雨のち晴れ。ときどき、嘘つき。

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  晴れ日(2)  


 ドアの閉まる甲高い音を合図に、振り向いて柵に背中を寄りかからせる。はぁ、と無意識に零れた溜息に空を見上げた。沁みるような青に目を眇めて、煙草が吸いたいという気持ちを堪える。
「敵わないなぁ、まったく」
 ―― ほんとうに。
 脳裏に浮かぶのは、今まで傍にいた彼女よりももう少し幼い面影のある少女の姿。出会ったばかりの頃は、まだ中学生だった。
 初対面のときの言葉が脳裏に浮かぶ。
 (―――― だれ、このチビ。)
 彼女に向けた最初の一声がそれだった。

 大学での睦月は、周囲の学生たちから信頼を寄せられ、教授たちとも対等―或いはそれ以上に意見を交わせるほど頭の回転が速く、そうはいっても、オレの苦手とする優等生という印象もなかった。唯一、会話のレベルを調節しなくても話が合う男で、他人とは距離を置くようにしているオレが珍しく興味をもった。更にオレの実家を知ったところで、余計な詮索をしたり関わってこようとすることもなく、変わらない距離間と態度で、それが逆に新鮮に感じて自分から睦月に近づいていった。
 親友という立場で、睦月の家族より、最も近しい位置にいる自信を持っていた。だが、睦月はどんなに誘っても0時を越えて付き合うことはないし、女には手を出さない。時折、メールや電話をしているときに大学では見せることのない感情のある豊かな表情を浮かべていることに気づいて、その自信が揺さぶられた。
 苛立ちを感じ、理由が知りたくて、一度も自宅に招いてくれない睦月に女と別れたことを理由にひどく酔ったふりをして、強引に家までついていった。そのとき、玄関に出てきた佳澄ちゃんを見て、放った最初の一言がそれだった。

 肩までのまっすぐな黒髪に丸っとした黒目。あどけなさの残る幼い顔立ちは、どちらかといえば、可愛い類に入るかもしれないが、男でも見惚れる睦月のきれいな顔とは似ても似つかずに、妹だと紹介されても俄かには信じられず、睦月にとっての唯一が彼女だとは思いたくなかった。それに家族といえど、自分以外の人間が睦月の傍にいることが許せなくて睦月のいないところでは散々、冷たく接した。触られることをあからさまに拒否って、わざと女癖の悪いところを見せつける。でも。ほんの中学生であるはずの彼女は嫌がる様子も見せず、親切の押し付けをするわけでもなく、彼女を嫌っていながら強引に押しかけるオレを睦兄の友人だから、とオレの感情の機微を掴んで和やかな雰囲気を保とうとしてくれた。
 今思えば、幾つも年下の、中学生に八つ当たりしていたことがわかる。それはとても情けなくて、惨めなことだったのに、それなのに佳澄ちゃんはあの頃も変わらずその優しさで包み込んで笑って受け止めてくれていた。

