雨のち晴れ。ときどき、嘘つき。

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  雨のち晴れ。ときどき、嘘つき。(3)  


 はい、紅茶。熱いから、気をつけてね。
 そう言って手渡されたマグカップを両手で持って、有難うと返事をした。一口飲んで、舌先に残る甘みを感じながらほっと息をつく。昨日の出来事からずっと抱えていた緊張感が解けて、ようやく一息つけた感じがする。
 上総の家は何度か来たことがあるし、上総の母親とも仲良くしてもらっている。料理や裁縫が上手で、いつも温かい笑顔を浮かべて「いらっしゃい」と言ってくれる姿に、羨ましい気持ちになった。母親というのはこういう感じなんだろうな、と思った。私が覚えているのは、ぶたれたときの鋭い熱と痛みと ―― 叩いているときの、般若のような顔。浴びせられる冷たい言葉。それだけで、だけど、それを凌駕するほどの睦兄が与えてくれた愛情で、寂しさを感じることなんてなかった。

「 ―― 私だったら」
 ベッドの端に座っている上総が、ふとそう呟いたのが聞こえて、勉強机と対になっている椅子に座らせてもらっている私はくるりと回転させて上総に向き合う。彼女は色違いのマグカップを両手に持ちながらその中身に視線を落としていた。
「少なくとも、事故とはいえ自分の親を死に追いやったひとを好きになんてなれないけどなぁ」
 あまりに正直な感想に、怒るよりも笑ってしまいそうになる。言葉にされると、自分が何も考えていない人間に聞こえる。勿論、上総にそんな意図があるとは思えないけれど。
「私もね、最初に知ったとき ―― っていうか。思い出したときは、睦兄を嫌いになったよ。睦兄が私を突き飛ばしたからお父さんは事故に遭ったんだって。暫く睦兄の顔なんて見たくなくておもいっきり避けてた」
 それは中学生に上がった頃で、睦兄は思春期の女の子だからと理解ある顔をしていた。だけど多分、心の中でこれ以上ないほどの罪悪感を抱えて傷ついていたはず。思わず弱音をあの墓の前で吐き出さずにはいられなかったくらいに。私の父親の墓の前で睦兄は泣きながら、謝罪していた。その裏で隠れて私が聞いていたとも知らずに。あんなに悲痛な叫びを聞いたことがない。睦兄が自殺するんじゃないかと不安になるくらいに絶望していた姿を思い出して、胸が痛んだ。
「だけどね。結婚前に私の母親と睦兄のお父さんが浮気してたと理解するようになって、睦兄が傷ついていた理由がわかったの。そりゃぁ、突き飛ばしたくなるよ。自分のお父さんを取った女の娘が何も知らずに無邪気に話しかけてきたら」
 苦しい胸の内をなるべく重くならないよう、明るい口調であっけらかんと話してみる。けれどやっぱり想像すると、瞳がぼやけて涙が浮かんでくるのを感じた。
「佳澄……」
「睦兄の気持ちがわかって、傍にいてくれる理由を理解した途端、気がついたの。いつのまにか、私は睦兄を好きになってたって。だから罪悪感でもなんでもいい。睦兄が傍にいてくれるなら。離れないでいてくれるなら、かまわないって」
 『家族』という言葉で縛って、睦兄を引き止められるならそれでいいって思ってた。だけどそれだけで抑え切れないほどに睦兄を想う気持ちが膨れ上がってた。もうどうすればいいのかわからないほど ―― 。
 ぽちゃん、と水滴の撥ねる音が聞こえて、自分の涙が紅茶の中に落ちていっていることに気づいた。堪えようとして、昨夜から緩みきった涙腺はますます壊れていく。
「ごめ……っ、ちょっと、止まらなっ、……っ」
 そっと、カップが取られて、気がついたときには上総にふわりと抱き締められていた。
「泣きたいときは泣いちゃえ。苦しいときは吐き出せばいいよ。溜め込んだって悪循環しちゃうだけなんだから」
 上総の言葉がゆっくりと胸に沁みてくる。どうしてだろう。上総も郁斗先生もサリナさんも皆がとても優しい。包み込んでくれる温もりは後退さろうとする気持ちをいつも引き止めてくれる。だからこそ、甘えちゃダメだと言い聞かせる。でも今は ―― 堪えられない涙を、胸の奥に燻っている想いのすべてを吐き出してしまいたかった。

