たとえば、君に ――
03. 気持ちの変化
門をくぐると竹の雑木林が続いていて、奥ばった場所に大きな日本家屋が建てられている。監督は和の趣きが好きなのだそうで、奥さんは掃除が大変だと笑いながら言っていた。休みの日はふたりで広い家を掃除したり、内装を変えたりすることが楽しいんだと惚気も聞いた。
私もこの雰囲気は気に入っていて、大学時代は度々訪れさせてもらった。監督とだけではなく、奥さんとも気が合い、いろんな話もするようになった。仕事のことだけではなく、プライベートのことまで。気がついたら、いつのまにかゲストルームには私のサイズに合わせた部屋着が何着か置かれるようになっていた。他にも彼らと親しい ―― たとえば、えっちゃんの服とかも。いつもは、本宅で食事をするところだったけれど、たまには気分を変えて、と離れで食べることになった。奥さんの腕によりをかけた和食のおかずがテーブル一杯に並べられている。
監督の奥さんは私が舞台とかで観る女優さんより、肌は滑らかで綺麗な女性でとても監督と同じ年齢とは思えない。童顔のりゅうき君とは違って、私のは若作りよと言うけれど、ふっくらとした顔に切れ長の淡い茶色の瞳、艶やかなピンクの唇、長く降ろしている黒髪、手も足もすっきりと伸びていて、モデル並みのスタイルをしていた。
「あっ、これ。美味しい」
「でしょでしょ。ニューフェイスなの。隠し味は薄味の醤油と、みりん、柚子の皮を金具ですって……」
楽しそうに話してくれる奥さんの料理の秘訣を頭の中でメモしながら、詳しく聞いていく。いかに簡単に美味しい料理を作れるか、または手間をかけるおかずを要領よく作れるかについて、盛り上がるのが女性というもの。滅多に料理をしない ―― それでも休みの日にはたまに作ってくれるのよと、奥さんが教えてくれたけど ―― 監督は鯖の味噌煮に箸をつけながら、苦笑した。
「おまえ、怒ってたんじゃないのか?」
その言葉に、ハッと我に返って、頬を膨らませる。
「 ――― 怒ってますよ」
「もう。りゅうき君。思い出させちゃダメでしょ。怒りながら料理を食べたって美味しくないんだから」
窘める奥さんに、べた惚れの監督は小さくなって肩を竦める。
「本当に、男の人ってデリカシーないんだから」
「俺のそういうところ好きなんだろう」
呆れたように溜息をついた奥さんに向かって、にやりと笑った監督が合いの手を入れる。まあ、そうね。と躊躇いなく笑って、微笑み合う夫婦には苦笑するしかない。いつまでも怒っていることが馬鹿らしくなってきた。
「千尋ちゃん、今日泊まってくわよね」
「おお。そうだな。食事してたら時間も遅くなるだろ」
すでに決定事項のように頷いて進めていく二人の会話に「そうします」としか返すことができなかった。じゃあ、支度してくるわ、と楽しそうに言って奥さんは立ち上がり離れを出て行った。私はそれを見送って、再び並べられたおかずに箸をつけていく。二人っきりになって、ようやく監督は本題に入った。
「どうやら悦が事務所に無理を言ったらしい。今回の俺の舞台に出たいと」
「だけど、今回は脇役じゃないですか。高幡悦が主役じゃなくて、ましてその次の大切な役でもなく、台詞もあまりない脇役になんて、事務所が納得しないでしょう」
ああ、と思い出したのか苦虫を潰した顔になる。奥さんの料理を食べながらそんな顔をしたのがバレたら、叱られるだろうな、と思ってしまった。それでも、気持ちは監督と同じで、苦々しい。
「今回はえっちゃんに諦めてもらってください。監督の言うことなら聴きますよ」
そう期待を込めて監督を見ると、肩を竦められた。その動きで、ああ、と絶望してしまう。きっと、監督は言い聞かせたんだろう。その話が上がってすぐに。だけど、えっちゃんは聞かなかったんだ。
「我侭が通るくらい大物俳優にしちまったのは俺のミスだな。というより、今回は譲らないっていうあいつの決意が見えちまって、それ以上はなにも言えなかった。怖かったんだ、俺も。流石に大物俳優だけあるよ」