「悪いね、佳澄。急に病人を連れてきたりして」
 ぼんやりとする意識の中で、睦月の声が聞こえてきた。まるで水の中にいるみたいに、その声はあやふやで。喉に痛みを感じた瞬間、自分の口から咳が飛び出るのがわかった。ああ、風邪ひいたのか。オレ、とようやく自分の状態を理解する。
「大丈夫だよ。今日は学校も午前中だったし。睦兄は今から必須の講義あるんでしょ。神木さんのことは看てるから、早く大学戻って」
「ああ、けど。おまえと郁斗を ――」
 明らかに躊躇ってる口調に、これで元気ならオレが彼女に手を出すわけないでしょー。嫌ってるんだからさ、と言ってやりたかったが、それを口にする元気さえない。身体中に燻る熱を吐き出すのに精一杯で、ふたりの会話を聞いているしかなかった。
「いいからっ! 講義が終わったら早く帰ってきてね」
「か、佳澄! こらっ、なにも追い出さなくても!」
「そうしないとぐだぐだ残ってるつもりでしょ! 神木さんのことは心配しないで早く行ってきてってば!」
 五月蝿いくらいのやり取りが少し続いて、それからばたんっとドアが閉まった音が聞こえて、睦月が強引に追い出されたことがわかった。ドア越しに「講義が終わり次第、帰ってくるから。なにかあったらすぐ電話しておいで」と念を押した声が届いて、彼女が返事をするとしばらくして、沈黙が広がった。
(今日の必須って、あぁ、昼からの二時間か……。)
 思い出して、ついでに記憶を引っ張り出す。
 午前中にも必須の授業があったから睦月と一緒に出席して、終わりぐらいから意識が途切れていた。そういえば、昨夜あたりから熱っぽかった気がしないでもない。普段なら少しでもだるければそれを理由に適当にサボるところだったが、睦月と知り合ってからは一緒に講義に出て討論することが楽しかったこともあり、真面目に出席していた。
 ひとり、もしくは頭の軽い身体目当ての女たちと過ごすのはつまらない。そう思って、学校行ったことが悪かったかもしれない。まさか意識が途絶えるほどの熱がでるとは思ってもみなかった、と自分に呆れてしまう。

「神木さん、大丈夫ですか?」
 ひんやりとした感触が額に当たると同時に、気遣う声がかけられた。
 目の前には不安そうな表情を浮かべた彼女の顔があって、思わずどうして、と思ってしまう。どうして他人であるおまえがそんな顔するのさって。口にだせないまでも、眉を顰める仕草で、言いたいことを察したらしく、彼女は額に置いたらしい濡れタオルをぽんぽんっと軽く叩いた。
「文句は元気になったら聞きますから、病人は大人しく看病されてくださいね」
「 ――――っ!」
 子ども扱い―それも中学生に―されたことにムカついて反射的に言おうとした皮肉の代わりに咳が出てくる。
 ひりひりと痛む喉。全身を支配する熱。
(――――くるしい。)
 そういえば、小さい頃。一度だけ風邪を引いたことがあった。

 自宅にはかかりつけの医師までいて、医療設備は万端だったから診てもらった後は使用人が面倒を看てはくれたものの、所詮は仕事の範疇で、家族はだれも心配してくれなかったし、部屋を訪れることもなかった。恐らく、オレが風邪を引いたらしいとまるで仕事の報告を受けるかのように耳にしただけで、その三秒後には忘れてしまったんだろう。それを寂しいとか悲しいとか思ったりはしなかった――あぁ、当たり前だよな、と妙に納得しただけ。
 だからこそ、それ以来。逆に誰かが傍にいることに慣れなくなった。

