雨のち晴れ。ときどき、嘘つき。
雨のち晴れ。ときどき、嘘つき。(2)
結局、夜も遅いから外出は禁止と釘を刺されて、郁斗先生と部屋に戻り、宅配を頼んで夜ご飯を食べることになった。郁斗先生は自分の寝室に入り、私は最初に使わせてもらった客室でもう一度お風呂に入って、身体を温めてからベッドにごろりと横になる。
電源の点いていない携帯電話を眺めながら、どうしようと溜息が零れた。明日は日曜日、明後日は祝日で学校が休みだけど、このまま家に帰らずにいられるわけない。家では睦兄が待っているはず。笑って、婚約おめでとうなんて、言えない。こんなに睦兄を好きだと ―― 愛してると、自覚したら尚更。そうはいっても、郁斗先生の傍にいることもできないし……。
ふと、脳裏に親友の顔が浮かんだ。早速、電源を点けて電話をかける。
「上総? 遅くにゴメンね。あのね、明日泊まりにいってもいい?」
すぐに応答してくれた上総にそう訊くと、二つ返事で頷いてくれた。とりあえず誰かに話を聞いてほしいという気持ちがあった。ほっと胸を撫で下ろして、再び携帯の電源を切る。
真っ暗になったディスプレイを眺めていると、睦兄の声が聴きたいという気持ちがわきあがってきた。声が、聴きたい。だけど今、声を聞いたら取り返しがつかないことを言ってしまいそうで、怖かった。なによりも、睦兄を傷つけることが怖い。
声が聴きたいという気持ちを、逢いたいという想いを ―― 、抑えつけるように、ぎゅっと携帯電話を握り締めた。
朝起きたときには、郁斗先生の姿はなくて、テーブルにメモと一台のクリーム色の携帯電話が置いてあった。疑問に思いながらメモを手に取ると、そこには流麗な文字で『この部屋を出て行くなら、この携帯を持って電源を切らずにいること!』そう書かれてあった。
「相変わらず……」
先回りの上手な郁斗先生に複雑な気持ちになって、溜息が零れ落ちた。
これ以上、心配をかけるわけにもいかないから、指示された通りに小さな携帯電話をポケットに入れて、昨夜出そこなった部屋を後にした。
◆
――― 佳澄はっ?!
玄関が開くと同時に鬼気迫る表情でそう問いかけられて、わかってはいたけれど思わず足を一歩引いてしまった。血の気を失った顔色は最悪で、目は充血して眠っていないのが一目でわかる。疲労が濃くでている姿に、ほんの少し同情した。
「はいはい。いいから、どいてどいて」
肩を竦めて受け流し、押しのけるように玄関に入ってから勝手知ったる我が家とばかりに部屋の中へ進んでいく。リビングはすでに朝日が昇って数時間も経っているにも関わらず、カーテンが引きっ放しだった。わずかな明りがカーテン越しにもれてはいるけれど、真っ暗で重い空気を感じるのは此処に彼女がいないからだろう。あまりにも温度差がありすぎて、溜息をついた。
とりあえず、カーテンを開く。
入り込んでくる日差しが眩しくて、目を細める。
(今頃は、佳澄ちゃんも起きてるかな……。)
テーブルに残してきたメモと携帯電話を思い出す。番号を一つ押すだけで、持っている携帯に繋がるようにしてある。いわば、ホットライン。電源を切らないように伝言を残してきたし、彼女の性格を考えてもこれ以上は心配かけないように指示通りにするはず。それに念のため、彼女には気づかれないよう遠巻きに護衛はつけてあった。神木家専任の者だけに、見失うこともないだろう。
「郁斗……。佳澄は無事なのか?」
