たとえば、君に ――
01. 届かない想い
「相模、俺は今から現実逃避をするべきか?」
舞台下の観客席で腕を組み深々と座っていた監督が、前方に空々しい視線を向けたまま、隣に座る私に言った。どんな言葉を返せばいいのかもわからずに、小さく溜息をついて、目の前の舞台で台詞を喋り続けている和紀を見つめた。
( ――― 歌よりは随分とマシなんだけどね。)
それでも、和紀の歌を知らない監督から見たら、怒鳴りつける気力がないほどにヘタだということだろう。確かに今までの監督の舞台に出演してきた俳優たちの演技を見てきた私にとっても、まあまあというレベルでさえない。
「そう言わないで。監督なら大丈夫ですよ」
「無責任だなー。まあ、決めた以上は、公演できるレベルには引き上げるけどよ。やっぱり問題は悦との場面だな」
はぁ、と手の平で顔の半分を覆いながら、長い溜息をつく。ふたりの共通点は、仕事に誇りを持っていて厳しいということ。勿論、私だって仕事に誇りは持っているけれど、同じ俳優という仕事となると余計に ―― 。このままだと、えっちゃんは容赦することなく、和紀を追い詰めるだろうことが容易く想像できた。
一度和紀の演技を通しで見てから、監督と改めて脚本の打ち合わせをして、本格的な練習は次回から行なわれることになった。廊下にある自動販売機の側の長椅子に座って、監督と手直しした脚本を確認していると、影が差し込んだ。
「オレの演技どうだった?」
「最悪」
短く返して顔を上げると、あーやっぱり、と頬をかいてがっくりと肩を落としている和紀が立っていた。肩にタオルをかけて、白いシャツに柔らかいブルージーンズを履いている。スタイルはよく、立っているだけでカッコいいとは素直に思えるけれど、えっちゃんよりは雰囲気が軽く感じられた。
「監督が溜息ついてるの見えちゃってさ」
自動販売機に歩んでいって、お金を入れる。スポーツ飲料のボタンを押しているのが見えた。がこんっ、と落ちる音がして、和紀は上半身を屈めて受け取り場所に手を伸ばす。
「最悪だったけど、和紀らしいとは思ったわ」
「オレらしい?」
ペットボトルの蓋を開けて、振り向いた。口をつけてジュースを流し込む和紀に視線を向けたまま、うん、と頷いて思ったことを素直に口にした。
「素直な演技で、見てると元気になれるところ。久しぶりに、あんな正直な演技を見たような気がするもの」
作られた演技ではなくて、正直な ―― だけど。だからこそ、下手という印象が強くなってしまうのだと思う。まるで、あのライブで感じたときの同じ。元気一杯なのは伝わってくるけれど、一方的で観客のことは考えられていない。見せる演技ができていなくて、ライブだったら歌のノリでなんとかなることも、舞台ではそれが通じない。それでも、あんなに正面から素直にぶつかってくる演技を久しぶりに見た気がする。
「褒められているのかな、一応」
和紀は苦笑して、肩を竦める。落ち込んでいる空気を感じ取って、励ますために言った。持っていた脚本で和紀のお腹をびしっと叩く。
「まだ始まったばかりでしょ。これから監督にびしびし鍛えられなさいよ」
「はーい。じゃあ、オレそろそろ戻るね。仕事あるから」
またね、とひらり手を振って背中を向けると歩いていった。それを見送って、再び脚本に視線を落とす。久しぶりに和紀との会話できたことが嬉しくて、自然と口ずさんでいた。
「 ――― ここにいたんだ」
不意に声をかけられて、ぎくりと身体が強張った。和紀が歩いていった方向とは反対から聞こえてきた声に恐る恐る顔を向けると、えっちゃんが壁にもたれて立っているのを見つけた。ダークブラウンの背広に、タートルネックのクリーム色の薄いセーター。黒い綿パンを履いていた。茶色の薄いサングラスをかけているけれど、相変わらず、見惚れるほど素敵で、うっとりと溜息が零れそうになる。目が離せなくなりそうで、無理やり意識を引き戻した。
「参加は来週からですよね。どうかしたんですか?」
動揺を押し隠して、視線を脚本に戻しながらできるだけ自然に聞こえるようにそう言った。震えそうになる手にペンをぎゅっと握り締めて、力を入れる。
「周囲にスタッフはいないよ。ほとんど帰ったみたいだね」
「監督ももう帰ったはずですよ。私も帰りますから」
ゆっくりと脚本を側に置いていたバックの中に入れて立ち上がった。じゃあ、と挨拶をしてから反対側に踵を返そうとして、腕を掴まれた。
「だったら丁度よかった。送っていきますよ。相模さん」
「えっちゃん! 仕事はっ!」
