たとえば、君に ――

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  02. 気持ちの変化  

 えっちゃんと距離を置こうと決めて、三ヶ月が経過した。舞台は勿論、成功を収めたし、相変わらず俳優、高幡悦の演技は絶賛された。仕事の合間は脚本家として参加はしたけれど、ほとんど秒刻みといっていいほど忙しい彼とプライベートで話すことはなかった。それに私も監督との打ち合わせが忙しくて、余計な考えを持つ時間もない。毎日の仕事を終わらせるだけで精一杯だった。えっちゃん主演の舞台が終わった後、監督と次の舞台について話し合った。あの、ほとんど衝動的に書き上げた脚本は監督のやる気を今まで以上に燃え上がらせてしまったらしく、休みを取る間もなく早速打ち合わせをし、出演する俳優についてスタッフ内で思案を巡らせることになった。勿論、主演は私と監督の推薦で橘和紀があがった。事務所側は二つ返事でオーケーを出したとのことで、後の出演者については俺に任せろ、といつものように監督が請け負った。今回ばかりは後援者に口出しはさせず、イメージに合った役者を選んで見せると豪語して。

 私は自宅マンションで椅子に座って、パソコンに向き合っていた。いくら今まで以上に出来がいいと褒められたところで、実際に舞台として作り上げていく上での手直しは必要になってくる。とりあえず脚本を読みながら監督と話し合った部分を訂正することにした。あとは、俳優が決まって読み合わせや、実際に練習が始まってから何回か行うことになる。
 「…………で、友一の出番だったかな」
 赤マークが入った脚本を見ながらチェックしていく。
 一区切りついたところで、タイミングよく机の上で充電していた携帯電話が振動した。
 (スタッフの人かな?)
 画面も見ずに電源を押してそのまま耳に当てる。
 『相模千尋さん?』
 確認する声に、携帯を取り落としそうになった。
 「わっ、えっ、もしかして、橘和紀くん?」
 『ピーンポーン。正解。おめでとう。賞品はコロッケと散歩できる権利でーす。パチパチパチッ』
 からかうような口調の声が返ってきて、久しぶりなのに、まるで毎日連絡を取っていたような気安さを覚えてしまう。だけど、耳にしている声はとても懐かしい感じがした。
 「どうして番号知ってるの?」
 『流監督からオファーがあったとき、教えてもらった。オレと千尋さんの馴れ初めを話す代わりに』
 「馴れ初めって……」
 監督の意地悪に歪めた顔が思い浮かんで、苦笑が零れた。まったく、あの人は首を突っ込むことが本当に好きなんだから、と呆れてしまう。
 『番号登録しといて。それと、アドレスは ―― 』
 続け様に言われて、慌てて画面がつきっ放しのパソコンに打ち込んでいった。後で返信する、と約束すると、急に電話の向こうが静かになった。
 「和紀?」
 『……一つ聞きたいんだけど、いい?』
 明るかった声が真剣なものに変わっていた。うん、と頷くと、わずかに躊躇うような間があったあとで、探るような声が聞こえてくる。
 『もしかして、今回の舞台にオレが選ばれたのって、千尋さんのコネ?』
 ああ、なるほど、とその言葉に納得する。同時に自分でも疑問に思った。これは、コネなんだろうか。でも、違う。無理をして和紀を主演に押上げだわけじゃない。そう思って、素直に答えた。
 「違うわ。今回の脚本は、最初から和紀のイメージで私が書いちゃったの。本当は出すつもりなかったんだけど、うっかり監督に読まれちゃって……」
 『なんだ。じゃあ、オレのための脚本だったわけ?』
 「それもちょっと……。本当に出すつもりなかったんだもの」
 頑固にそう言いきると、受話器越しに深い溜息が聞こえてきた。自然に零れたわけではなく、それはわざとらしく聞かせるためのものだ。なによ、と不満そうに言うと、落ち込んだ声が返ってきた。

 『傷つくなー。オレのチャンスを千尋さんは潰そうとしてたんだー……』
 ほんっと、傷ついちゃったよ。オレ。
 ううっ、と泣き真似までする和紀の声に、わざとだとわかっていても、罪悪感が浮かんでくる。そういうつもりじゃないんだけど、と心の中で否定する。言いたいことがうまく、言葉にできない。

 「私、誰かのイメージで脚本書いたことなかったの。ちゃんとテーマがあって、でも私が暮らす現実とは違う感じで書いてて、だけど今回は勿論、テーマはあるけど、なんていうか、身近な思い出とか。私が育ってきた影響を随分受けすぎてできたもので。和紀と会ったときに浮かんできて、そんなの珍しいから」

 脚本家として言葉をつかう仕事のはずなのに、実際に口に出して言うと上手く伝えられず、もどかしい気持ちでいっぱいになる。和紀はたどたどしい喋り方であっても、真剣に相槌を打って、話を聞いてくれた。