背中にかかった声に振り向く。まっすぐ見てくる目は、不安げに揺らめいていた。心の底から心配しているその表情に、佳澄ちゃんの面影がちらつく。なにがあっても睦月を愛してると言ったあの決意に、完敗だと打ちのめされた。二人の結びつきはわかっていたはずなのに、此処まで見せ付けられると、腹が立つどころか、呆れるしかない。それに、もう睦月を想って苦しむ佳澄ちゃんの姿にはうんざりだ。笑顔を見ていたいはずなのに、泣き顔ばかりで ―― 結局、認めるのは悔しいけれど、彼女を笑顔に出来るのは睦月だけだと、思い知らされた。
溜息を零して、持ってきていた封筒をテーブルの上に放り投げる。ぱさり、と置かれたそれを睦月は怪訝な顔で見下ろした。
「佳澄ちゃんは無事だし。オレは抱いてもいない」
おもむろにそう告げると、睦月の視線が封筒からオレへと注がれた。真実を探そうとするかのようなその目を逸らさずに見つめ返していると、まるで力が抜けたように睦月は、どさりと向かい側のソファに腰を下ろして、天井を仰いだ。額に手を置いて、ほっと安心したように息をつく。それがどちらの理由からか、知りたくはないけれど。
「…………悪かった」
呻くようにそう短く呟かれて、意外な言葉に思わず目を見張る。睦月が顔をまっすぐ向け、視線を向けてきたときには動揺は隠して、肩を竦めた。
「何に対して謝ってるのかわからない」
佳澄ちゃんを保護者に断りなく連れて行ったのも、抱いた、と嘘をついたのも勝手にしたことで睦月が謝ることじゃない。
そう言外に告げると、睦月は苦笑した。
「そうだった。だけど僕は郁斗で良かったと思うよ」
「その言葉は疑って嫉妬剥き出しにして、怒鳴りつけられる前に聞きたかったけどねー」
第一何をもって『郁斗で良かった』なんて言葉が出てくるのかわからない。佳澄ちゃんの気持ちを知っている以上は、嫌味にしか聞こえなかった。勿論、睦月が意図していないことはわかっているけれど。
困惑したような笑みを浮かべた後で、睦月はそれ、と封筒に視線を戻した。
「話を聞きにきたんだろう?」
その言葉に頷いて、躊躇うことなく本題に入ることにした。オレが訪れた時点で睦月は覚悟を決めたのか、膝の上で両手を組んで顎を乗せるとそっと目を閉じた。まるで断罪を待つ罪人のように、静かな空気を纏って、話の先を促がす。
「この中の書類には、たいしたことは書いていない。ただ、睦月の父親と佳澄ちゃんの母親が不倫していたってこと。そして、彼女の実の父親が事故に遭ったとき、娘である佳澄ちゃんと12歳くらいの少年がいたってことだ。興味深かったのは、証人のひとりによると、その少年が小さな女の子を突き飛ばしたところに車が走ってきて、ぶつかりかけたところに父親が庇って ―― ってなってる。その後、事故の騒ぎの最中に少年は現場から逃亡した」
一息に喋って、睦月の反応を待つ。
書かれてあったのは、本当にそれだけ。後は推測するしかない。自分の父親の不倫相手に会いに行った睦月の行動。その感情が佳澄ちゃんに向けられても仕方ないのかもしれない。
それを裏付けるように、睦月が言う。
「そうだよ。佳澄の母親と僕の父は不倫していたんだ。僕は何度かその現場を見かけたし、佳澄の母親のあとをつけて、彼女の家までも行ったことだってある。だけど、僕の母は信じていた。父を。必ず戻ってくるからって、そして病気になった。母は病気にかかって、それでも父を信じていた。父の帰りを待っていた。だけど父は母が死んだその時でさえ姿を見せなくて、僕は父を探しに行った。連れて行ってくれた公園、お店、家、ぜんぶ。その途中、ひとりで遊んでいた佳澄を、本当に偶然見つけた……見つけてしまったんだ」
あの頃のことを思うと、今もまだ絶望に陥る。
ひとりで広げた傘を持って道路端に佇んでいた佳澄の小さな姿。僕は彼女があの、父を奪った女の娘と知っていた。
(僕から ―― 母から父を奪ったあの女のっ!)