溜息をついて、親しいひとたちの間でも珍しい監督の愚痴に驚いた。その口調から大げさに言ってるわけでも、からかっていってるわけでもないことが伝わってくる。演技の下手な俳優に躊躇いなく物を投げつける ― ぶつけはしないけど ― 監督が怖いって、どういう感じだったんだろう、といつも、穏やかな物腰のえっちゃんを思い浮かべた。
「マスコミにはマイナスに取られないように宣伝していくことで話をつけた。友情出演とか。そんな感じで」
普段穏やかなヤツが怒ると、大変だなーと呟きながら、その言葉の裏になにかあったのか、と窺うような含みを感じ取ってそっぽをむく。
「……えっちゃんに、距離を置こうって言ったんです」
正直に言うと、監督は深い溜息をついた。ようやく合点が言ったように頷いて、それで、と促される。
「その理由は言ったのか?」
「言えません」
きゅっと唇を噛み締めた。さっきよりも重い溜息が聞こえて、まあいいから、ほら飯を食え。残すと怒られる、と勧められる。それ以上は監督も何も言わず、黙々と食事を続けた。おかずが喉に詰まりそうだったけど、口の中に入れて咀嚼し、無理矢理流し込む。美味しいはずの味付けが感じられなくて、泣きたくなった。
「 ―― まあ。もう悦のことは受け入れるしかないな。だけど、そうなると主役には相当頑張ってもらわないといかんぞ。悦が出番のほとんどは主役との対峙だからな」
食事が終わって、お酒を飲みながらそう告げられて、確かにと思う。主役がえっちゃんなら問題はない。演技力で負けてしまってもえっちゃんが主役だから、仕方ないと納得されることはある。だけど、主役が脇役であるえっちゃんに負けるわけにはいかない。相応の努力が ―― いる。ううん、相応以上の力が必要になってくる。だって相手は、もともとの演技の才能があって更に努力し続ける人間だから。和紀の演技がどれほどのものかはわからない。だけど、和紀の言葉が ―― 笑顔が思い浮かぶ。
「せっかくいい脚本ができてきてやる気になったのに、前途多難だな」
やれやれと肩を竦める監督の姿に、私も溜息を返すことしかできなかった。
ゲストルームはそのまま離れの部屋にあって、露天風呂付きの広い浴場からあがったあとで戻ってくると、すでに布団が敷かれてあった。二組の布団が並んでいる。奥さんが今日は久しぶりだから一緒に寝ようと言い出し、監督は本館の寝室で一人寂しく寝る羽目になっていた。
「千尋ちゃん。お風呂大丈夫だった?」
庭に通じる窓を開けて、窓辺に座っている奥さんがゆっくりと振り返る。
「はい。丁度よかったです」
頷いて、おいでおいでと手招きする彼女のもとに進んだ。隣に座って、庭を眺める。半月の淡い光が差し込んで、広がる日本庭園を優しい空気に染め上げていた。竹林を揺らして、涼しい風が部屋の中に入り込んでくる。
「大体の話はりゅうき君から聞いてるのよ」
視線を庭に向けたまま、彼女が口を開いた。月明かりに照らされた横顔は、とても美しく見える。その声も優しい響きが含まれていた。監督と奥さんは仲睦まじく、隠し事はそんなにはないと言っていたから、恐らく大体ではなく全て知っているんだろうと思った。そのことに不快感はない。知っていて、温かく見守ってくれているその優しさに、感謝しているくらいだった。
「これは私の我侭なんだけどね」
だから聞き流して、と彼女は悪戯っぽく笑う。こういうところは夫婦で似ていると、しみじみ思ってしまった。
「本当は悦さんとあなたの話を聞いたときに、思ったの。神様って意地悪だわって」
「どうしてですか?」
「ええっ。だってそうじゃない」
まるで聞き返されるとは思わなかったというように驚いた顔で言われて、戸惑いながらその顔を見つめた。だって、と不満そうに彼女は続ける。
