たとえば、君に ――

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  03. 偶然の出会い  

 素知らぬ顔で私は、和紀ですと名乗った彼と、本当はコロッケという名前らしい犬と海辺で遊んだ。彼が持っていたフリスピーや、小さなゴムボールを使って波打ち際で駆け回ったり。思いっきり、身体を動かした。纏わりつく潮風も、海の飛沫や泥がかかって重くなる服も、気にならなかった。とにかく動き回って、足も手も身体全体が心地よい疲労を感じていて、その頃には私たちの間にはすっかり敬語はなくなっていた。とても親しくて、まるで親戚でもあるかのように。昔からの友達でもあるかのように、すっかり気を許し合っていた。

 「あーっ、ちょいタイム。つっかれたー!」
 フリスピーをぐんっ、と遠くに投げて、走っていくコロを見ながら和紀はうーんっ、と両手を組んで大きく空に向かって伸ばした。私は、海に向かって組んだ両手を伸ばして同じように「楽しかったー」と身体中でそう大きな声を出した。
 「千尋さんって意外に体力あるね」
 「そう?」
 「そうだよ。そんなワンピース着て歩いてるから、てっきりお嬢様かと思ったのに。オレより元気でびっくりした」
 そう言って明るく笑う和紀の顔は、無邪気な幼い子どものように見えた。どんな気分でいても、つい、つられて笑ってしまう。彼は砂浜に膝を立てて座った。私はその隣に立ったまま、視線を投げる。遙か遠くに見える地平線まで。
 「それに、少し変わってるし」
 「そうかな。普通でしょう」
 アハハと二人で楽しく声をあげる。笑いながら、こんなに笑ったのは随分と久しぶりのような気がしていた。
 「そうだよ。普通だから変わってる」
 言葉の意味がわからなくて首を傾けると、気にしないでとばかりに肩を竦められた。

 「なんかさ。俺の周囲って、騒がしいわけよ。イロイロと。だけど千尋さんってなんか普通で、なんでだろう。上手く言えないんだけど、安心できる空気を持ってる気がする」

 なにそれ。
 呆れた声で言いながらも、和紀の言いたいことはわかったような気がした。結局は彼も芸能人で、立場的にはえっちゃんと変わらない。新人である以上、余計な口出しが多いだけ、騒がしいということも納得できる。そう思いながらも、知らないふりを通すことに決めていた私は、おどけた口調で言った。
 「初対面で、そんなことを言われましても」
 「インスピレーションだよ」
 「ピピッ、ときました?」
 頭から電波を飛ばす真似をすると、いきなりぶはっ、と笑い出した。その笑い方に目を丸くしていると、そのまま和紀はお腹を抱えて笑い続けた。
 「ははっ、……いまの、マジ……はまった……」
 笑い声の合間に聞こえてきた言葉に、大袈裟だと肩を竦めて見せる。それでも和紀は笑うのを止められないのか、目尻に涙が溜まっても笑い続けた。次第に腹が立ってきて、スタスタと海に向かって歩き出す。いつまで一人で馬鹿笑いを続けているつもり? むかっ腹がたつってこういうことを言うんだと思った。スッ、と身を屈めて両手で海水をすくう。ぽたぽたとそれがすべて手の隙間から零れていく前に、和紀の元に戻った。そうして、いまだ笑い続けるその頭に思いっきりかけてあげる。

 「ちょっ、千尋さんっ?!」

 今度は驚きに固まった和紀を置いて、「コロッケ! 逃げるわよっ」と側をうろうろしていた犬に声をかけながら走り出した。
 「コラっ! 濡れただろっ! どうすんだよ!」
 情けない声を出して追いかけてくる和紀の気配を背中で感じながら、しゃりしゃりっ、と踏むたびになる音が現実の ―― 確かに私が今いる世界の一部なんだと実感しているような気がした。


 時間だからと私は和紀とコロッケと海で別れた。
 また会う約束もしなかったし、お互いの連絡先も聞かなかった。まるで普通の友達が遊んでそれぞれの家に帰るみたいに、「じゃあね」と言って手を振った。

 私は別荘に戻って、シャワーを浴びた。纏わりつく、潮の香りが少しづつ慣れている石鹸の匂いに変わっていくと、寂しいと思ってしまった。タオルで髪を拭きながら、珈琲メーカーに残っていた中身をカップに移し変える。二階のデッキチェアに移動しながら、再び海を眺めた。朝となにも変わらない風景なのに、すっかり気分が変わっている。すべてが生き生きとして見えた。木々を揺らしていく、風の勢いも。陽が落ちてきて、橙色の煌きに染まっていく海の引き寄せる波音も。きらきらと輝いていて、その眩しさに目を細める。いつもは寂しく思える光景も、今日は素直に ―― 子どもの頃感じた気持ちそのままで、キレイだと思った。

 その瞬間、頭の中に一つの光景が閃いた。あっ、と声が零れ、デッキチェアから降りてパソコンが置いてある部屋に向かう。電源をつけながら、その場に置いてある白い紙に急いで走り書きをした。思いついた光景。言葉。イメージを。書きながら、自分が酷く珍しいことをしていることに頭のどこかで戸惑っていた。いつも、私の脚本は誰かのイメージで浮かぶことはない。すべてが想像上のもので、自分の現実とはかけ離れていた。そうであることを心がけていた。こんなに思いつくままに、書き出したことなんてない。だけど、止まらなかった。まるで水を得た魚のように。
 私は橘和紀というイメージで、それから二週間後にはひとつの脚本を書き上げてしまった。印刷し、見直して急に恥ずかしくなった。衝動的で、夢中になって書き上げてしまった文章が、私の心の奥底を曝け出しているみたいで。

