雨のち晴れ。ときどき、嘘つき。

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  晴れ日(4)  


 ――きれい、だったなぁ。
 車の助手席に座って、さっき終わったばかりの結婚披露宴で見た、サリナさんのドレス姿を思い出した。サリナさん本人のデザインで作られた純白のスレンダーなドレスは彼女のスタイルの良さにぴったりと合って、とても大人っぽく。勿論、ドレスだけじゃなくてサリナさん自身も、普段に増して輝いていて綺麗だった。
 なにより、幸せに満ち溢れた顔をしていて。
 いつもの私に見せてくれるお姉さんの顔とは違って、本当にひとりの女性としての、輝いた姿。遠い存在に感じながらも、「佳澄ちゃんに来てもらえて嬉しいわ!」と満面の笑顔で言ってくれたそのときは、やっぱりいつものサリナさんで。
 結婚式そのものと、本格的な披露宴パーティはパリで同日に行なったけれど、新郎新婦ともに日本でも付き合いがあるために、こちらでの仕事関係含め、友人も招いてのお披露目パーティをすることになったらしく、睦兄も私も招かれることになった。ついでに、と郁斗先生への招待状も預かって、面倒だから行かないと言い張るところを、上総へのパートナーとして半ば無理矢理連れ出した。イヤイヤながらも、連れ出された以上は神木家の世間体もあるのか、完璧な外面を披露していた。
 それにしても、上総を置いてきてしまったことに一抹の不安は残る。「大丈夫よ、郁ちゃん先生にしがみついてるから!」と笑顔で見送られたけど。ふたりの決着はついていないものの、文句を言いつつも郁斗先生は上総との勝負を楽しんでいるみたいだった。あと三ヶ月で卒業する、その先はどうなるかわからないけどな、といつだったかぽつりと零したことがある。郁斗先生は私たちが卒業すると同時に、神木家に戻る覚悟を決めているみたいで、 最近は教師とは別件で、睦兄となにやら組んで仕事を始めていた。
 そのために、睦兄も普段に増して多忙になっていた。約束の時間が深夜1時に繰り下げになってしまったくらいで、滅多に顔に出さない睦兄が疲労の影を過ぎらせることがあった。
 私も大学受験に専念―希望の大学はA判定取得済み―するため、勉強していたから、たまにある仕事休みも、ふたりで家にいてのんびり過ごしていて、今回のサリナさんのパーティは久しぶりのお出掛けだった。

「お茶でも飲んで帰ろうか?」
 信号が赤で止まったとき、ふと思いついたように睦兄が口にした。ちらりと運転席を見ると、優しい眼差しとかちあって、どきりと胸が高鳴る。
(うわー。どうしよう!)
 今まではあり得なかった熱が睦兄の瞳に浮かんでいるのがわかってしまう。
 あの告白から睦兄は何かの抑制が切れてしまったみたいに想いを伝えてきてくれる。時々、その熱に慣れない私は耐えきれなくなって火照る頬を隠すようにうつむいてしまう。今もそうすると、膝のうえに置いていた手を伸びてきた睦兄の左手にそっと包まれた。かたく、骨ばった男のひとらしい大きな手のひら。幼い頃からずっと繋いできた手は、その意味を変えてからこれまでより大切なものになって、安心すると同時に羞恥心まで感じるようになってしまった。どきどきと心臓がうるさいほどに高鳴る。
「佳澄?」
「あっ、う、うん!いいよ、お茶してこう!」
 怪訝そうに問いかけられて、慌てて返事をする。
 信号が青になり、再び車が発進したのを機会にそれとなく手をはずそうとして、ぎゅっと強く握りしめられた。
「むっ、睦兄! 前……っ、ちゃんと運転しなきゃ!」
「心配ないよ。それとも、佳澄はいや?」
 クスリと零れ落ちた笑みは、私が恥ずかしがっていることも――、嫌がっていないことも、きっとお見通しだからだ。
「……いや、じゃない」
 手を握り返して、それでも目を合わせて言うにはやっぱり慣れなくて、まっすぐ前を向いたまま伝える。それだけじゃ今の気持ちには足りないような気がして。
「嬉しいよ」
 そう告げると、言葉じゃなく、繋いでいる手にほんの少し力がこもって僕もだよ、という想いが伝わってきた。


