雨のち晴れ。ときどき、嘘つき。
晴れ日(1)
―― ごめんなさい。
胸に走る痛みを堪えて、そう謝ると彼 ―― 村田くんは困ったように笑った。
わかってたよ、と諦めの入り混じった声が聞こえてくる。
「わかってた?」
「あのパーティのときに気づかされたんだ。君が好きなひと」
そう言って、私から視線をはずし、空を見上げる。つられて私も視線を空へ動かした。屋上から見上げる先にある青く澄み渡る空にはちぎったような白い雲が点在していている。ゆっくりと流れていく様子は、ぎらつく太陽の熱とは対象的で、暑さを緩めてくれるような気がした。
「……お兄さんとうまくいきそう?」
穏やかな声に、村田くんへと視線を戻す。眼鏡越しの目が気遣うように私を見ていた。
(うまくいきそう?)
村田くんの言葉を頭の中で繰り返す。
浮かび上がる睦兄の姿に、ほっと息を吐いてから首を横に振る。
「わかんない……けど、きっとなにがあっても私と睦兄の絆は切れないし、私はどうしたって睦兄を愛してるんだと思うの」
「それってさ、家族愛? 恋愛?」
「ぜんぶひっくるめた愛かな」
不思議そうな顔をされて、悪戯っぽい笑みを見せる。
そんな簡単に気持ちは割り切れない。だけど、家族としての愛というだけでは睦兄への気持ちはキレイなものばかりじゃなくて、それに、と私は半分諦めが入った口調で言う。
「結局、私にわかったのは、どんな形であっても睦兄を愛してるってこと。そして、離したくないってことなんだよ」
今はまだ、それ以上のことはわからないし、幸いにも睦兄はそれを許してくれた。
お互いに秘密にしてきた想いを曝け出して、以前よりも素直な気持ちで傍にいられるようになった。それは、まだ始まったばかりで。だから、これからどうなるかなんてわからない。わかるのは、二人の絆が切れることがないってこと。私が、睦兄を愛し続けるってこと、それがどんな形であったとしても。
「だから、うまくいくかはわかんないよ」
「そっか。そうだよね」
自信のない答えに、村田君は納得するように頷いた。眼鏡の奥の目が穏やかに優しく細まる。
「僕たちはまだ、若いんだし。これからいろんな人に出会って、経験して、解るのはそれから、かな」
そうだね、言葉にせずに、頭の中で返事をする。
私の世界はまだ、睦兄とふたりだけの世界で、きっとこれからもっと多くのことを経験するから。そのなかで、睦兄への想いをもっと深めて、もっともっと好きになっていく。
「負けられないな」
ふと、村田君は強気な笑みを浮かべた。
「春日さんに、いつか。いい男として僕を見てもらえるように。もちろん、そうなったとき、僕が君を選ぶかはわからないけどね」
挑戦的な口調は、どんなに強気な笑みを浮かべていようと村田君の穏やかな顔つきにはなんだか合わなくて、思わず笑いそうになる。けど、堪えて、そうだねと今度は口に出した。しっかり向き合って、まっすぐに見つめ返して言う。
「私も、負けないよ」
村田君とは違う理由だけど。
私も睦兄にずっと、好きでいてもらえるように、今よりももっともっと素敵な女性になりたい。目標はサリナさん。だけど自分らしく。そんなふうに大人になっていけたらいいと思う。睦兄の隣に立っていても、自然でいられるように。
私の言葉に、村田君はただ、彼らしい穏やかな笑みを浮かべる。
「さて、僕はそろそろ行くよ」
そう言って、屋上のドアに踵を返した。その背中を見送り、柵に背中を預けて、再びどこまでも続く青い空を眺める。あのあやふやな天気から一転、こうした晴れの日の空をこんなふうにすっきりとした気持ちで見上げることができるなんて思っていなかった。あの気持ちを、けして晴れることがない想いを大人になってもずっと抱えていくものだと覚悟さえしていたから。
「あんまり上ばっかり見上げて口開けてるとバカ丸出し」
ふと、からかうような声が聞こえて、視線を向けると、ドアに寄りかかっていつの間にか郁斗先生がじっと見つめてきていた。
「郁斗先生……」
普段よりほんの少し冷たい口調に、いつもみたいに言い返すことができなかった。見つめてくる青みがかった目は温かみの欠片もなく、最初に会った頃のように冷たい氷のように研ぎ澄まされてるのに気づいて、どくりと全身の血が逆流する。
「睦月と両想いになって、よかったね」
口で言うほどの顔をしていないのに、そう言った郁斗先生は、ドアから身体を起こして、ゆっくりと近づいてきた。足が凍りついたように動かなくなって、ただ呆然と立ち尽くしていると、不意にその腕の中に抱き寄せられた。
「郁斗先生!」
