雨のち晴れ。ときどき、嘘つき。

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  雨のち晴れ。ときどき、嘘つき。(1)  


 そっと、触れる。
 柔らかな曲線を描く頬は、涙のせいか、かさついていた。その跡を辿って、腫れた瞼まで指を滑らせる。見ている夢が幸せなものじゃないとわかるくらいに顰められている眉。再び、頬を撫でて、薄っすらと開いている唇に触れようとして ―― 手を握り締めた。
 (こんなふうに、佳澄ちゃんを傷つけるつもりじゃなかったんだけど……。)
 滅多にしない後悔がこれまでの人生の分一気に圧し掛かってきたかのようで、その重みに耐え切れずに息をつく。傷つけるつもりじゃなかった、とその言葉はあまりにも偽りめいているだろうか。本気で手に入れるつもりだった。実家の名前を出せば、オレ自身もこれまでのように逃げておくわけにはいかなくなるものの、その責任は佳澄ちゃんを手に入れることと引き換えなら、十分過ぎるほどだ。実家を動かせば、いくら保護者である睦月が守ろうとしても、所詮は一企業の社長でしかなく、彼女を捕まえるのは容易いこと、になるはずだった。それを見透かしての、あの睦月のパフォーマンス。やられた、という思いと、そのとき見てしまった、佳澄ちゃんの絶望に染まった顔に胸が痛んだ。最後のとどめは。
「佳澄ちゃんの大ッ嫌いは、堪えるなぁ……」
 これまでどんなときでも、嫌いと言われたことがなかった。馬鹿は幾度となく言われたけど。まだ出会った当初、言葉の端々でわざと傷つけようとしても、いつだって慈しんでくれる瞳があって、なにがあっても受け入れてくれて。嫌われるようなことをそれこそ、わざとしたこともある。そのときでさえ、彼女は言わなかった。それくらい、しなやかな強さを持っているというのに、大ッ嫌いだと言わせたのは自分だと思うと、流石に気が滅入る。
 ふと、寝室の向こうから携帯の音が鳴っているのに気づいて、仕方なくベッドから立ち上がった。なるべく音を立てないように注意しながらリビングのソファに放っておいた携帯を取って、電源を押す。すでに着信音から、受話器の向こうが誰かはわかってる。お互い、相手の出方を待つように沈黙していたけれど、それを破った声は焦れている口調だった。
『……今どこにいる?』
「部屋」
 曖昧な返事をしながら、ベランダに通じる窓を見る。外はすでに真っ暗だったけれど、硝子を伝う雨粒がいまだ降り止んでいないことを教えてくれる。
『ふざけるな、郁斗! マンションのどこにもいないだろうっ』
 電話越しとはいえ、こんなに怒った睦月の声は、聞いたことがないな、とほんの少し優越心が擽られる。切羽詰っていた気持ちが、余裕を生み出してきた。
「佳澄ちゃんが帰りたくないって言うんだ。いいだろ。おまえはもう、彼女の手を離したんだ」
『佳澄はっ……!』
「大丈夫。傷心の佳澄ちゃんをオレが優しく抱いて慰めてやったから」
『郁斗っ!!』
 あのキレイな顔が、今は怒りに染まっているのか。それとも、怒るほどに無表情になっているのか。想像しそうになって、頭から振り払った。どうも長い間に身についたからかい癖が油断すると出てきそうになる。そういう場合じゃない、と口調を変えた。
「そろそろ佳澄ちゃんをお前から解放してやれよ。いつまで縛りつけとく気なんだ? いい機会だろ。お前が婚約するなら」
『モトはと言えばお前が佳澄を追い詰めようとするからだろう? 第一、僕が婚約しようと、佳澄が妹であることに変わりはない。保護者のいないところで勝手にするな』
 窓硝子に映る、自分の顔に眉を顰める。滴が伝うのを見ると、泣いているみたいで気持ち悪い。シャッ、とカーテンを引くのと同時に、間接照明が点いた。ソファに座って、背もたれに身体を預ける。いつまでも上滑りする言葉を交わしている気になれなくなって、本題を持ち出すことにした。
「 ――― 保護者づらするのか? 佳澄ちゃんの親を奪ったおまえが」
 小さく息を呑む音が聴こえてきた。それまでの苛立った声が慎重な物言いに変わる。
『母親のことは話しただろう……?』
「ちがう、そっちじゃない」
 即座に否定した、今度の沈黙は少し長かった。やがて、諦めたような溜息が返ってくる。
『そのことは、村田紀子が言っていたよ。佳澄に言う前に、お前に言ってあったのか……。通りで、態度がおかしくなったわけだ……』