 白い外装の喫茶店は、少し丘に建っていて一面がガラス張りで周囲にはなにもないから、遠目に海が見える。太陽は先にある水平線へといまにも沈んでしまいそうで、最後の光を受けて、海面が反射し煌いていた。
 広い海の、あの先には――――。
 胸の中に沸き起こってくる切なさを感じて、抑えつけるために手元にあるレモンティーが入ったカップに口をつけた。ほんの少しの時間しか浸していないはずなのに、思ったよりも酸っぱさが舌先に残る。
 最初にウェイターが運んできたときに一度口をつけただけで放置されている睦兄の珈琲はもう温くなっているはず。最近の睦兄は紅茶を飲むことがほとんどなくなった。
 何か悩みを抱えているときは、たいてい珈琲を飲もうとする癖。
 睦兄はあまり顔に感情を出さないから思っていることを当てることは難しい。けど、その癖は言いたいことがあるのに、言い出せないときにでてくるものだって、睦兄との付き合い始めてから、気づいたひとつ。
 思い当たることがあるから、尚更。その癖に、睦兄が迷っていることを思い知らされるようで、胸が痛い。普段なら、それとなく睦兄が切り出すまで待っているのに、今は聞きたくないという想いが強くて。
 ――――けど、いつまでも逃げているのは、結局、睦兄に告白する前の弱い自分と同じだと思い直して、覚悟を決めた。
 考え事をしているのか、黙り込んだままの睦兄に話しかける。
「睦兄……」
「うん?」
「行ってきても、いいよ」
「えっ?」
 私の言葉に、大きく目を開く。聞こえなかったのか、聞いていても主語がないから通じなかったのか、怪訝そうな顔をされた。
 強張りそうになる顔をどうにか笑顔に変えようと努力しながら、言う。
「仕事で海外に行かなきゃならない用事があるって、聞いたの」
「郁斗か……。余計なことを」
 驚きながらも、誰が教えたのかすぐに見当がつくところは睦兄らしくて。
 愕然と呟いた睦兄に、頷いた。
「郁斗先生との仕事のことだから、睦月が迷ってるなら自分から話すのが責任だって、教えてくれたの。早くても、4月からは向こうを拠点に働く必要があるんでしょ?」
 観念したように、睦兄は椅子の背もたれに寄りかかった。諦めたように溜息をついて、再びまっすぐ座りなおす。見つめてくる瞳の中には苦しげな光が宿っていた。
「郁斗が始めようとしていることは、世界が相手なんだ。日本だと狭すぎて、やりたいことが制限されてしまう。だから――」
「わかってる。睦兄。だから、行って」
 睦兄たちの仕事の詳しいところまではわからない。私にとって重要なところは睦兄が海外に行くということ。今までのように、手を伸ばせば触れられる距離じゃない。電話も、そんなに簡単じゃない。本当は、嫌だ。行って欲しくない。でも、郁斗先生だけじゃなくて、睦兄にとっても大きなチャンスだってこともわかる。わかるから、以前感じていた雨の日の頭痛よりも頭も心も痛くなるくらい、悩んで、考えて、その果てに、睦兄の背中を押してあげよう、と決めた。
 それでも、余計なことを言ったら、整理した気持ちがぐちゃぐちゃになりそうで、「行って」そう言うだけで精一杯だった。
「…………佳澄。行ったら、基盤を作るためにも少なくとも5年は向こうにいなくちゃいかなくなるんだ。僕はおまえを残して行ける自信ないよ」
 “5年”――その年月に胸がずん、と重くなる。
 郁斗先生と睦兄から聞くのとは全然違う。押し寄せてくる現実に負けないように手の平を握り締めて、溜息をつく睦兄を見る。郁斗先生に教えてもらってから考えてきた可能性。行って、と言葉にするまでに心の繋がりだけじゃなくて、離れていても我慢できる根拠を見出したそれを、思い切って言うことにした。