 『千尋さんの気持ちをわかるって言うと生意気だって言われそうだからさ』
 私の話が終わると、真面目な口調で和紀が言う。
 『 ―― オレ、頑張るよ。演技が、そりゃあ上手いとはいえないけど、諦めないし、練習しまくって、千尋さんが書いてよかったって思うような舞台にするから』
 今度は、私が黙って和紀の話を聞いた。
 まっすぐで一生懸命な言葉に、胸の中が熱くなる。仕事上、似たような新人さんの言葉はたくさん聞いてきた。そのときはただ通り過ぎるだけの言葉も、和紀から聞くと心が温かく包まれていくみたいになる。正直で、けして媚びていない。心からそう思っているということが強く伝わってきた。じわりと温かくなっていく心に、涙が零れてきそうになって、誤魔化すためにからかうように言った。
 「流監督は面倒見はいいけど、仕事に関しては鞭で打たれる覚悟で望んでね。厳しいわよ。怒鳴られるだけですめばいいほうなんだから」
 『え、マジ?』
 「うん。あんまり酷いと椅子とか飛んでくるからね」
 監督に泣かされた若手俳優なんて数え切れないくらい見てきた。プロ根性のない人間は容易く降板させられてしまう。その代わり、乗り越えた俳優は演技力を評価されて、見事に活躍している。監督の作品にお客さんも感激し、俳優にではなく、監督にファンがたくさんいるくらいだから。脅しじゃなく事実を告げると、『いいよ。負けないから』と強気な言葉が返ってきた。
 『千尋さんも、励ましにきてよ』
 「脚本家としてちゃーんと和紀が演技してるか観に行かせていただきます」
 笑って言うと、わんっと電話の向こうで吠える声が聞こえてきた。
 「いまコロッケの散歩中?」
 『うんっ。今日はオフなんだ』
 「そっか。あの海辺?」
 椅子から立ち上がって、窓辺に移動する。陽が沈みかけていて、見下ろせる光景は温かい橙色に染まっていく。この自宅マンションは三階だから海が見渡せるあの浜辺の光景に比べたら、随分と世界は狭い。狭い世界は、まるでひとりぼっちでいるようで、寂しくて息苦しくなる。仕事をしているときは気にならないこの空間も、仕事をしていないと、一気に重たく感じてしまう。だから ―― そう、きっとだから。

 『そうだよ。あそこ散歩コースだもん。千尋さんにも会えるかなーってちょっと期待してたりした』

 沈みそうになる思考を、和紀の声が柔らかく包み込んでしまう。その言葉で、遠くにあるはずの海の光景が目の前に見えるような気がする。瞼をそっと、下ろす。真っ暗な視界は、寄せて返る懐かしい波の音を呼び起こさせる。

 ――― ちひろ。

 甘く、心を蕩けさせる声が聞こえてきて、胸を熱く焦がしてしまう。

 『千尋さん? もしかして、泣いてる?』
 電話越しの気遣うような声に、はっと我に返った。目を開けて頬を触ると濡れた感触がして、慌てて手の甲で拭う。平気な声を装って、なんでもないよと否定した。気持ちを浮上させるために、明るい声を出した。
 「今度ね、また一緒に散歩していい?」
 『……もちろん。さっき言っただろ。賞品にコロッケと散歩できる権利あげるって』
 わんわんっ、と聞こえてくる鳴き声に笑みが浮かぶ。窓を見ると、嬉しそうに笑ってる顔がある。
 ――― 大丈夫。私はちゃんと、笑える。
 自分に言い聞かせて、またね、と和紀との電話を切った。

 そのとき、受信の知らせが鳴って、スチール棚に据え付けているファックスに視線を向けた。べーっと音を出しながら紙が流れてくる。歩み寄って、タイトルと差出人を確認すると監督から出演者決定の報告だった。主役は和紀で確定したみたいで、その下の欄に視線を動かして思わず目が釘付けになってしまう。主役とヒロインを取り合うライバル役。ライバルと言っても、今回の脚本の内容を考えると、ほとんど主役とヒロインの話でライバル役は重要じゃない。もっといえば、他にも出番が多く、大切な役柄はあるのに。
 急いで机のうえに置いた携帯電話を手にとって短縮の番号を押した。すぐに監督の声が聞こえてくる。
 「これ、どういうことですかっ」
 『あー、落ち着け。かかってくるとは思ったが、驚きすぎだ』
 のんびりと怒った子供をあやすような口調に苛立ちが更に募る。
 「監督!」
 『仕方ないだろう。とにかく理由はちゃんと話すから、今から俺の家にこれるか? お詫びに奥さんの夕食に招待してやる』
 してやるって、お詫びって ――― 。
 呆れると、『いいから、とりあえず来い』そう告げて監督は一方的に電話を切った。

 「まったくもうっ!」

 和紀と話して落ち着いてきていた気持ちがまた波立ってくる。手にしていた紙がくしゃりと音をたてて、歪んでいく。たちまち空気が重くなって、息苦しさに追い詰められていく気がする。これからのことを思うと、頭が痛い。いっそ、今回は取りやめてもらうという手だってある。もともと、あの脚本は衝動的に書き上げたもので ―― 。無理をしてまで拘る必要はない。監督には悪いとは思うけど。弱気になっていく心に、不意にさっきの和紀の言葉が浮かんだ。

 『 ―― オレ、頑張るよ。演技が、そりゃあ上手いとはいえないけど、諦めないし、練習しまくって、千尋さんが書いてよかったって思うような舞台にするから』

 負けない ―― 。
 和紀の声が、弱気になっていく心をゆっくりと包み込んでいく。だいじょうぶ、前を向いて、と励まされていくような気がする。うん、とひとつ頷いて、とりあえず電話で言われたように、監督の自宅に向かうことにした。


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