そう思ったときには怒りも悲しみにごちゃ混ぜになった感情が膨らんで、爆発して、気がついたら、佳澄を。
「……佳澄を突き飛ばしてた」
苦しげに吐き出された言葉は、後悔に苛まれていて、何も言うことができなかった。
「あとはわからない。気がついたときには、佳澄の父親が血だらけで ―― 道路にっ。彼は僕を見て、逃げろって言ったんだ」
「……それって」
思いがけない言葉に、息を呑む。脳裏に浮かんだことを肯定するように、睦月は悲しみの滲んだ瞳を向けてきた。恐らく、と続ける。
「彼も知っていたんだ。妻が浮気していること。そして、相手も。息子が僕であることも。理由なんてもうどうでもいいんだ。結局、僕はそうやって佳澄の実の父親まで奪ったんだ」
それからはまるで、テレビの中のドラマを見ているような感じだったよ。
お互いの相手を失って、機会とばかりに二人は結婚した。吐き気がした、と苦しげに言い捨てる。だけど、とそれまで深い暗闇に沈んでいた目に微かな光が宿る。
「佳澄に再会して、彼女だけが僕の希望になった。実の父親が命がけで守った小さな命。代わりに僕が守らなきゃと思った。佳澄の母親や僕の父親から。彼女から奪った分の愛情の全てを注いできたんだ」
ようやく納得できた。
佳澄ちゃんの母親を殺した、と言ったときには欠片もなかった睦月が抱えてきた、罪悪感。深い絆で結ばれながらも、お互いの想いを口に出せない、理由。
知ることがなかった睦月の過去に、かける言葉を見失う。その罪に苛まれながら睦月は、生きてきたんだ。そう決意したときから、なにがあっても佳澄ちゃんを守ってきたその強さに勝てるわけない。責める権利さえないと思った。
「 ―― 佳澄の幸せを見届けたら、手を離すつもりだった。離れて、ただ幸せを願って」
それなのにいつの間にか、手を離すことを恐れるようになっていた ―― ……。
苦笑して吐き出された言葉は、自嘲が含まれていて、睦月は悲しげに瞳を揺らした。物憂げに目を閉じて、そんな自分を愚かだと嗤う姿に、他人を真剣に慰めたことなどなく、かけようとする言葉の全てが気持ちのこもっていない軽いものに聞こえそうで、何も言えなくなる。代わりに、ふと思いついてソファから立ち上がった。
「 ―― 郁斗?」
呼びかける声を無視して、キャビネットのところまで歩み寄り、勝手に開けてアルコール度数の高いものを片っ端から手にしてテーブルに置いた。ついでにグラスと氷も取りに行く。
準備を終わらせて、再びソファに座った。
怪訝そうに眉を顰める睦月に、にやりと笑みを見せる。
「今夜は、飲もうぜ」
「まだ、昼だぞ」
こういうときでさえ真面目な睦月に溜息をつく。無理矢理グラスを持たせて、最も高いアルコールを注いだ。琥珀色のそれをギリギリまで注いで、一気にいけよ、と告げる。
「今お前に必要なのは、無様な姿なんだよ」
わけがわからないと目を見張る睦月に、自分の分もグラスに注ぎながら、唇を湿らせる程度に口をつける。
「理性で考えるんじゃなくて、本能でさ。佳澄ちゃんに真実全て話して、彼女に断罪してもらえよ。その後で、愛してる。ずっと、愛してたっておまえの本音もちゃんと言えばいい。そうしないと、こういうことは、いつまでたっても抱え続けることになって、歪みを生むんだ。それは、おまえの自己満足だろ。だから、きちんと終わらせる必要はあるんじゃないか。少なくとも、佳澄ちゃんにはそうするだけの権利があるだろ」
オレの言葉に、睦月は押し黙り、目の前のテーブルに置かれたグラスをじっと見つめる。視線はグラスに向いていたけれど、どこか遠くを見ているような目で、考え込んでいるのがわかった。考えているというより、心が揺らいでいるんだろう。このまま隠していけるわけがないのは、わかっているはずなのに。
「 ―― そうだな」
やがて、小さくそう呟くと、グイッと一気にグラスを煽った。一度に半分ぐらい喉へと流し込み、わずかに唇を離して再びグラスに口をつけ、全部を飲み干した。
「いい飲みっぷりだこと」
