たとえば、君に ――

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  01. 気持ちの変化  

 オーデションに参加するのは一次、二次審査に残った十名だと前もって説明があり、個々のプロフィールが配られた。このオーデションで選ばれるのは主演、高幡悦が演じる羽村透の甥役で主役の次に重要な役割を占めている。選ばれるといってもすでに決定していた。大手事務所で一押しの若手タレント。テレビドラマや映画には出ているが、舞台は初めてだという今年二十歳になったばかりの男の子だった。二十歳の記念に日本一の俳優と認められている高幡悦との共演、舞台監督として一流の流(ながれ)監督の演出での舞台出演らしい。事務所はこの機会に一気に押し上げるつもりだろう。更に話題性を取り上げるため、事務所のコネではなく何千人の中からオーデションを受け、監督や脚本家に直々に選ばれたという事実が欲しいそうで、嫌だと突っ撥ねることができないのが業界ってもんだ、と溜息混じりに監督が言った。その悔しげな顔を見ると、私も断ることはできなかった。
 それでもこの事実は公然の秘密であるはずなのに、参加してくるひとが多い。プロフィールをめくると、大手事務所所属だが役が決定している子に比べて芸歴は少ない。有望な新人といったところかもしれない。これからのために少しでも印象を与える つもりだということがわかった。
 略歴、芸歴、趣味、特技などが書いてある履歴に顔、全体の写真が添えられているプロフィールをぱらぱらとめくりながら、ふと手が止まってしまった。
 二週間前に会った顔が貼り付けられていた。真面目な顔つきが嘘くさいと感じる。あの生意気にさえ見える、人懐っこい笑顔が彼のすべてを表していて、この嘘くさい真面目な顔だと何も伝わってこない。
 「じゃあ、最初の人、どうぞ」というスタッフの声に、ずっと和紀の写真に釘付けになっていたことに気づいて、慌ててプロフィールの一枚目に戻した。

 こういう誰かを選ぶ、という場所はもともと苦手だった。だから脚本が取り上げられるようになって、出演者の相談をされてもこれまでは「すべてお任せします」と言って避けていた。それに合わせて脚本の手直しもしたし、できる限り舞台の練習は様子を見に行くようにしていたから、苦情はでなかった。
 いつもなら居心地が悪く、退屈でやけに遅い時間の流れが今回はとても早く感じた。特に問題も起きず、スムーズに終わっていたからだけじゃない。ずっと、あの和紀のプロフィール写真を見たときから心臓が早鐘のように鳴っていた。顔を見たら、驚く? それとも慣れたようにポーカーフェイスを保つ? だけど、あの和紀のポーカーフェイスを想像すると、笑いがこみ上げてきそうになって、今がオーデション中と焦って頬を引き締めていた。そんな想像をしていたからか、時間はあっという間に進んで、とうとう次は和紀の番になった。スタッフのひとが呼びに行く姿にどきどきと、これまで以上に胸が高鳴っていく。握り締めた手の平が緊張感で汗ばんできていた。

 「失礼します」
 ――― どくんっ。
 急に和紀の顔を見ることが恥ずかしくなり、俯いてしまった。この瞬間になって、どうか気がつきませんように、と必死に思う。どうか、気がつきませんように ―― 。そう願っていたけれど、ふとそれ以上進む気配がないことに気づいた。まるでこの場の空気が止まったみたいで。

 「橘くん?」

 他の審査委員が呼ぶ声に彼が何をしているのか疑問に思って、顔をあげる。海で見た、あの真っ黒い瞳が私にまっすぐ向けられていた。目が合って、たちまち二人の間に流れる空気が、二週間前のあのときに戻ったように感じられた。海辺で遊んでいたときの、親しげな空気がゆっくりと流れ出してくるみたいで、懐かしい感情が溢れ出してくる。

 二人だけ ―― 私と和紀だけがわかる空気。

 その顔に動揺が走ったのが確かに見えた。人懐っこい顔は感情を隠すことができないのか、俳優目指してるならダメじゃない、といつの間にかこの再会を面白がっている自分に気付いて、笑ってしまった。
 「どうかしたのか?」
 「あ、いえ。 ……すごくキレイなひとがいたので、つい」
 監督の問い掛けに我に返ったのか、和紀はようやく私から視線を外した。だけどその言葉に他の皆の視線が一気に私に向けられた。
 (……やられた。)
 悔しくて睨みつけても、何食わぬ顔で和紀は自分の名前と所属事務所を告げた。