 ――― 睦兄なんて嫌いっ。大ッ嫌い!
「お父さん……私って、何て馬鹿なの……っ!」
 数年経過して思い出した事実に愕然となった。きっかけは連日続いた激しい雨。うなされるように見た夢は、今よりも幼い少年の姿を思い出させて、それが睦兄と重なることは目覚めてすぐにわかった。はっきり覚えてるわけじゃない。記憶の奥底にあったのは、きれいな顔の少年が雨に濡れたまま立ち尽くしていた姿。それから突き飛ばされた感触と、キィッと甲高いブレーキ音。佳澄っ、と呼ぶ切羽詰った声。あとは、ただ真っ暗で。気がついたときには、目の前で血だらけのお父さんが呆然としている少年に向かって何かを言っていて、だけど私は何があったのかわからずただ、痛みと衝撃に混乱して泣きじゃくっていた。
「私、何も知らないまま、睦兄をお兄ちゃんとして慕ってたんだよ! お父さんが事故に遭ったのは睦兄のせいなのにっ!」
 ずっと、騙されていたんだ。
 それが悔しくて悲しくて、ごちゃまぜになった怒りを墓石にぶつける。胸の内を渦巻く真っ黒い感情に呑み込まれるのが怖くて、手の平を握り締めた。ぐっと握りこんだ手が汗ばんでいるのがわかる。ぽつり、と手に滴が落ちていくのを感じながら、だけど、と抑えきれずに言葉が零れる。
「だけどっ、……だけど、ずっと守ってくれてきたのも睦兄だったの……」
 今よりもまだ、小さい手を握って、何にも心配いらない、と。大丈夫と不安にならないよう守ってくれてきた。母親を亡くしたときも。好奇心に駆られる他人や引き裂こうとする大人たちから、まだ睦兄も未成年に関わらず、ずっと傍にいてくれた。傷つかないように守ってくれた。自分がどれだけ言葉や視線の針に刺されようとも、大事に大事にその腕の中に包んでくれていた。温かいぬくもりに甘えていたのは私で ―― 。
 真実を知った今も、父親のお墓の前で言葉にして睦兄を憎もうとしたところで、それは所詮ムダだった。溢れてくるのはなお、睦兄への想い。たったひとり。睦兄は私に残された、家族。嫌いと思い込もうとするほど、できない自分に愕然となる。だからといって、素直にもなれなくて最近は特に睦兄を避けるようになった。会わないように、朝は早く登校するようになったし、夜は睦兄が帰ってくる前には部屋に引きこもるようにしている。会いたくなかった。声さえ聞きたくなくて、顔も見たくなかった。
 (―― きっと、私は睦兄を傷つける。)
それがわかっていたからかもしれない。今向き合ったら、感情のまま、睦兄に暴言をぶつけてしまいそうで。
「お父さん……どうすればいい? 私、睦兄を憎むべきなの……?」
 答えが返ってくるような気がして、墓石に刻まれている[春日]の文字をじっと見つめる。睦兄の本来の苗字は[但馬]だった。だけど、母親が事件を起こしてそれから遠ざかるために睦兄が選んだのは、私の本当の父親の苗字。後継人には、親戚が弁護士をしているから迷惑をかけないという約束をもとに書類を調えてもらったと言っていた。生活費は、当面は親が残してくれた財産があるから何も心配しなくていいから二人で暮らそう。佳澄は、必ず僕が守るから ―― 。その言葉通り、睦兄はけして私が不安や寂しさを感じることがないよう、自分の時間を持つことなく私に与えてくれた。
 そこに、罪悪感があったのだとしても ―― 。それが全てだとは思いたくなかった。
 不意にするりと風が通り抜けて、被っていた帽子が飛ばされた。ハッと我に返って、慌てて追いかけていく。それほど飛ばされることもなく、帽子は父親の墓石の裏手にある大きな樹の根元に落ちた。ほっと胸を撫で下ろして、帽子を拾う。顔をあげたところで、見慣れた姿を遠目に見つけた。綺麗な花と桶をそれぞれ持って歩いてくるのは ―― 。
「睦っ、」
 睦兄、と思わず口にしそうになって、慌てて飲み込む。樹の後ろに回って、墓石の前に立つだろう睦兄から見えることがないように隠れてしゃがみこんだ。墓石と樹が邪魔になって、私に気づくことはないはず ―― 。
(…………だけど、なにしにきたの?)
 命日でもなんでもない今日この時間、睦兄がお墓を訪れるのは違和感があった。
 胸の奥で感情がせめぎ合う。この場で父親のことを追及したいという気持ちと、そんなことをしたら、たったひとりの『家族』を失うかもしれないという恐怖。そして ―― 感じ始めている、睦兄への恋心。それはまだ、生まれたばかりの小さなものではあるけれど。
 心の中の葛藤に、動けないでいた。
 お墓に水をかけて、花を生ける音があったあとに、お線香の匂いが風に流されてくる。
「 ――― この間の、命日以来ですね」
 長い沈黙のあと、睦兄の声が聞こえてきた。
「最近、佳澄の様子がおかしくて」
 その言葉にぎくりと身体が強張る。ぎゅっと自分の身体を抱きしめた。
「雨が続いていることもあるんでしょうけど、やっぱり母親も父親もいないのは、寂しいのかもしれません。僕は ―― 佳澄のことはただひとりの『家族』だと思っていますけど、佳澄にとって僕は……」  絶望に沈んだ声。その言葉ひとつひとつが胸に鋭く突き刺さっていく。
「血が繋がってない……。せめて、あなただけでも生きていたら、佳澄はもっと幸せに、普通に愛されて暮らせたのかもしれないのに ―― 僕がそれを、その機会を奪ってしまって」
 ザッ、と。砂利の音がした。
 疑問を覚えて、ほんの少し樹から顔を出してお墓を覗き見る。飛び込んできた光景に、息を呑んだ。睦兄がお墓の前で、頭を地面につけていた。土下座しているその姿に、心が凍りつく。血の気が一気に引いた。
「……僕の父親があなたの妻と浮気を重ねていたからといって、佳澄に、あなたに、罪はなかったのに。僕は、感情のまま……佳澄を突き飛ばし、あなたをっ」
 初めて知った真実に強い衝撃を受ける。
 ( ―――っ、そんな?!)
 思わず飛び出しかけた足をぐっと力を込めて押し留める。
 だけど衝撃を受けながらも、あの母親ならあり得たかもしれないという気持ちも浮かんできた。事故で夫を亡くしたにしては早すぎる再婚だった。だけど、そんな真実があったなんて。
 気持ち悪さを感じながらも、続く睦兄の謝罪の言葉に我に返る。
「本当にっ、本当に申し訳ないとっ! こんなふうに謝っても、どんな償いをしても許してもらえないのはわかってますっ! だけど、だけど! 佳澄だけはっ、佳澄だけは幸せにしたいんです。彼女が幸せになるためなら僕はどんなことでもするつもりです! それが償いとは言いません。僕の義務です。佳澄が幸せになったら、僕は手を離して、目のつかないところにいきます。約束します。だからもう少しだけ佳澄と一緒にいることを、傍にいることを許して下さい」
 こんなに、悲痛な声を聞いたことない。
 溢れてくる涙が頬を流れていくのを感じながら、泣き声がもれないように口を手のひらで覆った。その後も睦兄の絶望に満ちた声での謝罪は続いていたけれど、耳に入ってはこなかった。ただ胸が苦しくて、押し出されるように零れる涙と、嗚咽を堪えることに必死で ―― 。
 ぽつり、と不意に水滴が頭にあたって、頬を伝わっていく。自分の涙とは違う、冷たい感触にハッと空を見上げる。分厚い灰色の雲を見つけたとき、一気に雨が降り出してきた。再びそうっとお墓を見る。いつのまにか立ち上がってはいたものの、睦兄はいまだその前で立ち尽くし、虚ろな瞳をお墓に向けていた。まるで初めて会ったときと同じ。綺麗な睦兄の顔が雨水に濡れていく。
「 ――― ……っ、」
 押し殺した嗚咽を耳にして、睦兄が泣いていることに気づいた。
 よく見れば、肩が小さく震えてる。
 ひとり、立ち尽くして絶望に沈んでいる睦兄の姿を突きつけられて、今すぐ駆け寄りたい衝動が全身を走り抜けた。だけど、ぐっと我慢する。
 私が真実を知っていると知ったら、睦兄は ―― 。もう。傍にいてくれなくなる。
 今の睦兄の言葉や姿から、そんな予感がした。目の付かないところにいく、睦兄のその言葉はとても悲しいものに聞こえた。まるで、死さえ予感させるような。
 そんな自分の考えに慌てて首を振る。
 (それは絶対にいやっ!)
 睦兄がいなくなる。
 それは想像することさえ、嫌だった。
 傍にいてくれるなら。ずっと、一緒にいてくれるなら。何も知らないふりをして、『家族』でいよう。きっと、できる。睦兄だけが悪いんじゃないってわかったし。誰よりも、ずっと苦しんでいたのは睦兄で、私には責める権利なんてない。なによりも、睦兄を失うなんて、今の私には耐えられない。