「おまえに、説教されるとは思わなかったよ」
「説教じゃなくて、こういうのは親友からの適切なアドバイスっていうの」
「……まだ、僕たちは親友なのか?」
グラスに注いでいる手を止めて、驚いたように言われた。その言葉に同じように驚いて、苦笑する。
「恋敵の領域と親友の領域は違うだろ、睦月くん」
オレは、例え前科持ちの犯罪者でもお前がお前なら、何があっても親友さ。
そんなクサイ台詞を口にする気も聞かせるつもりもないけれど、その意図は伝わったように、睦月はほっとした笑みを浮かべ、再び互いのグラスになみなみと注いで、いつもより早いペースで飲み干していく。
「そーいや、お前どうするんだよ。村田紀子との婚約。解消するんだろーな」
「あたりまえだ。電話でも言ったろう。おまえがあんな手を使わなかったら、僕も持ち出さなかったんだから。向こうも、人の過去を掘り出した罪悪感があるだろうし。いざとなったら ―― 」
会社はお前に任せて僕は辞めるよ。
はっきりと口にする言葉を聞いて、あのときとっくにそれだけの覚悟をしていたんだとわかった。
肩を竦めて、その言葉を鼻であしらう。
「冗談、そう容易くオレから逃げられると思ってんの?」
ついでに持ってきていたもうひとつの封筒をポケットから取り出して、テーブルに投げ置いた。それを訝るように見て、睦月はオレへと視線を戻す。何だ、と促がされてにやりと笑う。
「本当はさー。パーティーで使おうと思ってたんだ。村田社長ンとこの会社の弱みってとこ。これをネタにして睦月のプライベートには手を出さないよう根回しして、んで、あの場でお前と佳澄ちゃんの婚約発表なんてものを計画してたんだけど、無駄になったからやるよ」
「……相変わらず、お前は」
呆れたように言って、髪をかきあげる。それを見ながら、こっちが溜息をつきたいくらいだと思った。台無しにされた計画にまだ多少の未練が残る。その最たる要因が自分にあったとしても。
「オレの計画を無駄にできるなんて、おまえと佳澄ちゃんくらいだよ」
「褒め言葉として受け取っておく。第一、お前に感情があった証拠じゃないか」
からかい混じりの言葉に、苦笑する。
確かに、計画がうまくいかないのは、つまりはそういうことだ。理性で考えるより、佳澄ちゃんへの愛情で動いてしまったんだから。あそこまで翻弄されるとは思いもしていなかったけれど。
「それって、喜ぶべきことかねぇ」
素直になれない気持ちに思わず呟いてみる。急に黙り込んだ睦月に視線を向ける。話し出すまで待っていると、ふと慎重な口調で訊いてきた。
「…………戻るのか、あそこに」
見つめてくる目は言葉とは裏腹に、何か確信を得ているように強い光が浮かんでいた。ふいっと視線を逸らして逆に軽い口調で返す。
「オレはね、教師があってるの。もう一生の職業と決めちゃってるくらい」
「よく言うよ。佳澄があの高校を卒業したら、辞めるつもりだったろう」
そんな態度を見せたことも、その決意を言ったこともなかったのに、見透かされてしまっていたことに、嫌な気持ちになるよりも、さすが睦月だと褒めたくなった。
「いつまでも、ふらふらしてるわけにはいかないからな。三十になったら本腰入れようと思ってる」
「 ―― 本気か?」
「お前と佳澄ちゃんに会って、一緒に過ごして、臆病な郁斗くんは独りでも戦う決意をしたのです」
冗談交じりの言葉。だけど、本音は込めている。それに容易く気づく睦月にぽんっと頭を叩かれた。
「お前は、独りじゃない。僕も佳澄もいつだってお前を助けるよ」
「ああ……」
わかってる、そう返事をしたかったけれど喉元にこみ上げてくる熱いものを感じて、誤魔化すためにグラスに口をつけ、アルコールと一緒に流し込んだ。
「まっ、ヒトの事より、睦月は自分のことを解決なさい」
「わかってるよ、郁斗先生」
頷いた睦月のからかい混じりの言葉の裏に真剣な想いが含まれていることはわかった。
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