 窓から入り込んでくるそよぐ風とか、時折。本のページをめくる音。その合間に、気遣うように覗き込んでくる気配。ぬるくなる度に、布を水に浸してしぼってはのせてくれたり。普段なら居心地が悪いままに、鬱陶しいとか、オレに興味あるの、とか言って冷たく突き放す。
(きっと、そんなこと言っても彼女は頑固にも離れようとしないだろうな……。)
 風邪をひいているからだけじゃない。
 そうはいっても、オレに恋愛感情があるから、とかいうわけでもない。ただ、彼女の性分だということがわかる。
(なんだ。オレ、それに苛立ってんの?)
 心の底にあった想いに気づいて、馬鹿ジャンと思い直す。こんなガキ相手にそんなこと思うわけない。あんまり馬鹿馬鹿しい考えに思わず笑いそうになって、代わりに咳がでた。
 ごほごほっ、と繰り返すオレが起きてることに気づいたのか、彼女が問いかけてくる。
「神木さん? 起きたんですか?」
「……起きてたよ、ずっと」
 苦しさを逃すために目を閉じて、口を開くと咳がでるから黙っていただけで、眠っていたわけじゃない。
 そう返事をして、目を開けた。
「じゃぁ、これでも食べて薬飲んでください」
 彼女の言葉に、上半身を起こして差し出された器を見る。
「――桃?」
「睦兄も私も風邪引いたときには食べたくなるんですよね。喉が痛くても食べられるし」
 ねっ、と言いながら桃をフォークに突き刺して、目の前に持ってくる。女と付き合ってるときには適当に構うために冗談交じりで「あーん」と食べさせ合ったりするから恥ずかしいとか思うはずないのに、どきりと胸が高鳴った。早鐘のように打ち始めた心臓に、目が回りそうになる。
(なに、これ……?)
 身体中が風邪とは別の熱に支配されて、なぜか焦燥を感じた。
「……いいよ、自分で食べられる」
 溢れ出しそうになる感情を抑えながら言った声は平坦なものになって、常日頃から演じてる神木郁斗の仮面が外れてしまったことに気づく。けれど彼女は熱のせいだと思っているのか、それともいつも通りの冷たい態度だと感じているのか、ただ頷いてフォークを渡してくれた。
 桃を齧ると、甘い果汁が口内に広がり、飲み込むとひやりと冷たい果実が熱に支配されていた喉を潤してくれる。
 器に入っていた桃を全部食べ終えると、薬を渡された。
 再び、ベッドに横になってから、本を開こうとした彼女に気づいて、いつもの自分らしく、冷たさを隠した軽い口調で言う。笑みをつけて。
「勝手に寝てるし、傍についてる必要ないから、自分の部屋に戻っていいよー?」
「身内が弱ってるときは、家族が傍についてるものなんです」
 きっぱり言い切る彼女の顔は、押し付けでも無理矢理でもなくてそうすることが当然だと思っている表情で、こみあげてきそうになる感情を堪えるために、視線を逸らして天井を見上げる。
「オレは君の家族じゃないよ?」
「睦兄の親友は身内同然です」
「散々、意地悪されても? オレ、睦月の妹なんて認めてないくらい、君のことキライなんだって」
「知ってますよ。けど、嫌われてるからって、私も嫌わなきゃいけないわけじゃないでしょ。それに、私と睦兄はほんとうの兄妹じゃないっていうのは事実ですし」
 へぇ、そうなんだ――って、頷きながら、熱で回転の緩んだ思考は衝撃の事実を耳にして遅れた反応を返した。
「はぁ?」
(ほんとうの、兄妹じゃない?)
 思わず、彼女を見る。眉尻を下げて、困ったような顔をしている彼女は、とても衝撃の事実を口にしたとは思えない。驚いているオレに、次の瞬間には真剣な顔になって言った。
「けど血は繋がってなくても、睦兄と私は家族です。だから、睦兄と親友の神木さんも身内ですよ」

 ――――馬鹿じゃないの。さすが中学生。理論が支離滅裂ジャン。
 彼女の言葉を理解して、すぐにそう思った。

 そう思ったはずなのに。

 胸に温かいものが広がっていく。ずっと堪えてきた感情が溢れ出しそうになるのを感じて、誤魔化すようにさりげない動きで腕を持ち上げ、両目を覆った。

「 ――神木さん?」
 怪訝そうな声。優しい、その声に気づく。
 溢れそうになる感情は、生れ落ちた瞬間からきっと堪えてきた寂しさとか、悲しいという感情だと。我慢し続けて、いつの間にか当たり前になって。だけど、無意識の領域でほんとうは、受け止めて欲しいのにと、求めていたもの。
 血が繋がっているはずの、本来は無条件で与えてくれるはずの家族には得られなかったものが、全然血の繋がりなんてない、むしろ嫌っているはずの人間から与えられるなんて。
 情けなくて、惨めで ―― けれど気づいてしまった。それを凌駕するほどの嬉しさがこみあげてくることに。
「佳澄ちゃん……」
 君、とかおまえとか。睦月のオマケとか、けして呼んだことのない名前が零れ落ちる。
 まだ、目を見ながら言うことには気恥ずかしさを感じながら、きっと驚いているはずの佳澄ちゃんに、物心ついて初めての我侭を口にする。
「眠るまで、傍にいてよ」
 これまで誰かに傍にいてほしいと願ったことはない。願っても、叶えられたことはなかったし、それが叶えられる年齢になる頃には誰かが傍にいることを鬱陶しいと思い始めたから。
「元気になるまで、私も睦兄も傍にいますから」
 初めての我侭を受け止めてもらえることがこんなにも嬉しいとは知らなかった。
 じわりと、胸に広がっていく感情に、やがて春日佳澄を愛していると自覚するのはもう少しあとだとしても、失えない大切なものを見つけたことを知った。