「だから、私が手を離せるようになる、その瞬間まで『家族』でいようと決めたの。それが睦兄を守ることにも繋がるような気がして……」
「佳澄……」
 ベッドに並んで寝転びながら、全部話し終える。胸の重みがなくなって、すっきりとしたような気がした。今まで誰にも話せなかった、自分の気持ち。真っ暗な部屋の中、隣に顔を向けると、上総がじっと見つめてきているのがわかった。にっこりと笑顔を返して、大丈夫と口にする。
「けど、手が離せるようになるどころか、こんなに好きになるなんて思わなかったの……。本当に、思わなかったんだよ」
「誰かを好きになるのって、思い通りにはいかないもんね」
 しみじみと呟かれた言葉に、何かが含まれているような気がして、疑問を乗せた眼差しを向ける。電気はすっかり消していたから上総の顔ははっきりとは見えないものの、その頬が柔らかく緩んだのがわかった。ふと、サリナさんが恋人を語ったときそういう表情になったことを思い出して、はっと息を呑んだ。
「上総にもそういうひと、いるの?!」
 高校で友達になってからずっと、上総のそういう話は聞いたことがなかった。時々他のクラスメイトの女の子達と好きな人の話が飛び交ったときは、まだ今は恋愛するよりも、部活で頑張っていることが楽しいと笑っていた。
 さっと、上総は顔を隠すように上掛け布団の中に入り込んでしまう。
「上総っ!」
 私は笑いながら、布団ごと上総を揺する。布団の端を掴んで、頑なに上総は出ようとはしない。だけど、その中からクスクスと楽しげな笑い声が聞こえてくる。
「……あっ、それが上総の秘密ね! ほらっ、さっさと出てきて白状して!」
 自分にも秘密のひとつくらいはある、と上総の言葉を思い出して、ぽんぽんっと叩くと、ほんの少しだけ布団を引き下げて、顔を見せる。きっと今、この部屋が明るかったら顔を真っ赤にしてるんだろうな、と想像しながら、上総の告白を待った。