 オーデションが終了して、私と監督、えっちゃん、マネージャーの四人は監督お勧めの中華屋さんで食べてから場所を行きつけのホテルのバーに移動した。
 「それにしても、今日の相模は珍しかったな」
 話しを振られて、ブランデーのロックを飲んでいる監督に顔を向けた。サングラスをはずしている顔はとても四十代に見えない。三十代前半のえっちゃんと同じ、それよりも若く見えてしまう。笑うと尚更、幼くなる。若い頃は舞台俳優で、奥さんと結婚してから舞台監督の勉強を始めたと酒の席で教えてくれた。
 「すみません。口出しして」
 「ああ。たとえば、台詞一行の脇役でも出演したいと思いますか、ってやつですよね。有望株の俳優を捕まえて僕、ビックリしました」
 「いいさ。面白かったから」
 マネージャーが烏龍茶を飲みながら言う言葉に、監督は肩を竦めてにやりと口端をあげた。
 「たとえ、犬役でも頑張ります! って、あの橘くんも元気がよかった」
 そう答えられたときに浮かんだコロッケの姿に重なって、笑い出しそうになった。

 「 ――― 相模さん。彼のこと知ってたんじゃないの?」

 監督とマネージャーを挟んだ反対側に座っているえっちゃんが静かな口調で問いかけてきた。ひんやりと空気が下がって、それまでの和やかな雰囲気が妙な空気になってしまう。喉がからからに乾いてしまって、慌ててマティーニに口をつけた。できるだけ自然な口調で答えようとして、監督に遮られる。
 「それは俺も思った。なあ、相模。実は俺、さっきの休憩中におまえの新作の脚本を読ませてもらったんだが、あの主人公は ―― 」
 最後まで監督が口にする前に、今度は電子音が言葉を遮ってくれた。マネージャーがすみませんっ、と謝罪して携帯電話を耳に当てながら立ち上がろうとし ―― ぴたりと動きが止まった。そのまま電話をえっちゃんに差し出した。怪訝そうにそれを見る彼に、マネージャーは困惑した顔で言う。
 「悦さん。電話切ってる? 奥さんから、通じないって」
 背筋に冷や汗が流れる。
 「ああ。俺の電話にかけ直してって伝えて。電源つけるから」
 そう言いながら、えっちゃんは席を離れていった。
 急に今ここにいるのは、私ひとりだけになったような気がする。雑音が遠ざかり、世界が切り取られて、寂しいひとりぼっち。

 「……相模。おまえらどうなってるんだ?」
 単刀直入に突きつけられた問いかけに、現実に引き戻される。監督の視線は前を向いたままだった。
 「マネージャーさんは?」
 「トイレだってよ。おまえ、悦に言ったのか?」
 なにを、と問い返すまでもなくて、そういえば監督は事情を知っていたんだと今更ながらに思い出した。あのとき、監督も傍にいた。―― いてくれた。私は首を軽く左右に振って、焼け付くような喉の熱さを堪えて、口を開いた。
 「別れなきゃとは思ってます。それが一番いいって」
 わかってる。わかってるけど、どうしようもない。どうしたって、別れの言葉を口にすることができない。私から、あの大好きな手を放すことができない。どんなに、責められたとしても。だけど、もう引き際だということは、頭だけではなくすでに心までも理解していた。
 「 ―― 悦はさ。あいつは、我慢してるだけだぜ。俺は正直言って怖い。我慢が切れたときのあいつの感情がプラスに向かうなら問題はないんだが……」
 「彼の奥さんは、ちゃんとえっちゃんを愛しています」
 「おまえよりか?」
 それは ―― 。
 答えられなかった。自分の愛の深さなんて、誰かと比べられない。素直に誰よりも愛してるなんていえるほど、若くない。この愛はそんなにキレイなものじゃない。マティーニがまだ残るグラスをじっと見つめていると、監督は苦笑を零して言った。
 「悪い。口出しするのは俺の悪い癖だ」
 わかってます、と私も笑った。『流監督は面倒見がいい』業界では有名だった。最も、口の悪さも同じくらい有名だったけれど。

 バーテンに同じロックのお代わりを頼んで、監督は話の矛先を変えた。

 「そういえば、あの脚本さ。続けて俺がやってもいいか?」
 「あれは新作じゃありませんっ。ただ暇潰しに……」
 「主役は橘和紀で打診しておくよ」
 見透かされた言葉にぐっ、と反論を飲み込んでしまう。

 「だが、暇潰しに書いたやつが一番の出来だってのは、問題だな」
 はっ、と監督の顔を見ると、上機嫌に笑っていた。いつも私の脚本を読んだ後は難しい表情で、手直しする部分を淡々と上げていくのに、珍しい。というより、初めて見た気がする。仕事が認められることは、やっぱり素直に嬉しい。そんな言葉をかけられて、更にやりがいがあるという呟きまで聞き取ってしまえば、やりたくありませんとは口に出せなくなった。もう諦めるしかないらしい。

