたストローでかきまわしていたアイスコーヒーの氷はすっかり小さくなっている。カランカランとぶつかり合って鳴る音がほんの少し、気を紛らわせた。そうでもしなければ、意識が周囲に向いてしまって、苛立たしさを感じてしまう。好奇心、興味、外見への好意。そういった感情が込められた視線は、ほんの幼い頃から向けられてきたものではあるが、鬱陶しいという気持ち以外は感じたことがなかった。最も、外見に惑わされてくれる女性は、身体だけを目当てとする自分に罪悪感を与えずにすむから、過去は都合が良いと思っていたけれど、すっかりそういった関係から抜け出した今は、佳澄ちゃん、睦月以外のその他大勢でしかなく、向けられる視線には欠片の興味もない。それでも纏わりついてくる視線には、苛立たしい気持ちになる。一緒に佳澄ちゃんがいてくれたなら、気にもならないんだけどなぁ、と思わず溜息が零れた。
 不意に喫茶店のドアが開く音がして、視線を向けると、呼び出した女性が姿を現した。十五分の遅刻。何の伝言も理由もなく待たせる女がただの身体の関係なら、二度と連絡はしないな。いや、一秒過ぎたあたりで帰ってるか。勿論、そんなことは態度には億尾にも出さず、表面上はにこやかに応対することにした。
「……どういうつもりかしら?」
 向かい側の椅子に座ると、村田紀子は困惑した顔つきで問いかけてきた。
「呼び出したことを言ってるなら、心当たりはあるんじゃないですか?」
 からかう口調で言って軽く肩を竦めて見せれば、たちまち彼女の頬がさっと朱に染まった。怒りに瞳が揺れる。
「あなたには関係のないことだわ!」
 たいていの女性は感情的で、特に恋愛が入り込むと盲目にさえなる。そんなふうに、何かを一心に思えることは羨ましい。元は馬鹿にさえしていた感情だったけれど佳澄ちゃんと睦月の関係を見ているうちに素直にそう思えるようになっていた。勿論、それと大切なひとを傷つけられることを見逃すことは別だけど。
 氷がすっかりとけ、薄まっているアイスコーヒーに視線を向ける。まずそう。飲み干すのは諦めよう。返事をすることさえ馬鹿らしいと感じながらも仕方なしに、口を開く。
「関係あるかどうかはオレが決めることなんですよ、村田さん。そして首を突っ込むことを決めた以上、あんたを牽制することが役目になる……ってんじゃあ、納得できないかな?」
 慇懃無礼であるように心がけ、言葉通り射抜くように見る。ぐっと息を呑んだ彼女は視線を逸らせた。けれど、テーブルに乗せている手は小さく震えていて、屈辱ゆえの怒りがその心に渦巻いていることがわかった。
「……あなたは佳澄さんが好きなんでしょう?」
予想していた言葉を一言一句違えることなく耳にして、思わず苦笑がこぼれ落ちた。
 ――― 好き?
「だったら、私に協力してくれてもいいはずよ」
 そう言って見つめてくる瞳は期待に煌めいてる。誘うように、朱く塗られた唇が笑みを形作った。
 自分の思惑通りに人を動かせるとあからさまに態度に出るやつは嫌いじゃない。そういった人間のほとんどは自分が操られているとは微塵も思わないから動かしやすい。
「私もこの間邪魔されたお礼にあなたのことを調べさせてもらったわ。神木郁斗さん」
 スッと一枚の封筒がテーブルの上に置かれた。それを見た途端、心の温度が下がった。一気に冷えていく。
「へぇ、そりゃすごい」
 で、何かわかったの?
 嘲笑するように訊けば、彼女の描かれた細い眉尻がはね上がり、浮かべていた笑みは固まった。開く唇がわなないているのを面白くもなく、見つめる。
「あ、あなたが……あの神木家の、」
「じゃあ、わかるよね。あんたが財力で睦月や佳澄ちゃんを脅そうとするなら、オレにもその権利が出てくるってこと。忘れないで」
 最後まで言わせる必要はない。言いたいことだけを警告として告げる。ぐっと押し黙った彼女は、不満げな表情を浮かべて、負け惜しみのように呟いた。
「どうして、そんな人間が彼らについてるのよ……」
「あれ。そこらへんは調べついてないんだ?」
 わざとらしく、置かれたままの封筒にちらりと視線をやる。もっともその薄さからたいしたことが調査されていないことはわかった。確実に、基本情報のみだろうし、それは隠してもいない。むしろ、駄々漏れ情報なので放っている。第一、逆に言えば探られているという情報こそ、とっくに入手済みだった。そのことも含めて、警告しなければならなかった。これ以上の、立ち入りを。いくら駄々漏れとはいえ、探られる行為自体が不本意なことだったけれど。