思わず大きな声を出してしまって、はっと我に返る。掴まれた手から伝わってくる力の強さと、熱に息が止まりそうになった。胸が苦しくて、泣きたくなる。ぐっと堪えて、俯いた。えっちゃんの茶色い革の靴が見える。
「明日の昼までオフをとった。いい加減、ゆっくり話そうと思ってね」
「そんなことのためにっ」
「仕事はきちんと終わらせてきたんだ。それに俺にとって何が大事かを決めるのはちひろじゃないよ。俺自身だ」
突き放すような冷たい響きをもたせて言われた言葉にそれ以上、抵抗することはできなくて、わかったと頷くしかなかった。
「ドライブするって気分じゃないから、近くに部屋を予約してある」
行こう、と手に持っていたバッグを取られた。反対の手をぎゅっと繋がれて、顔をあげると、えっちゃんはすでに背中を向けていた。私は慌てて、手を引き抜こうと動かす。
「ちゃんと行くから。誰かに見られたらどうするのっ」
焦ってそう言うと、握られていた手が離された。一瞬で消えていくぬくもりを寂しく感じてしまう。ぎゅっと胸が痛んだ。それでも、えっちゃんと付き合い始めた頃のように、もう一度繋いでほしいと強請るわけにもいかず、歩いていく大きな背中を少し距離をおいて、黙って追いかけていくことしかできなかった。
ホテルの最上階から見下ろす夜の景色は、その煌きに追い詰められてしまうような気がする。どうしても、あの海と比べてしまう。海は夜になると真っ暗になるけれど、聴こえてくる波の音が優しくて、まるで何かが守ってくれるかのように感じることができる。目を瞑ると海の音が聞こえてきそうで、だけど伸ばした手の平に当たる窓の冷たい感触が、今いる場所を思い知らせる。目を開けると、窓にはまっすぐ立って見つめてくるダークブラウンの目があった。真摯な光が浮かんでいて、だからこそ苦しげに見える。
「何か飲む?」
いらない、と首を振ると、そっと抱き締めようと両手を伸ばしてくる。私はその手をかわして、振り向いた。
「私、距離を置こうって言ったはずよ」
きつい口調を装ってそう突きつけると、えっちゃんは何かを ―― 恐らく苛立ちを抑えるように髪をかきあげ、溜息をついた。
「それは別れるってこと?」
「……っ、」
あえて直接的な言葉を避けていたことを持ち出されて、息が詰まった。答えられずに黙り込むと、ちひろ、と低い声で促された。もう、逃げられないのかもしれない。ぐっと手の平を握り締めて、まっすぐ見つめ返す。
「そう。別れましょう、私たち」
ただ一言。
その一言を言うのに、随分と長い時間がかかった気がする。ようやく口にできた言葉に、安堵する気持ちが大きいけれど、ほんの少しの後悔と、今にも崩れ落ちてしまいそうな気力を感じていた。少しでも気を抜いたら、涙が溢れてきそうだった。もう一度えっちゃんの腕が伸びてきて、今度は避けることすら許さない強さで身体を抱き寄せられた。
「えっちゃん!」
離して、と腕の中でもがくけれど、ぎゅっと身動き一つできなくなるように深く抱きすくめられてしまう。久しぶりの抱擁に、心が歓喜を感じたけれどそのまま身体さえも任せるわけにはいかなくて、突き放すように言う。
「離してっ」
「 ―― できるのか?」
耳元で囁かれる熱い吐息に身体が竦む。ゆっくりと抵抗する力が抜けていってしまう。
「ちひろ」
甘く、低い声に優しく呼ばれる名前は、切なく胸の中に落ちていく。どうすることもできなくて、そっと手をえっちゃんの背中に回した。広い胸に頬を預けて、ぴったりと寄り添う。その声と同じ、甘く誘う香りに包まれて、胸が苦しくなる。だけど、零れてきそうになる涙を堪えるにはそうするしかなかった。
「ちゃんと話そう。三ヶ月前になにがあった?」
息苦しさにどうにかなりそうだった。それでも、喘ぐように呟いて、首を振る。
「……なにも。なにもない」
「おまえが話さないなら、俺も別れない」
熱い唇がそっと耳たぶに触れる。断言している声は、懇願する響きがあって、悲しくなった。
「 ――― 愛してる」
甘く掠れた声で囁くえっちゃんの大きな手の平が頬に触れて、顔を上げさせられる。見つめてくる瞳には不安そうな顔をしている私が映っていて、堪えていた涙が頬を伝って落ちていくのが見えた。
とんっ、とえっちゃんの胸を拳で叩く。
「卑怯よ……」
呟いて、もう一度。とんっ、と悔しさをぶつけるように、叩いた。
「知ってる。だけど、この手は離せない」
拳を優しく包まれてしまう。
愛しげに見つめてくる瞳を逸らすことはできなくて、降りてくる唇を拒むことはできなかった。
◆