「…………郁ちゃん先生」

 静かな部屋の中、零された呟きに目を見張る。

「郁斗先生?!」
「しぃっ。佳澄、声大きい!」
 バッと勢いよく布団から飛び出してきた上総のいきなり口を塞がれる。ごめん、と視線で謝ると、手を放して、再び上総は布団の中に戻った。枕に頭を乗せると、天井を向いて、わかってるの、と小さい声で言う。
「郁ちゃん先生が佳澄を好きなこと。だれよりも大切にしていること。特別に想ってるってこと……見てたらわかるんだ。ふとした時の佳澄を見る優しい視線。佳澄といるときいつもの装ってる表情から真剣なものに変わったり、胸が痛くなるような、切ない顔したり、なんでかな。そういうの、気づいたら目が離せなくなって、つい追いかけて、本当なら苦手なタイプのひとだったのに、いつの間にか好きになっちゃってた。好きになったんだって気づいたの」
 ―― 胸が痛い。
 上総の言葉が、今にも泣き出してしまいそうな声が、ぎゅっと胸を締め付ける。それだけ、上総の想いが真剣だというように。強い想いが伝わってくる。無意識に胸の前で手を握り締めていた。
「上総……郁斗先生は」
 ようやく紡いだ言葉は、その先を見失ってしまう。
 郁斗先生のことを、私が話していいことじゃない。いくら親友とはいえ。それは上総に対しても失礼のような気がした。これは上総と郁斗先生の問題で ―― 郁斗先生の想いに応えられない私が口を出していいことだとは思えない。
 迷っているうちに、誤解したのか上総が遮った。
「郁ちゃん先生が佳澄を好きでもいいの。私、頑張りたい。初めて好きになった人だから、振られるってわかってても自分なりに一生懸命やり遂げたい。だから、見守っててくれる?」
「 ―― っ、応援してって言わないの?」
「親友を板ばさみにする気はまったくありませんから!」
 ガッツポーズを作るように天井に向かって拳をあげる上総は笑顔を浮かべる。その笑顔に、なんて強い親友なんだろうって苦笑する。こんなふうに、郁斗先生を想ってくれる人がいるのは、とても心強く思えた。たとえ、その結果がどうなっても、上総はきっと後悔しないように、その性格に従ってまっすぐ突き進んでいくような気がする。その先で、泣いたり迷ったりするようなときがあれば、今の上総がそうしてくれているように、私も背中をそっと押してあげたい。
 心からそう思って、だから頷いた。
「約束する。なにがあっても、私は上総の味方だよ」
 告げた言葉には、きっと上総が受け取るそれ以上にたくさんの意味がこもってる。それは今の上総にはわからないとは思いながらも、言わずにはいられなくて。それでも、上総の「ありがとう」という言葉に、私も前へ進む勇気をもらった。

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