(まぁ、手に入れた情報を持ち出そうとしなきゃ、多少は優しくできたのになぁ。)
 情報を手に入れるっていう同じことは郁斗もしている。けれど、優位になるために使いはしても、私情で脅すような武器にはしない。
 人間の本性が現れるのはこういったときだ。
「まぁ、いいや。オレは大抵のことには興味ないんだ。けど、睦月と佳澄ちゃんのことは別。あんたが財力や権力を使ってふたりの間に割って入ろうとするなら、オレはそれ以上の力を使って、あんたを蹴落とすからそのつもりで」
 念を押してから、立ち上がった。
 話を長引かせるつもりはない。忘れずにテーブルの上にある封筒を手に取って、離れようとしたとき、待って、と小さく声が聞こえた。ふっと視線を戻すと、すっかり血の気がなくなり、青ざめた彼女がそれでも、肩に力をいれて、椅子に座ったまま見上げてくる。ごくりと唾を呑んだ後、意を決した顔で訊いてくる。
「……っ、あのふたりが結ばれると思ってるの?」
 さぁ、と肩を竦めて返す。できればそうならないことを願っているけれど、一方でそれはそれで仕方ないと思っているところもある。複雑な心境を彼女に話す気はさらさらなかった。
「睦月さんはあの子から離れなきゃいけないのよっ。そうじゃないと、彼はっ」
 唐突に意味深な、けれど意味不明な言葉を口にする彼女に目を細める。
「なに言ってんの?」
「あなた、親友なのに何も知らないの?」
 逆に問い返されて、内心むかついた。主導権が取られるのは好きじゃない。
「オレはあんたと違って人の過去を根掘り葉掘り調査したりしないからね。もう一度、訊いてあげよう。なにを掴んだわけ?」
 冷静に皮肉を返しながらも、背筋には嫌な予感が走った。なにか胸の奥がもやもやしてくる。まさか、睦月がベランダから母親を突き落とした件を言っているのか。あれは佳澄ちゃんを守るためで、睦月はそれに対しては罪悪感を持っていないとはっきり言った。誰が責められるんだろう。娘を殺そうとする母親から守ろうとした少年を。
 そこまで考えて、はっと思い出した。
 (「 ―― それは、罪なんだよ。」)
 睦月のあのときの言葉は罪悪感が含まれていた。
「春日佳澄の本当の父親が亡くなったときの調査報告書もあるのよ」
 そう言って、彼女はもう一枚、鞄から封筒を取り出した。さっきの茶色いものとは違って、灰色の厚めの封筒。
「……あなたに警告された以上、私が持ってても仕方ないから、あげるわ。けど、私だって、睦月さんに惹かれていたの。彼と幸せになれるんだったら、どんなことでもするつもりだったわ」
 ――― あなたさえ、いなければね。
 溜息混じりに言って、結局、先に喫茶店を出て行ったのは、彼女だった。
 後に残されて、テーブルに置かれたままの封筒に視線を向ける。どっちにしても放っておくわけにはいかないよな、と手にとって、とりあえず椅子に座りなおす。
 親友の身上調査はしない。それは睦月と親友になることを決めてから、郁斗にとって誇りだった。もちろん、期待はけして裏切らないと信じることができる睦月だからだ。あいつのことならなんだって受け止められるし、例え前科があろうと、睦月が睦月のままなら、かまわない。だから、個人情報や会社情報を容易く手に入れられる立場にあっても、親友のそういったことをしたことはない。
「……たいした誘惑を置いていって下さったもんだねー」
 数日前の佳澄ちゃんの泣き顔が脳裏に浮かんだ。
 封筒を持つ手がじんわりと汗ばんでくる。これが自分の知っている情報ならいい。睦月が話してくれたことなら。それだったら、鼻で笑って封筒ごと燃やしてしまえる。
 もしくは、ここに書いてあることが睦月の罪悪感の理由だとするなら、それがあのふたりの不毛な関係を終わりにする鍵になるかもしれない。解決してあげれば、睦月と佳澄ちゃんもお互い素直に「好き」だと告白できるようになるかもしれない。ずきり、と胸が痛む。二人が恋人になったら、傷つくだろう。けれど、もうあんな泣きじゃくる佳澄ちゃんを見たくはない。