「千尋ちゃんと悦さんはとてもお似合いなのよ。二人が一緒にいるのを見るとね、とても自然な空気で、ああ、愛し合うってこういうことを言うのよねってしみじみ思えるの。羨ましくて、かなわなくて。しょうがないなって感じがするのに、悦さんには奥さんがいて、隣にいるのは千尋ちゃんじゃないんだもの」
テレビで悦さんの奥さんを見るたびに思うし、仕事でりゅうき君の付き合いとしてパーティーとかで彼ら夫婦に会うときとかに違和感を覚えるわ、と慰めでもなく、責めている響きもなく、そう心から思っているようにその言葉は私の胸に届いた。
「もっと早く二人が出会えていたら、悦さんと結婚していたのは ―― もちろん、結婚っていう形じゃなくても、隣にいたのは千尋ちゃんだったんだろうなって思うと、ね。どうして二人をもっと早く会わせなかったのって、ついついりゅうき君に絡んじゃったくらいよ」
小さく舌を出して肩を竦める姿に、苦笑する。
( ――― もっと、早く出会っていたら。)
だけど、時間はどうすることもできない。今このとき、えっちゃんにはちゃんと、奥さんがいる。身を引かないといけないのは私で、それが正しい。何度も、何度も言い聞かせてきた言葉をもう一度繰り返す。
相談に乗ってくれる唯一私たちのことを知っている監督たちにも話したことはないけれど、本当は一度だけ、えっちゃんは奥さんと離婚するという話しを持ち出してきたことがある。だけどその時、私は異様に取り乱して、えっちゃんが離婚するくらいなら私が別れるって号泣した。自分でもびっくりするくらい、まるで子供にとってはすごく重要なことなのに、たいしたことないと取り合ってくれない親が悲しくて、苛立ちを感じて泣きじゃくるときのように。
えっちゃんは驚いて、強く抱きしめてくれながら、あの低い優しい声で「わかったから」と何度も繰り返し、落ち着くまでずっと髪や背中を撫でていてくれた。
あの時、私はあまりにもわかっていなかったことに動揺していた。えっちゃんには奥さんという家族がいて、その繋がりは私とのものよりもっと神聖で確かな結び付きがあるものなんだと。私はそれを汚したんだ。愛しているから、とそれだけで誤魔化せる話じゃない。私はふたりの家族という場所に土足で入り込んで滅茶苦茶にした、なんて醜い存在なんだろうって自覚した。急に怖くてたまらなくなった。
えっちゃんが離婚したら、私はその恐怖に耐え切れず、自分を、そうして、えっちゃんを許せなくなるだろうって感じてしまった。理屈じゃなくて、心がそう感じてしまった。それでも私はまだ、えっちゃんの手を放すことはできなかった。離婚しないから、傍にいて欲しいという言葉に首を振れるほど、愛がなかったわけじゃない。あの温もりをまだ、あの時は失うことはできずに、縋っているしかなかった。
「どんなに悔やんだって、えっちゃんの奥さんはあのひとで、私はもうそろそろ、前を向いて歩かなきゃいけないんです。あの手を放して、ひとりで歩いていかないと」
「千尋ちゃんは、それで幸せ?」
奥さんの目がじっと見つめてきていた。まっすぐ、純粋で透明なその瞳の色に ―― 視線に飲み込まれそうになる。心の奥まで見透かされるようで、胸が苦しくなって俯いた。手の平を握り締めると、そっと柔らかく小さな手に包み込まれた。伝わってくる温もりに、涙が零れそうになる。
「 ―― っ、幸せがなにかなんて、私にはわからないんです」
いろんな感情が私を絡め取っていて、それを解くには、どうすればいいのかまだ、わからない。我慢していた涙が零れていく。奥さんはまるで子どもを宥めるように、抱き締めてよしよしと頭を撫でてくれた。それがなんだか可笑しくて、あったかくて、とても心強く感じた。
――― 負けないから。
和紀の言葉を思い出して、あの強さが私も欲しいと、心から思った。
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