 睦月の言葉にオレも納得する。あのとき、あの女は調査したことを睦月にバラし、それを逆に睦月に利用されたってことか。どう考えたって、睦月が言い出した『婚約』は、オレの邪魔をするために持ち出されたものだ。神木家の名前を誤魔化すには、睦月の婚約発表はいいカムフラージュになったし、それを破棄するのは容易い。
 沈黙したままでいると、それを肯定と受け取ったのか、自嘲混じりの声が問いかけてくる。
『…………それで、軽蔑でもしたか?』
「他人を軽蔑できるほどオレは立派な人間じゃない。だけど、睦月。オレはおまえが佳澄ちゃんの保護者ぶるのも、傍にいることももう、許せないんだ。これ以上は佳澄ちゃんが傷つくところを見るのは、嫌なんだよ」
 ――― おまえが、傷つくのも。
 思わず出かかった言葉を飲み込む。
 睦月が佳澄ちゃんを受け入れられない理由がわかった。睦月がそれを言わなければ、何も知らない彼女は睦月の態度に傷つく。その理由を言っても、傷つくだろうし。佳澄ちゃんを傷つける睦月も、また。傷つき合いながら『家族』として傍にいるなんて最悪な堂々巡りだ。それくらいなら、もうこの辺で壊してしまえばいい。
 二人の絆を壊したくないと思っていたはずだったのに。ずるりと背もたれに頭を預けて天井を見上げる。最近は泣き顔しか見ていないな、と苦笑が零れ落ちた。


 目を開いて見えた天井の色に眉を顰める。マンションの部屋の色は淡いクリーム色。それとは違う、灰色の天井はまるで曇り空を想像させて、思わず起き上がった。
 見覚えのない部屋……目の前の壁にかかっているドレスに気づいて、そうだったと思い出した。あのパーティーから逃げ出して郁斗先生に連れられ違うマンションの部屋にきたんだった。先生名義のマンションで最上階をひと部屋にして持っているって教えてもらった。睦月も知らない場所だから安心していいよ、って言われ、とりあえずびしょ濡れだったからバスルームと着替えを借りて一休みすることにした。
(……どれくらい眠ってたのかな。)
 周囲を見回して、バックがサイドテーブルに置いてあるのを見つけた。手に取って、中を探る。二つ折りの携帯電話を開いて電源を入れた。着信、メールアリ。操作して履歴を見るとずらりと睦兄の名前。メールも居場所を問いかけてたり連絡するように、とか心配しているといった内容ばかり。見ていられなくて全部見ないまま、もう一度電源を切った。ため息が零れる。全部夢ならいいのに……。
 ふと、ドア越しに話し声が聞こえてくることに気づいた。
「……郁斗先生?」
 ベッドから降りて柔らかい絨毯に降りる。ドアまで歩み寄り、ゆっくりとノブを押して少し開けると、郁斗先生の声が聞こえてきた。
「……とにかく佳澄ちゃんが落ち着くまで待ってろ」
 とても真剣な口調で、その言葉から相手が誰かわかった。
 更にドアを開くと、リビングのソファに寄り掛かっていた郁斗先生が電話を耳に当てたまま、振り向いた。少し驚いたように目を見張って、だけどすぐに「話す?」と視線で訊いてくる。ノブを掴んでいる手に力をこめて、首を横に振った。今話したら、睦兄に酷い言葉をぶつけてしまいそうで。
 郁斗先生は優しく笑って、ソファから立ち上がりながら口を開いた。
「佳澄ちゃんにはオレがついてるから、もうお前は自分の幸せだけを考えろよ。じゃあな」
 強い口調で言って、電話を切った。そのまま電源を落として、じっと見つめてくる。青い目に映る私の顔は今にも泣きだしそうな表情が浮かんでいることに気づいた。
 傍まできた郁斗先生の手が伸びて頬に優しく触れる。ひやりとした冷たさが心地よかった。
「……よく眠れた?」
 その問いには曖昧に笑って、気にかかったことを口にする。
「睦兄は、なんて?」
 頬に触れていた手を降ろして、郁斗先生は肩を竦めた。そのまま答えずに、キッチンに足を向ける。冷蔵庫を開けながら訊いてきた。
「何か飲む? あー、水しかないや」
 冷蔵庫からペットボトルを二本持って戻ってくる。一本を渡されて、ソファに座るように促がされた。郁斗先生は立ったまま、自分の分のペットボトルの蓋を開け、中身を煽る。私は飲む気になれなくて、テーブルの上に置いた。
「……睦兄は」
「佳澄ちゃんのことはオレに任せるって」