 渋々頷いて、ふと思いついた。

 「代わりに今夜、協力してもらえませんか?」
 悪戯っぽく笑って ―― 本心は切羽詰っていたけれど ―― そう持ちかけると、悪戯好きの監督はにやりと意地の悪い表情を浮かべた。


 遠ざかっていくタクシーを見送ってようやく、ほっと息をつくことができた。少しだけ罪悪感に胸が痛んだけれど、助かったと思う気持ちが大きい。寂しいなんて感じていない。まるで自分に言い聞かせるように思ってしまって、自嘲した。
 協力、ということで、監督にはそのまま、えっちゃんに絡んでもらって、監督のうちで飲み直そうとマネージャーともども連れ帰ってもらった。朝まで泊めてあげてください、と頼んだけれど、どっちにしても監督の家への距離を考えると、今夜中には戻って来れないはず。

 ( ――― 私も帰ろう。)

 自宅マンションに帰り着いたときには、どっと疲れが押し寄せてきていた。リビングに置いているソファにごろりと寝そべって、手にしていたバッグを絨毯に落とした。
 今日はいろんなことがありすぎて、気持ちの浮き沈みが激しかった。穏やかで繰り返されていた日常だったのに、と思う。少しづつ、変化は訪れていたけれど、和紀に会っていろんなことが急激に進み始めた気もする。和紀のことを思い浮かべると、自然と笑みが広がってしまう。監督から仕事のオファーがあれば驚くよね。ふと、今日の和紀の驚いた顔が浮かんできた。その途端、電子音が鳴った。一瞬出ようかどうか迷って ―― 逃げたままでいるわけにもいかないと、上半身を起こしてバッグから携帯電話を取り上げた。わざとらしくないように気をつけて、明るい声を出す。

 「監督は大丈夫?」
 『ああ。離れで高見と飲んでるよ。ちょっと風に当たるって俺は庭に出たけどね』
 高見さんも巻き込まれて大変だ、と彼のマネージャーに同情した。最も、酔っ払ってしまうと、日頃の鬱憤を吐き出して絡んでくるのは高見さんだけど。
 『そっか。明日も仕事でしょう。飲むのはほどほどにね。私ももう疲れたから ―― 』
 寝るわ、と言って早々に切ってしまおうと思っていたのに、少し怒気の孕んだ声に遮られた。
 『俺を見くびってる?』
 「っ、なんのこと?」
 びくりと震えそうになる身体と心を叱り付けて、平静な声で応じる。はぁ、と苛立ちを吐き出すような溜息が聞こえてきた。いつもは穏やかな喋り方をして、滅多に感情を表さないのに、不機嫌な感じが声だけで伝わってくる。
 『三ヶ月前くらいからだね。様子が変わったのは』
 驚いて電話を取り落としそうになって、ぎゅっと握る手に力を込めた。ここで動揺しちゃいけない。だけど、そんな前から気づかれてるとは思わなかった。わからないように少しずつ、少しずつ距離を置いてきていたのに。
 『 ――― 何があったんだ?』
 問いかけでありながら、真剣味を帯びた声は何かがあったと確信している。恐らく、その何かさえ、鋭い彼は察しているだろう。その推測を認めるわけにはいかない。だから、毅然と否定した。
 「なにもないよ。ただ、少し ―― 」
 本当は今日言うつもりじゃなかったけど、顔を見てよりはマシかもしれない。顔を見てだと、言えないかもしれないから。衝動的に出てきた言葉を躊躇いなく続けた。
 「えっちゃんとは距離をおきたいの」
 急に胸が引き裂かれて、苦しくなる。

 『ちひろ』

 いつもの名前を呼ぶ声に窘めるような含みが混じる。それでも、その声に胸が熱くなるのは、変わらない。
 『本気で言ってる?』
 慎重に問いかけられた言葉に、頷くことも否定することもできなかった。胸から熱いものがこみあげてきて、喉元でぐっと言葉が詰まる。まだ感情を吐き出すわけにはいかない。
 はぁ、と再び溜息が聞こえてきた。さっきよりも長い溜息のあと、何かを決意するような口調で、彼は言った。

 『わかった』

 「えっちゃん?」

 期待していた言葉のはずなのに、なにか違う含みを感じてしまう。

 『 ――― 覚悟しておいて』

 じゃあ、おやすみと一方的に告げられて電話を切られた。
 通話音が流れる電話が滑るように手から離れて、落ちていく。だけど、それよりも最後の言葉だけが何度も繰り返し、頭の中に浮かび上がって、背筋がひやりとした。
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