「――私が志望してる大学ね。2年で指定されている単位を取れれば、海外にある提携の大学に留学できるの。3年間そこで規定の単位取れば、卒業できるみたいだし。私の好きな海外文学の研究でも有名な教授たちもいるから」
「ちょ、ちょっと、待て。佳澄、それは……」
 驚いた顔をする睦兄にうなずいて、笑う。
「2年だけ。先に向こうに行って待ってて。私も頑張るから、睦兄も、負けないで」
 たとえ2年でも、睦兄に告白する前の私ならきっと、こんなふうに言えなかったし、笑えなかった。離れるなんて、考えたくもなかった。だけど今は、どんなに離れていても、睦兄との絆は切れることがないと信じられる。心が繋がっているから、信じられるものがある。根拠がないわけじゃなく、睦兄と重ね合ってきた時間が、弱い私を優しく強く包んでくれていた睦兄の愛情が、自信をくれた。
 ふっ、と息をついた睦兄は、やがて眩しそうに目を細めて私を見る。
「……強いね、佳澄は」
「睦兄が、私の手を繋いでてくれるからだよ。その手を離したくなくない私は、睦兄に負けない、睦兄の隣に並んでいてもお似合いだって言われる女性になりたいの」
 今までのように。
 すべてを睦兄に任せていたくない。睦兄の重荷も分かち合いたいと思ったから。そのためには、私も自分の足で立ちたい。
 テーブルのうえに置いていた左手を包み込むように、睦兄の大きな手の平がそっと置かれた。重なり合う手から伝わる温もりに、目をつぶる。
 小さい頃の私の前で、怒りと悲しみを瞳に湛えていたキレイな顔の男の子。再会したときの、苦しみを押し殺した表情。兄としていつだって、見守ってくれた姿。どんなときも、この手は私のために離れることがなかった。母の手から助けてくれたときも。父の墓の前で絶望に泣いていたときも。“家族”としての睦兄。気持ちが通じ合ってからの、私が戸惑うほどに見せてくれた男の人としての、顔。
(――――大丈夫。)
 溢れてくる気持ちに、私は自然とそう思っていた。
 離れていれば、弱音を吐くときがあるかもしれない。会いたいと、寂しさに負けるときもあるかもしれない。だけど、大丈夫。もう一度、今度は私から睦兄の手を取るために、今は離すことができる。
 目を開けると、ほんの少し寂しそうな表情をする睦兄がいた。
「睦兄……」
「約束しようか」
 私の手の甲を親指で優しく撫でながら、睦兄が言う。じっと見つめていると、悪戯っぽい笑みを返された。
「佳澄が約束を守って向こうに――僕のもとにきたときには、遠慮せずに恋人として扱うから」
「それって――……」
 含んだ言い方と、瞳に浮かぶ熱に睦兄の言葉に真意をわからずにはいられなくて、頬が一気に熱くなるのを感じた。
「2年だけ。家族として、妹として、おまえの成長を待つよ」
 そう思えば、我慢できるから。
 微笑む睦兄は、いつもの調子を取り戻しているみたいで、私と同じように、海外に行く決意をしたみたいだった。自分から言い出したことでも、やっぱり本音は寂しくて。けど、2年しか待ってもらえないのなら、きっとイロイロ忙しくなると思う。
「そうだ。あと、向こうにくるまでに、“睦兄”も卒業して、睦月、と呼べるようにね」
 にっこりと笑顔で付け足された課題に、思わず言葉に詰まる。だけど、多分それが覚悟に繋がるのかもしれないと思うと、却下できるはずもなく、がんばります、と俯いて頷くしかなかった。
「―――佳澄」
 ふと、包み込まれていた手がしっかりと握られていることに気づいて、顔をあげると、真剣な眼差しが注がれていた。思わず姿勢を正して、見つめ返す。
「僕は、おまえを愛してるよ」
 優しく穏やかな声音は、胸に響く。その想いの深さに、――強さに。堪えきれず、頬を伝っていく滴を感じた。

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