「……いいから、少しだけ」
その声は切羽詰っていて、昔から郁斗先生のこの縋るような口調には敵わない。大人しく腕の中におさまって、だけどいつもとは違って睦兄への罪悪感が浮かびあがってきて、せめて郁斗先生の背中に手を回すのやめた。ふたりの間に置いたまま、ぎゅっと握り締める。
「そういうところは変わらなくていいと思うけどねー」
「だっ、だって! ちょっとは変わらないとダメでしょ?!」
溜息混じりに言われた言葉に、焦って言い返すと面白そうに笑う声が落ちてきて、ムッとしながらも、いつもと変わらないやりとりに、ほっと胸を撫で下ろす。それでも、変わらないままではいられないことを、ふたりとも感じ取っている。溢れ出してくる切なさは、郁斗先生がなにを言おうとしているのかわかっているからだ。
「……睦月を愛してる?」
頭のうえに落ちてきた言葉は、優しさを含んでいた。
ほんの少し、郁斗先生から距離を取って、まっすぐ見つめる。氷のように冷たかった目は、今はとても穏やかに凪いだ光を浮かべていた。さっきの態度を思うと、寸前まで ―― 郁斗先生は覚悟を決めかねていたのかもしれない。私も、郁斗先生に聞かれるまで、温かで優しい関係を失いたくないと心のどこかで思っていたから。だけど。郁斗先生は覚悟を決めた。だから、私も頷いた。
「――― ごめんなさい」
ゆっくりと頭を下げる。
「ごめんね、郁斗先生。私は睦兄を愛してるの」
真剣に、想いが伝わるように。伝わりますように、とただそれだけを願って言う。きっと、郁斗先生を傷つけるのはこれが最後だと感じながら。
ザッ、と足音が短い沈黙の中で聞こえた。まったく、と溜息混じりの声が届く。
「佳澄ちゃんには人生初体験ばかりさせられるよ。初恋に初失恋。一方で君は、初恋成就。世の中、ほんと理不尽だ」
わかっていたけどさ。
顔をあげると、郁斗先生は柵に身を乗り出していた。その後ろ姿は、軽い口調のわりに寂しさを纏わせているように見える。太陽の光の下で、郁斗先生の髪は金色に煌き、風になびく。それがどんなに悲しげに見えても、もう触れる権利はない。
再び、沈黙が落ちる。
屋上から見える光景を眺めていた郁斗先生がやがて、振り返った。整った容貌には普段から学校で、表面で、被っている郁斗先生の表情が浮かんでいる。
「春日佳澄」
親しみのこもる含みは一切なく、まるで教室で出席を取るために呼ぶときのように冷たい響きで名前を口にされたことに戸惑いながら、返事をする。
「君はオレのクラスの生徒のひとり」
「はい」
「それから、オレの親友の女」
「……うん」
「これからは、その距離で接するから」
はっきりと郁斗先生に言われるのは、苦しくて。だけどそれが当然の成り行きなんだと思う。どこかで決着つけなくちゃ、前には進めないから。こみあげてくる感情を堪えて、精一杯の笑顔で頷いた。
とたん。
軽く引き寄せられて、抱き締められる。
「それでも、オレにとって君は永遠に特別な存在なんだ」
耳元で、そっと、ささやかれた。
うん、と零れそうになる嗚咽を堪えて返事をすると、流れるような動作でそのままくるりと後ろを振り向かされた。とんっと背中を軽く押されてたたらを踏む。
「部活もない子はいつまでも残ってないで、さっさと家に帰れよー」
かけられた声は淡々としていて、それだけに郁斗先生が無理をしているのはわかった。
このまま立ち尽くしていたら、郁斗先生の気持ちを無駄にするみたいで、ドアのところまで駆け出す。腕を伸ばして、取っ手をつかむ。だけど。
「 ―― っ、郁斗先生!」
思い切って、振り向く。
すでに郁斗先生は背中を向けていた。まるで私が、振り向くことがわかっていたみたいに。話しかけられることを拒絶するかのような雰囲気に眦が熱くなる。
睦兄への気持ちとは違うけど、私にとっても、郁斗先生は特別な存在だから。気持ちはわりきっても、これまで培ってきた絆まで手放したくない。郁斗先生も同じ気持ちだったから、最後に『特別な存在』だと言ってくれた。
だから、普通に。いつもと同じように。だけどほんの少し、いつもより明るく聞こえるように言う。
「郁斗先生、さようなら! またっ、明日!」
遠目からだから確かに見えたわけじゃないけれど、フッと笑うように郁斗先生の肩が小さく揺れたような気がした。
その向こうで、青く澄んだ空が見える。晴れ渡った天気と、郁斗先生の後ろ姿に大丈夫、と言い聞かせておもいっきり、ドアを引っ張った。
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