 郁斗先生の言葉はただ、頭の中を通り過ぎていく。もう悲しみ過ぎて、胸の痛みさえ麻痺してしまったかもしれない。何か言葉を返せるだけの力がなくて、小さく頷くだけで精一杯だった。それでもこみあげてくる熱いものをどうしようもなく、乾ききったと思っていた涙が頬を伝っていくのを感じた。
 そっと郁斗先生が隣に座る。優しい仕草で抱き寄せられた。
「一晩中泣いたら、オレがたっぷり甘やかしてあげるからそれに浸って、睦月への想いはゆっくり過去にしていけばいいよ」
「……忘れろって言わないんですね」
「ひとを ―― 誰かを忘れるなんてことはできないんじゃないかな。その想いを忘れることも。だからゆっくり過去にしていけばいいさ」
 触れている箇所から、郁斗先生の声がゆっくりと身体中に沁み込んでくるみたいで、目を閉じる。髪を撫でられる感触が気持ちいい。このまま甘えられたら、いつか睦兄への想いも本当に過去になって ―― 。
「オレは毎日花を買ってきてあげるよ。結婚して、じいさんばあさんになっても、死ぬまで毎日。記念日には旅行に連れて行くし。プレゼントも忘れない。欲しいものは、なんだってあげる。してほしいことも全部やるよ」
 甘く囁かれる言葉を想像する。郁斗先生はそうするだけの実力があるし、約束は破ることがないから毎日花を持ち帰ってくるかもしれない。家中が花で溢れて、旅行にも一緒に行って。何も言わなくても気持ちをわかってくれるところがあるから、二人の間は穏やかに時間が流れて、優しく包まれた日々を過ごせる。そうしたら、もう睦兄をこれ以上傷つけることもなく、私も傷つかないで、この想いは過去になって、いつかは。本当に兄妹みたいに。
 だけど、そこまで思って、そんな自分たちは想像できなかった。違う。想像するのも嫌だと感じた。私は ――― 。
「郁斗先生。私ね、お腹空いちゃった」
 不意に郁斗先生から身体を離して、顔を見上げる。驚いたように見下ろしてくる青い目ににっこりと笑いかけた。
「結局パーティでなにも食べられなかったし。さっきまで眠ってたから、すっかりお腹は空っぽです」
「あっ、ああ。オレの口説き文句が食欲に負けちゃうなんて……」
 情けなさそうに溜息をついて、髪をかきあげながらそう呟いた。それからソファから立ち上がって、思い出したように言う。
「冷蔵庫空っぽだった。何か買ってくるよ」
「野菜中心にして下さいね」
「はいはい。して欲しいことは何でもしますよー」
 苦笑して、財布を手にすると、玄関に向かって行った。私もその後をついていく。
「佳澄ちゃん?」
 怪訝そうに振り返る郁斗先生に、笑って言う。
「行ってらっしゃい」
 私の言葉に、にやりと口端をあげる。靴を履いて、傍に立つ私に身を屈めてきた。頬に柔らかな感触が当たって、呆然となった。
「行ってくるよ、ハニー」
 冗談交じりにそう言って、だけどどこか嬉しそうな雰囲気を纏いながら郁斗先生は玄関を出て行った。
 キスをされた頬に手をあてて、まったく本当に調子に乗るんだから、と呆れてしまう。だけど、いつだって郁斗先生の優しさに癒されているのも事実で。だからこそこれ以上は甘えていたくなかった。
 寝室に戻って、ドレスを手に取る。皺にならないよう気をつけて畳んで袋に入れた。それからバックを手に取って、玄関に向かおうとし ―― 踵を返して、リビングのテーブルにメモを残しておくことにした。お礼と、心配しないでくださいと一言書いて、それから再び、玄関に向かって部屋を出ることにした。
 玄関のドアを開けて、まだ止んでいない雨に気分が重くなる。そういえば、傘もなかった。どこかコンビニで買おう ―― そう心に決め、歩き出そうとして、ギクリと止まる。ほんの少し離れた壁に寄りかかって、郁斗先生が立っていた。
「っ、」
「ほんと、佳澄ちゃんらしいというべきか。普段なら可愛いって思うところだろうけど……今はちょっとムカつくかなー」
 口調は軽いのに、スッと細まる目が怖いくらい真剣すぎて、思わず後退さる。雨の匂いが強まっていく。震えそうになる身体と声を誤魔化すために叫んだ。
「これ以上、郁斗先生に迷惑かけたくないもの!」
「へぇ」
 ゆらりと身体を起こして、正面に向き合った郁斗先生は口端を歪めて、薄っすらと笑みを浮かべる。さっきまでの穏やかで優しい雰囲気とは違って、最初に会った頃の空気を纏っていた。威圧されてしまう。それに負けないように足に力を入れて、まっすぐ見つめ返す。
