雨のち晴れ。ときどき、嘘つき。
雨のち晴れ。ときどき、嘘つき。(4)
これまで雨が続いていたことが信じられないほど、空は青く澄み渡っていて、太陽がじりじりとした暑さを伝えてくる。昨日までの晴れたり降ったりの曖昧な天気とも違う、きっとこれからはすっきりとした天気が続くと予感させるほどの晴れた日になっていた。
踏みしめると、敷き詰められている小石がじゃりっ、と音を鳴らした。まっすぐ見る先には、『春日』と刻まれている墓石。あの日、睦兄の姿を此処で見たときからずっと、どうしても訪れることが出来なくなっていた。だけど、お墓はとても綺麗に整えられている。睦兄は変わらず、訪れていたんだとわかって胸の奥から熱いものがこみあげてきた。
そっと手を伸ばして、『春日』の文字に触れる。
「解放……してあげなきゃね、お父さん」
もう、睦兄を。義務から ―― 責任から。私から。それで睦兄が離れていくんだったら、それも仕方ないと思う。大丈夫。支えてくれる人はたくさんいる。
文字に触れている手をぎゅっと握り締めた。
「佳澄っ、」
背中にかかった声に、ぎくりと身体が強張るのがわかった。全身に緊張感が走り抜ける。逃げ出したいほどの恐怖を感じながら、ぐっと足を踏み留めて振り向いた。
会ってないのはわずかな時間なのに、こんなに懐かしさを感じるなんて ―― 。
いつもの睦兄とは違ってやつれているように見えた。疲労している顔つきにずきり、と胸が痛む。心配させたことが一目でわかって、その睦兄の優しさに苦しくなった。
「……どうして、ここに?」
聞きたいことも、言いたい想いも胸の中に渦巻いているのに、口を開いて出た言葉は、わかりきっているはずの問いかけで、訊いてからその答えはすぐに脳裏に浮かんだ。
「郁斗がここにいるだろうって」
案の定、睦兄が口にした答えに、やっぱりと頷いた。
「そっか。郁斗先生から預かった携帯……」
居場所がわかるようになってたんだ。だから、電源は切らずにって書いてあったんだとわかって、呆れてしまう。
そんな私に近づいて、睦兄は隣に並んだ。ふたりで、墓石を眺める。暫く沈黙が続いて、ふと睦兄はお墓に置いていた線香に手を伸ばし、数本取ると火をつけた。陶器で出来ている線香用の入れ物に刺してから、しゃがんで手を合わせる。
緩やかに流れる風が、線香の煙を運んでいく。
「……パーティのときのことは悪かったと思ってる。話を聞くって約束していたのに」
いきなり告げられた謝罪に戸惑いながら、睦兄を見下ろす。しゃがんだままでじっとお墓に視線を投げていたのに、不意に顔をあげてきて、目が合う。その目には、苦しげな光が宿っていて、小さく息を呑んだ。
「郁斗が……、好きだと言われるんじゃないかと思ったら、急に怖くなったんだ」
「 ――― えっ?」
思いもかけなかった告白に、一瞬思考が止まる。頭が真っ白になったまま、じっと睦兄の目を見つめ返していると、自嘲するような笑みを浮かべながら、繰り返された。
「佳澄が誰かを好きになったら、この手を離さなきゃいけない。僕はそれが怖かったんだ。だからあのとき、逃げたんだよ。郁斗が好きだという言葉を聞きたくはなかったから」
スッと、立ち上がって睦兄は私から視線を逸らすように、再び墓石に顔を向けた。その横顔はとても真剣で、からかってるとか、嘘をついているとは思えない。
「それは ――……」
(家族として? それとも ――。)
喉まで出かかった、いちばん聞きたいこと。だけど、最後の一歩が踏み出せずに飲み込んでしまう。睦兄の顔を見るまでは、勇気を出そうと決めたのに、こんなふうに目の前にしてしまうと、途端に臆病になる。
『怖がらないで ―― 』
サリナさんの言葉が脳裏に浮かぶ。上総の笑顔も浮かんで、ありったけの勇気を集めるようにぐっと、手の平を握り締める。よしっと勢いをつけて口を開く。
「睦兄!」
傍にいるにも関わらず、大きな声で呼びかけた私を驚いたように睦兄が振り向いた。
「 ――― 私、睦兄が好きっ!」
目を見開いて息を呑む睦兄の姿に、やっと告げることが出来た一言が嬉しくて、それまでの臆病だった気持ちが吹き飛んだような気がした。だから、もう一度。心を込めて口を開く。
「好き。睦兄が好きって、ずっと言いたかったの」
驚きを通り越したのか、まるで時が止まったかのように身動きをしなかった睦兄は、一瞬泣きそうに顔を歪めた。それを堪えるように、苦笑を零す。
「僕も好きだよ」
返された言葉に今度は私が驚いた。だけど、すぐに言葉が続けられる。
「佳澄を大切に想ってる。僕のたったひとりの家族だから」
「違うっ! そうじゃなくてっ、私はっ」
「だけど、佳澄。今から話すことをきちんと聞いて欲しいんだ」
真剣な眼差しを注がれて、否定しようとした言葉を呑み込むしかなかった。何を言おうとしているのか、それは予想できる。聞きたくないという想いと、ずっと独りで抱えてきた重荷を話してもらえるという期待感がせめぎあう。迷っているうちに、睦兄が話し始めた。
「春日さん。おまえの本当のお父さんを殺したのは ―― 事故のきっかけを作ったのは、僕なんだ」
「 ―― っ、」
小さく息を呑んだ私に、深く傷ついた光を瞳に浮かべた睦兄は自嘲する。思い出すことが酷く億劫だとでもいうように、苦々しい顔つきで笑った。きっと睦兄は告白することで、余計に傷ついている。それ以上、見ていることができなくて、気がついたときには叫んでいた。