バスローブを着て窓辺に立つと、遠くから薄白い光が差し込んできているのを見つけて、もう陽が入る時間だと気づいた。結局、昨夜はえっちゃんと別れることができないまま、成し崩しに関係を続けることになって、自己嫌悪に陥る羽目になった。
せっかく勇気を出して、別れようって口に出せたのに。
確かに監督が言っていた通り、全力で情熱を傾けてくるえっちゃんを拒むのは容易くないと思い知らされた。魅力的な男性が、更にその魅力の見せ方を熟知していて、そのすべてで捉えようとしてくるのだから、平凡な女性でしかない私には抗う方法が見つからない。
「 ―― 起きてたのか」
いつのまにかシャワーの音は途切れていて、振り向くとバスローブを纏った彼が髪を拭きながら出てきた。上機嫌に近づいてくるのを軽く睨みつける。
「服と財布がないと、帰れない」
「服はクリーニングに出したよ。十一時に持ってくるように伝えたし、財布は金庫に入ってる」
髪を拭いたタオルを肩にかけて、まるで子どもが悪戯を暴露するときのようなやんちゃな笑みを浮かべながら言う。
「金庫の鍵は?」
「部屋中をひっくり返してみる?」
その答えは明白。明らかに高幡悦のために用意されているいくつも部屋があるスイートルームを隅から隅まで探していたら、それこそ一日以上かかる気がするし、恐らくそれでも見つからずに疲労が募るだけ。わかって聞いてくる彼に、もう呆れるしかなかった。
「いいわよ、もう。ちゃんとお昼には返してね」
オフは今日の昼までと言っていた言葉を思い出してそう釘を刺すと、わかってるとようやく満足がいく返事が返ってきた。こんなやり取りは久しぶりの気がする。頬が緩みそうになるのを誤魔化すために、窓の外に視線を向き直した。後ろから優しく抱き締められる。そういえば、と不意に思い出したように訊かれた。
「あいつ、お気に入り?」
あいつ、と咄嗟に誰か思い浮かばずに首を傾げると、今度の舞台の主役、とヒントをくれて、たちまち和紀の顔が浮かんだ。
「なんでそんなこと……」
「さあ。ちひろは顔にすぐでるから。あんなに楽しそうに笑う姿を初めて見た気がする」
その言葉が昨日の和紀との廊下でのやり取りだとわかって息を呑んだ。
「いつから見てたのっ」
驚いて振り向くと、からかうような口調とは違って、真剣な目が見つめてきていた。非難しようとする言葉は彼が纏う雰囲気に飲み込まれてしまう。さっきまでの軽い口調の言い合いに元に戻ったような気がしていたけれど、まったくの思い違いだったことがわかった。迫力がありすぎて、怖すぎる。見つめていられずに、視線を下げてしまう。もう一度、えっちゃんに背中を向けた。
だってえっちゃんといるときは、心から笑えないじゃない。頭の片隅には奥さんの存在がある。ばれたらスキャンダルで私もえっちゃんも仕事に影響する。和紀と同じように言いたい放題はできない。我慢するしかなくて。たいていそれは私。それも言えない。
「私はえっちゃんといるときも楽しいし、幸せよ。知ってるでしょう」
返ってきたのは微笑み。
窓の外は昇り始めた太陽の光で青い空が広がり始めているのに、えっちゃんの微笑みは、真っ暗な空に置いてけぼりにされたぽつんと丸い月みたいな面影があって、窓硝子にうつる顔はひどく頼りない。
身体に回されている手に力がこもる。
「不安だな」
「どうしたの?」
彼は珍しく躊躇うように、口を閉ざす。本当にそれは珍しくて、自然と声が柔らかくなる。気遣うように問いかけると、ぐっと引き寄せられた。
「監督から連絡が入って、俺の舞台練習への入りは二週間後になった。それで前々日まで海外での仕事が組み込まれたから、傍にいられない。その間に新人相手におまえを奪われそうで」
その言葉を聞いて、えっちゃんが急に強引になった理由がわかった気がした。回されている腕に手をかけて、微笑んで見せる。
「だいじょうぶよ。彼は関係ない。ふたりの関係は変わらないわ」
――― そう。ふたりの関係はなにも、変わりはしない。和紀とのことは、えっちゃんには関係ないように。
安心させるように窓越しに見つめて言うと、後ろから顎をつかまれて振り向かされる。唇が重なって、熱い吐息が零れ落ちていく。
「ちひろはすぐ顔に出るって言っただろう。言葉だけで誤魔化せないよ」
釘を刺すような口調に、小さく息を呑む。
えっちゃん、と悲しげに呼ぼうとした名前は甘く ―― 苦い口づけの中にとけていった。
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