 そういや、あんときも快晴が続いてたっけ。
 風邪をひいた自分とは裏腹に晴れ渡った空が恨めしかったことまで思い出す。
「……敵わないはずだよなぁ」
 最初から、佳澄ちゃんには負けっ放しだったんだから。
 ふと、扉が開く音が聞こえて振り向いた。
「結城?」
 現われた生徒の姿に眉を顰める。
 テニス部所属。
 成績も上の下くらいで、性格は快活明朗。同級生にも信頼が厚い。いつも二つに結んでいる長い髪を部活前なのか、今はポニーテールにしていて、目鼻立ちのすっきりした顔はまだ高校生だから幼さは残るが美人の類に入るだろう。大学生にでもなれば、花開くに違いない。数多の女達と付き合ってきたせいか、容易く想像できる容姿に、佳澄ちゃんの親友にふさわしいとは思っていたけれど、それくらいのデータしかない。教師と生徒、もしくは佳澄ちゃんを入れた三人でなら喋ったことはあるけれど、ふたりっきりというのはなかった。

「春日なら帰ったよ」
 唯一、思い当たることを口にすると、彼女はにっこりと笑う。
「知ってます。さっき、すれ違いましたから」
「じゃあ、何か質問でもある?」
 授業でわからないことでもあったかなーと、今の気持ちを考えると正直面倒だと思いながらそう問いかける。まだ教師という立場である以上、仕方ないけれど。
「あります」
「そっか。なら、職員室に戻りながら ――」
 聞くよ、と言い掛けた言葉は遮られた。

「佳澄に振られたんですか?」

 唐突な質問に、思わず仮面を外しかけ ―― 余計なお世話と思う間もなく、再び付け直す。
「なんのこと?」
 言外に、関係ないデショと含めてとぼけた答えを返すと、まぁいいや、と自分で振っておきながら彼女は肩を竦めた。それから、スッと目を細めて挑戦的な顔をしてくる。
「私、今から。神木郁斗に宣戦布告します!」
「――――なにを?」
 愛の告白ならともかく、いきなり堂々と宣言されることに驚いたり面倒だと思うより先に、面白そうな雰囲気を感じ取って、聞き返していた。
「必ず、私を好きだと言わせてみせます!」
 予想もつかなかった言葉は一瞬理解できなくて、けれど理解した途端。こみあげてくる笑いを我慢できなかった。
 恐らく振られたんだろう、と推測できるはずの男相手に、いきなりそんな宣戦布告してくるなんて。馬鹿だなぁ、と思いながらも、さっきまで空を見上げながら感じていた虚しさが消えていくのを感じる。
「そ、そこまで笑わなくても……」
 困惑している目の前の挑戦者に、佳澄ちゃん以上に大切に想うことはないだろうな、と思いながら、その堂々とした宣戦布告を受けて立つことにした。基本的に面白いことは好きな性分だから。
「おまえたちが卒業するまで。それくらいの時間でよければ、受けて立ってやるよ」
 オレも、教師という立場に区切りをつけて、逃げずに立ち向かうと、決めたから。それまでは、楽しみたいと思う。
 にやりと不敵に笑って言うオレに、結城上総は「上等です!」と真っ赤な顔で晴れ渡る空に向かって拳を振り上げた。

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