「やめてっ! 睦兄っ、私は、全部わかってる。わかってて、睦兄が好きなのっ! 家族としてなんかじゃないっ。私はひとりの男性として、睦兄を愛してる!」
「……それは、僕がずっと傍にいたから、錯覚のようなもので……」
必死の思いで告げたのに、睦兄は眉を顰め、うめくように低い声で言いながら首を振る。だけど少しでも、ほんのわずかでもいい。睦兄にこの想いが届くよう、伝わるように傷ついた光を浮かべている瞳から逸らさずに言葉を重ねた。
「いっぱい悩んだよ。たくさん考えた。だけど気持ちはっ、私の心はいつも睦兄を想ってるの! 家族としてじゃない。私は睦兄を男の人として好きなの。錯覚じゃないっ!」
「佳澄……僕は、」
「わかってる。知ってるの、私と睦兄が最初に会ったのは、母親とじゃなくて……あの日、あの雨の日だった」
ハッと睦兄は驚きに目を見開いた。
「思い出してたのか……」
その呟きに頷いて、あの頃の記憶を思い出す。あれは私が何も知らなかったという罪でもあるから、言わずに胸に秘めておこうと思っていた。少なくともこんなふうに、睦兄に告げることになるなんて考えてもいなかった。
今は晴れ渡っているのに、雨の音が聞こえるような気がする。雨音と、悲しみと怒りを湛えて私をじっと見つめていた男の子 ―― 。
「雨に濡れたキレイな男の子。せっかくのキレイな顔が悲しみに染まってて、雨だけじゃなくて泣いていることに気づいて……私は笑ってほしいって思ったの。泣いているのがもったいなくて笑ってほしくて声をかけた。睦兄がどんなに苦しんでたか、悲しみに沈んでたか知りもしないで呑気にそんなこと考えて……」
「おまえはまだ小さかったんだ……。わかれというのがムリだよ。それなのに僕は自分の感情に飲み込まれるままお前を突き飛ばした……そして佳澄の父親を!」
「事故だったよっ、あれは事故でしかないっ! 睦兄のせいじゃない!」
どうしたら。
――― どうしたら、絶望に沈んでいる、睦兄を救えるんだろう。
どんな言葉も、想いも、睦兄は否定して拒絶して、心まで届いてくれない。それがもどかしくて、涙が零れる。自分の存在が、存在自体がまるで睦兄を苦しめる元凶そのもので、わかっていたはずなのに、そう突きつけられると言葉を紡ぐことさえ怖くなる。
熱くなった気持ちを拭い去るかのように、風がやわらかく、ふたりの間を流れていく。
睦兄はふと、空を見上げた。握りこまれていた拳にぐっと力がこもったように見えた。
何を考えているのか沈黙が続くだけ不安になって、ほんの少しでも睦兄の想いが読み取れないかとじっと見つめてしまう。だけど空を見上げていた睦兄が顔を戻したとき、その視線は私じゃなくて、お墓に向かっていた。横顔には、苦笑が浮かんでいる。沈黙を破った睦兄は悲しげな声で言った。
「……おまえの口癖だな。どんなときだって『睦兄のせいじゃない』……義母を突き落としたときもそうだった。僕のせいじゃないってしがみついて泣いてた。そうやって僕は救われてたんだ……。だけど同時に苦しんでもいた。僕は佳澄の大切なものを奪ってばかりで……」
正直言って、わからない。彼らを大切だと思ったことはなかったから。少なくとも、母親を。じゃあ、父親は?
確かに私を庇って亡くなったのは、愛されていたとは感じる。だけど、ほとんど思い出もなく姿かたちでさえ写真で見ただけの父親を大切だったかと訊かれると ―― わからない。だって、ずっと守って傍にいてくれたのは。
「違う。私の大切なのはずっと睦兄だった。守ってくれたのも傍にいてくれたのも。そんな睦兄を私は家族として愛してる」
「佳澄……」
睦兄の顔が私に向けられる。見つめてくる目は、さっきまでの苦しげな光は隠れて、穏やかなものを湛えていた。でもそこにはまだ、深く傷ついて苦しんでいる小さな少年がいるのを知っている。
足を踏み出して近づいた。手を伸ばして、睦兄の手をそっと取る。ずっと、繋いできた大きな手の平。伝わってくる温もりはいつも不安や悲しみ、苦しみを取り除いてくれた。だからいま同じように、この温もりが睦兄の救いになってくれることを願いながら、両手で包み込む。
「だけど、私は睦兄を守りたい。傍に、いたいの。与えてもらうんじゃなくて、それだけじゃなくて分かち合いたい。家族としてだけじゃない。最初からだったわけじゃない。睦兄と暮らして知るうちに睦月という男の人に恋をしたんだよ」
想いを告げて、ずっと守り続けてきてくれた手の平に、キスを落す。びくりと手が震えるのを感じながら、顔をあげる。驚いた顔をする睦兄に、もう一度告げた。
「 ―― 私は春日睦月に、恋をしたの」
睦兄が背負っている重荷を一緒に抱えたい。
そう思い始めた瞬間から、もう我慢できなくなった。家族としてじゃなくて、ひとりの女の子として見て欲しかった。だけど、睦兄にたくさんの罪をひとりで背負わせてしまった私は、どうしていいかわからなくて。無責任にそれを告げることもできなくて、だから家族としてでも一緒にいられればいいと思った。だけど、それだけじゃ足りない。誰にも、睦兄を譲りたくない。膨らんでいく気持ちに戸惑っていたけど、やっと心の中で燻っていた想いを伝えることができて、胸がいっぱいになった。
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