 彼女には笑顔がなにより似合うから ―― 。



 ――― 初めまして。
 君の兄になるんだよ。そう言って優しく笑ってくれた少年を前に、それより幼かった私は、呆然となってしまった。
 「おや、佳澄ちゃんは緊張してるかな?」
 「そうね。ほら、佳澄。約束したでしょう? ご挨拶なさい」
 隣に座っている母にそう促されて、戸惑いながら口を開いた。ここに来る前に何度も何度も母に言いつけられた言葉を。
 「かすみです。よろしくおねがいします」
 慌てて頭を下げた。
 少年は苦笑して、同じように頭を下げた。よろしく、と。だけど、初めまして、と言われたとき、私は強い衝撃を受けた。胸がぎゅっと締め付けられた。悲しいのか、苦しいのかわからない。ただ、頭の中を眩しい光が埋め尽くした。

 突き飛ばされた衝撃。ふわりと浮いたような、自分の身体。

 『 ――― 佳澄っ!』

 切羽詰った、声。
 キィと、甲高い音。いつも、抱き締めて、安心できる腕に包まれた、その瞬間。激しい衝撃に襲われた。どんっと鈍い音が鳴って、それから ―― 。

 「パパ……」

 無意識にそう呟いた途端、意識が霧に包まれていくのを感じた。佳澄、佳澄ちゃん、と名前を呼ぶ声が、遠く聴こえて、ただ兄になると言った少年の目が驚いたように目を見開き ―― そして、そこに酷く傷ついたような光が煌いた瞬間だけが鮮やかに心に残った。

 カーテンを開けると、頼りない日差しが入り込んできた。
 週末には暴風域に入ると言っていたから、晴れ渡る空は期待できないってわかってるんだけど。変わりない、灰色の雲に溜息が零れた。
 (雨が続くから、かな……。)
 記憶の奥底に閉じ込めている、最も思い出したくない出来事が夢になって襲ってきた。最近立て続けに嫌なことがあって、情緒不安定になってるせいかもしれない。ぎゅっ、と目を瞑る。
「苦しい、よ……」
 心臓を鷲掴みされているような痛みが走る。
 どこにもいけない睦兄への想いを持て余していた。