 「 ――― 使えないわね」
 残っていた珈琲を一気に飲み干して、そう結論付けた。

 むしろ、こんな脚本を舞台でも映画でも、実際に動くところを見せつけられてしまうと、恥ずかしさで死んでしまう。読み直しているだけでも、自分の文章が直視できなかった。ほとんど斜め読み。
 使えないものを書いてしまった自分に溜息が零れる。何年この仕事をしてきたのか。まったく。
 ふと机の上の小さな卓上カレンダーが目についた。
 (ああ。そうだったわ。今日は ―― 。)
 オーデションの日だ。私が脚本を書いて、えっちゃんが主演の舞台。
 それに気づいて、はっと時計を見ると約束の時間が差し迫っていた。別荘から都内に持っている自宅マンションまで電車で三時間はかかってしまう。急がないと間に合わない。慌てて手にしていたものをバッグの中に適当に放り込んで、準備を始めた。

 オーデション会場で審査員の控え室に入ると、大学時代からお世話になっている舞台監督が憂鬱そうにしている姿が目に入った。彼は四十代前半で、白髪混じりの頭を常にしっかりと整えている。そうすることで三十代に見えてしまう童顔を厳しい顔つきにしているのだと真面目な表情で言っていた。サングラスをかけて、長テーブルに肘をついている。右手には、もくもくと煙を上げる煙草があった。

 「何かあったんですか?」
 部屋の隅に置かれてあった冷たい緑茶の入った紙コップを手にして、監督の隣に座った。部屋の中には、私と監督、あとは数名の関係者がいて、今日のオーデションに参加するひとたちのプロフィールを眺めていた。
 「ああ。今日さ。実は悦がくるらしいんだ」
 その言葉に、一瞬息が詰まりかけた。
 (えっちゃんが ――― ?)
 「えっ。高幡悦さん、来るんですか?」
 若い男の子 ―といっても、二十代後半 ― が私が聞き返すよりも先に嬉しそうに言った。それとは対照的に監督の顔は苦虫を潰したものだった。

 「ったく。忙しいんだから無理してくることねえのによ。出演者は俺たちに任せてろって言うんだ」
 監督にとって、えっちゃんはやっぱり付き合いが長くて、息子みたいなものだと聞いたことがある。私が彼に出会ったのは、監督との繋がりだった。

 ( ――― 大丈夫なのか?)

 二週間前の言葉が急に浮かんでくる。
 (まさか。……そんなわけない。)
 違う、と強く自分に言い聞かせる。それでも、視線を落とすと、紙コップを持っている手が震えているのを見つけてしまった。
 「相模? おい、顔色悪いぞ?」
 不意にそう声をかけられて、動揺してしまった。何かが肘に当たって、ばさっ、と物が落ちる音がした。あっ、と視線を向けたときには、テーブルに置いていたバッグが床にぶちまけられていた。
 「大丈夫かよ」
 監督自らがしゃがみこんで拾ってくれる。慌てて私は「自分でっ」と断りながら床に散らばったものを片付け始めた。
 「相模、これ。お前が書いたやつ? 新しいのか?」
 そう言われて顔を上げると、監督が持っていたものをぱらぱらと捲っていた。
 「あっ、それは!」
 一気に血の気が引く。違いますッ、と取り戻そうと手を伸ばした瞬間、控え室の扉が開いて、聞き慣れた声が聞こえてきた。
 「おはようございます」
 丁寧な口調で、低いその声に思わず動きが止まってしまう。
 「おお。来たか。待ってはいなかったが、おまえで最後だ。じゃあ、始めるか」
 監督はそう言って、手にしていた紙でぽんぽんと私の頭を叩きながら、歩いていく。他の関係者たちも、その後に続いて、気がついたときには、部屋にひとり残されていた。
 「相模さん? 行かないの?」
 不思議そうに声をかけられて振り向くと、扉の側で悪戯っぽく笑った高幡悦が腕を組んで立っていた。二週間ぶりに見る姿はやっぱり素敵で、胸が強く締め付けられる。ぎゅっ、ぎゅっと心臓が握り締められるみたいに痛くなる。それに気づかれたくなくて、あくまで平静な声を出して彼の元に向かう。
 「勿論、行きますよ」
 そう言って通り過ぎようとしたとき、不意に耳元で囁かれた。

 「今日一緒に食事しよう」
 「っ、」
 「監督も、だけどね」
 困って言葉を詰まらせた瞬間、付け足されて、ほっと胸を撫で下ろした。
 「 ―― でも部屋はとってあるから」
 更に告げられた言葉に、身体が強張ってしまった。非難をこめた目で見上げでも、穏やかに見下ろしてくる視線に受け流されて、そのまま彼は監督たちが向かった場所に歩き出した。

 (やっぱり、このままだと ――― 。)
 汗ばむ手の平を握り締める。せっかく固めていた決意は、すぐに不安で揺れ動いてしまう。崩れ落ちそうになる意識を繋ぎ止めて、私も皆の後を追った。
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