「私……。郁斗先生の気持ちを受け入れられない。やっぱり、睦兄が好きだし。過去になんてできないっ! それなのに、郁斗先生に甘えて、傍にいるなんて……」
「睦月にならそれができるのに? 睦月なら甘えられて、しがみついて、我侭言って、生温い関係のままでいいって言ってられるのに?」
 吐き捨てられたように言われる言葉に、一瞬息が詰まった。雨音が激しくなって、聴こえてくる。頭の中をその音が満たしてしまうかのように、何も考えられなくなっていく。
「っ、なんで……」
 歩幅を一気に詰めてきた郁斗先生に、強く手首を掴まれた。そのまま引き寄せられる。強引な動きとは違って、抱き締めてくる力は優しかった。ふわりと、まるで大切で壊れやすい宝物を包み込むかのように。
「佳澄ちゃんがそんな関係を望んでるっていうなら、オレが代わりになってもいい。だから、もう睦月の手は離すんだ」
 耳に囁かれる声は優しいのに、言葉は突き放すかのように冷たい。身体を捩って離れようとしても腕ははずされることがなくて、逆に押し付けるように郁斗先生の胸に抱き込まれる。
「郁斗先生……っ」
「あいつからは、離せない。だから佳澄ちゃんから手を離すんだよ。そうじゃないと、もっと傷つくことになるから」
 まるで暗示をかけようとするみたいに、何度も繰り返す。手を ―― 睦兄の手を。いつも繋いできた、あの手を。まだ繋いでいてもいいといってくれていた手を。私から? そんなこと。 ――― そんなことっ!
 気がついたときには、郁斗先生の胸を押し返していた。
「いやっ! どうしてっ、なんで、そんなこと言うのっ? 睦兄が婚約したから? だから私は離れなきゃいけないの? どうしてっ、だって睦兄はずっと、傍にいてくれるって約束したもの! それが、……たとえ、それが罪悪感からくるものでも私は!」
「佳澄ちゃん?」
 怪訝そうな顔つきで呼ばれて、ハッと口を噤んだ。
( ――― いま……、私なにをっ)
 恐る恐る郁斗先生の顔を見上げる。何かを考え込むように、じっと青い目が見つめていた。目が合った途端、その表情が愕然としたものに変わる。
「まさか……君は知って、」
 その言葉が何を意味しているのかすぐに悟って、私は呆然となった。
(郁斗先生は知ってる……。)
 どうして。
 ――― どうしてっ。
 誰にも言ってないのに。睦兄が ―― まさか。
 軽々しく喋るような睦兄じゃない。いくら親友の郁斗先生といっても。だけど、どう考えても郁斗先生の言葉は知ってることを含んでいる。
 咄嗟に逃げようとして、だけど通り過ぎようとしたところで我に返った郁斗先生に腕を掴まれた。
「行かせないっ。睦月は、あいつは君の父親を ―― 」
「それでも私は睦兄を愛してるのっ!」
 叫びながら、酷く自分が傷ついていることだけがわかった。どうしてそっとしておいてくれないんだろう。私も睦兄もこれ以上ないほどに傷ついているのに。それでも私は一緒にいたいと、あの手を握っていたいと思った。それは、間違っているの?
「……佳澄ちゃん。君は知ってて、それでもあいつを愛してるって?」
 それまでの強い口調とは違って、穏やかな声で郁斗先生が問いかけてくる。私の腕を掴んでいる手が微かに震えていることに気づいた。
( ―― それでも。)
 睦兄への想いを確認するように自分の心に訊いてみる。たとえなにがあっても、私の気持ちは変わらない。ずっと前から何度も何度も、繰り返し自問していつも辿り着くのは同じ答え。
「私は、睦兄を愛してる ――― 」
 睦兄を想うだけで溢れてくる気持ちがある。幸せで、温かくて、優しくて。それは心のどこかぽっかりと空いた部分を満たして、溢れさせる。睦兄を好きだと自覚したときから、ずっと。
「……佳澄ちゃんは馬鹿だね」
 諦め混じりの溜息とともに降ってきた言葉に顔をあげる。青い目が苦しげな光を宿らせて、見つめてきていた。苦い笑みを浮かべて、まるで出来の悪い子どもをしょうがないな、と温かい目で見守るような優しい想いが伝わってくる。ほんの少し、憐れみも混じっていて。
「馬鹿だよ」
 繰り返される言葉は、胸の中にじわりと沁み込んでくる。
 わかってる。だけど、どんなに自分が馬鹿でどうしようもないってわかっていても、私は睦兄が好き。愛してる ―――。
 ずっと抱えてきたこの気持ちは何があっても、変わらないと強く思った。

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