 心配する睦兄を宥めて、学校に向かったけれど、今朝見た夢のせいで、授業には余り身が入らなかった。だけど、ふと郁斗先生の授業で彼の不機嫌な態度に気づいて、驚いた。
 他の生徒にはわからないように、それとなく日にちとか。月とかカケて足して引いて適当な計算しているように見せかけているもののその全ての数字が村田君の出席番号になっていた。それからずっと、何かと理由をつけて質問を続けている。それがあまりにも普通の、いつもの態度だから誰も怪しんではいない。当の本人 ―― 村田君だって、多少の疑問は抱いているものの、まさかわざとそうされているとは思いもしていない、はず。
「……ね、郁ちゃん先生。何かあったのかな?」
「えっ?」
 こそり、と小声で椅子を後ろにずらして訊いてくる上総を思わずまじまじと見てしまう。私以外に気づくなんて思わなかった。
「不機嫌でしょ。何か知ってる?」
「ううん。私も今気づいて、驚いてるくらい」
「そっか。……それにしても、村田くんは災難だね」
 上総の言葉が含みのあるものに聞こえて、一瞬胸に苦いものが広がった。不意に郁斗先生の目と合って、ぎくりと顔が強張る。顔には笑みを浮かべているにも関わらず、青く染まる瞳の色は、何の感情も浮かんでいないような気がした。
 (なにがあったんだろう?)
 問いかけるように見つめてみても、視線はすぐに逸らされる。
 やっぱり、倒れたときのことで迷惑かけてしまったんだろうか。帰るまでいつものように明るく笑って見送ってくれたのに。だけど、好意を振り払いながら甘えるなんて、図々しいに決まってる。
 授業が終わって郁斗先生が出て行った教室の扉をしばらく眺めて、立ち上がった。
「どうかした?」
「うん。ちょっと行ってくる!」
 心配になって、上総にそう言い置いてから、郁斗先生がいるだろう、英語資料室に向かうことにした。
 軽くノックする。返事はなかったけれど、鍵はかかっていなくて、ゆっくりと扉を開けた。
「中に入ったら、鍵は閉めてねー。煙草見つかるとまずいから」
 足を踏み入れるとそう声がして、すぐに言われた通り鍵をかける。振り向いて見ると、窓の下に座り込んで壁にもたれながら煙草を吸っている郁斗先生がいた。
「私が来るの、わかってたんですか?」
「そりゃあ。授業中にあんな熱い視線を送られたらね。追いかけてくるだろうなってくらいわかる、わかる」
 肩を竦めて言う口調はいつものように軽いけれど、その雰囲気に違和感を持ってしまう。近寄ろうとして、ストップ、と鋭い声がかかった。
「そこが境界線。それ以上は入り込まないでくれる?」
「 ――― 郁斗先生?」
 青い瞳に射すくめられて、言われるまでもなくそれ以上は足が動かなかった。ぴりぴりとした空気が郁斗先生を包んでいて、眉を顰める。まるで初めて会った頃のようだと思った。笑みを浮かべていながら ―― 誰も近づくな、と警戒心いっぱいの瞳で、社交的に振舞いながらも、誰をも交わせる雰囲気を纏っていた、あの頃の追い詰められた、傷ついた獣を思わせる姿。あれから、随分と変わったと思ったのに、今の郁斗先生はあの頃に戻ったようだった。
「どうして、そんなに落ち込んでるんですか?」
 昨夜まではなにも、異変は感じなかったのに。
 郁斗先生は、煙草を深く吸い込んで吐き出した。煙を追いかけるように視線を天井に向けて、はっ、と自嘲したような笑いが聞こえてきた。
「ちょっと切羽詰ってる」
「珍しいですね」
 そう言って、郁斗先生の傍まで歩み寄る。目の前まで行って、しゃがみこんだ。よしよし、と頭を撫でると苦笑いを零された。
「近づくなって言ったのに」
 ぐいっと引き寄せられて、肩に郁斗先生の額が押し付けられたのがわかった。さらりとする柔らかい髪を撫でる。
「……初めて会った頃のオレたちみたいだね」
 懐かしさがこもった口調に思わず、笑みが零れた。
「あの頃のやさぐれ神木さんは、面倒見るのが大変でした」
 今度は、くすっと小さな笑い声が郁斗先生の口から零れ落ちた。
 睦兄に連れられて初めて家に来たときの郁斗先生の姿を思い出す。あの頃はまだ、教員じゃなかったから『神木さん』って呼んでた。そのうち、同じマンションに引っ越してきて週末ごとに朝夕を食べていくようになって、いつの間にか『郁斗さん』って呼ばされるようになった。その呼び方に戸惑っているうちに、教員になったこともあって、『郁斗先生』に落ち着いた。その間、郁斗先生は本当に変わったと思う。少なくとも、誰をも突き放そうとする雰囲気は鳴りを潜めて、自分で自分を傷つけるような行為はしなくなった。そう、思ってたのに。
 ―― 今、とても郁斗先生は傷ついているように見えた。
「そんなやさぐれ神木郁斗に、真正面から付き合ってくれたのが睦月だったんだ。あいつの雰囲気にオレは惹かれて、くっつきまわるようになった」
「郁斗先生?」
 唐突に昔話を始めた先生に訝って、顔を見ようと動きかけると、ぎゅっと抱き締められた。顔を見られることを嫌がってると気づいて、大人しく身を任せる。今はそれが最善だと思った。
「あいつは、―― 頭もいいし、運動もできる。顔だってあの通り、美人さん。オレに負けず劣らずってやつ。でも、なんでだろ。ずっと、敵わないって思わせる奴で、それがなんでかわからなかった。けど、佳澄ちゃんに会って、わかったんだ。あいつの強さっていうか、根底って言うの? 大切なものを守りたいって気持ちがあいつを支えてて、オレは羨ましく思った。同時に佳澄ちゃんを守るためならどんなことでもできるって強さに、オレは敵わなくて当たり前だと思った。そのときのオレにはそんなに大切なものを思える真剣さが欠片もなかったからね」
 自嘲が入り混じった声で言葉を続ける郁斗先生は、悲しみを纏っているように思えた。心細さを感じていて、まるで迷子になった子どものように不安定で、本当に何があったんだろう。いつも私のずるい甘えを、笑って受け止めてくれる郁斗先生を放って置けなくて、ぎゅっと抱き締める。それに気づいたのか、苦笑する声が聞こえて、背中に回っている手が更に力強く抱き締め返してきた。けれどそれは、抱き締めるというより、縋りついているように思える。
「……佳澄ちゃん」
 耳元で囁かれる声は震えていた。
「君を、好きになるまでは」
( ――― っ!)
 思わず身体を引こうとして、力強い腕に遮られる。今までの、逃げようとするとき、それを笑って許してくれるような雰囲気じゃない。
「郁斗先生っ、」
「いつのまにか、君に焦がれるようになってた。好きでどうしようもなくて、だけど、オレは睦月を裏切りたくなかった。君の笑顔も、あいつの笑顔も。ふたりの絆も大事にしたいと思って、だからオレはっ、君たちふたりがくっつくならそれでいい。見守ろうって……それなのにっ」
 ――― それなのに。
 声だけ、じゃない。郁斗先生の肩も、小さく震えてる。
 いつも自信満々で、どんなときも揺るがずに冷静に物事を受け止めているように見える郁斗先生が、本当は傷つきやすくて、脆いことを知っていた。だけど、こんなに本音を曝け出して、苦しそうに想いを吐き出すのは初めてで、胸がぎゅっと締め付けられる。
 不意に腕の力が緩んで、身体を離す。泣いているかと思ったのに、郁斗先生の目は青く澄んでいて、まっすぐ射抜くように見つめられる。逸らすことができなくて、瞳に浮かぶ光が甘い熱に揺れていることに気づいた。
「……オレは、もう睦月に遠慮しない」
 強い意思が込められている声に、ぞくりと背筋が震える。本気だと伝わってきたときには、唇が塞がれていた。
「っ!」
 驚いて身体を引こうとしても、再び抱き締められた腕に遮られた。苦しいほどの熱を無理矢理与えられて、唯一自由になる手で郁斗先生の背中を叩く。けれど、口づけが深まるばかりで、そのうち呼吸ができなくなる。それを見透かしたように、わずかに唇が離れた。
「いやっ……せんっ……!」
 拒絶する前に、再び唇を奪われる。
 (いやっ、 ――― っ!)
 頭を振って逃れようとしても、後頭部を押さえつけられて、それもできない。もがいても、もがいてもどうにもならなくて、悔しさに涙が浮かんできた。ふっと、拘束が緩んで、反射的に手を振り上げる。だけど、それさえも郁斗先生は難なく受け止めた。見つめてくる目には悪気なんて欠片も浮かんでいない。むしろ、今まで見たことがないほど、真剣な光を宿してた。
「オレは、春日佳澄を愛してる」
 膨れ上がっていた怒りは、その言葉に急速に萎んでいく。喉に熱いものがこみあげてきて、言葉を紡ごうとした唇を噛んだ。
「……先生の、」
 頬を熱いものが流れていく感覚に、胸が張り裂けそうになる。
 郁斗先生の目によぎった傷ついた光に気づいてしまって、頭の中に浮かんだまま、大嫌いだとは言えなくなった。
「佳澄ちゃん……」
「先生のっ、ばかっ!!」
 精一杯、そうぶつけてから踵を返す。ぐいっと唇を手の甲で拭うけれど、与えられた熱が胸の中で渦巻いて、どうすればいいのかわからないまま、ただ、扉を開けて全速力で駆け出していた。
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