たとえば、君に ――
02. 届かない想い
相模さんっ、と縋るような視線を周囲から向けられて、困惑した。いつものことだとは思うけど、いつもより酷い気もする。そう思った矢先から、怒鳴り声は響き、長テーブルの上にかろうじて残っていた空っぽの灰皿が床に叩きつけられ、がしゃんっ、と激しい音をたてた。
「おいっ、そんなんが友一かっ! お前が演じる友一はそんな軽い気持ちで女に惚れんのかよっ!」
怒鳴り声を聞きながら床に散らばっている、パイプ椅子、ラジカセ、まだ中身の残っているペットボトル、用意されていた参考資料、ばらばらになっている白や赤や黄色のチョークに視線を向ける。最後に、怒鳴りつけられている相手、和紀を見ると、白い練習着は汗でべっとりと濡れていた。それでも、一生懸命に監督の意図を ―― 演じる主役の気持ちを汲み取ろうと、必死になっているのは伝わってきた。
「 ―― 止めないんですか、相模さん。まだ始まって三十分ですよ。これだと彼、持たないでしょ」
スタッフのひとりがこそっと話し掛けてきた。
「何で私なんですか……」
疲れたように溜息をつくと、すいませんと、謝られる。
「いつも、監督と俳優の間には高幡さんか相模さんが間に入ってくれてましたから、つい」
それは監督との付き合いが長いし、性格も掴んでいるからどのタイミングで、どんな言葉をかければ宥められるかわかっている ―― 最も宥め方がうまいのは奥さん ―― だけど、今回はそのタイミングのすべてを逃してる。そもそも三十分でこんなに激しいやり取りになるなんて、想像もしていなかったし、あまりにも緊張感がぴりぴりと突き刺してくる空間の中では、呼吸一つさえ息を潜める必要があった。
( ―― でも仕方ないのよね。えっちゃんとの練習まで二週間足らずなんだから。)
その焦りが恐らく監督にもあるんだろうってことはわかる。他のスタッフもきついとは思っているけど、仕方ないと見守っているしかない。
「そんな言い方で伝わると思うっていうのか!」
再び怒声が飛び交う。
それでも、声がかけられないのは、監督のせいだけじゃない。和紀も必死の形相で、耐えている。違う、少しでも演技を吸収しようと一生懸命で、負けたくないという気持ちが痛いほどに伝わってくるからだ。確かに、たった三十分でも最初に比べて月とすっぽんの差があった。それがまだ、一場面のことであったとしても。
「ギリギリまで見守りましょう」
わかりました、とスタッフは頷いて、私も和紀から目を離さずに見守り続けた。
休憩は予定よりも早目に取られることになった。和紀の体力が限界になるよりも、監督の疲労が濃くでてきてしまったからだ。まだ大丈夫、と強情を張る監督を宥めすかして脅し、半ば無理矢理休憩を取らせた。今、監督用の控え室でマッサージを受けてもらっている。マッサージの人にとりあえず、顔色がよくなるまでは逃がさないで下さいと言い置いてから、あとは他のスタッフに任せて控え室を出た。さて、と。勢いをつけて、踵を返す。
「 ―― 休憩するときはしないと、集中力持たないよ」
控え室を探してもいなくて、やっぱりと思いながら練習室に向かうと、台詞が聞こえてきた。ドアを開け、練習している和紀に声をかけて、ぽいっとペットボトルを投げる。
「サンキュ!」
唐突でも見事にキャッチして、それが水であることを確認すると、一気に顔を上向けて顔面にかけた。汗が流れ落ちて、かわりに髪も服も水に濡れていく。和紀は端に置いていたパイプ椅子にかけてあるタオルを取って、髪や顔を無造作に拭いた。そのまま疲れたように座って、長く息を吐き出す。その様子を私は黙って見ていた。
「千尋さんも、座って」
ふと気づいたように手近にあった椅子を引き寄せると、そう勧めてきた。頷いて、和紀の前に座る。いつもはふわふわの綿菓子のような髪も汗でぺちゃんこになっていた。前髪は額に張り付いていて、ファンの子が見たらがっかりしそうだと思ってしまう。それだけ必死なんだろうけど。
「なぐさめに来てくれたの?」
明るい口調には自嘲する響きがこもっていて、落ち込んでいることが伝わってきた。あれだけ人前で怒鳴られたら当然かもしれない。しかも、これまで有望株の新人として甘やかされてきたのなら。
私は肩を竦めて、「そうしてほしい?」と問い返した。だけど、和紀はそれには返事をせず、あーあ、と天井を仰いで息をついた。
「ここまでダメだといっそ、清々しい」
「ダメばっかりじゃないわよ」
えっ、と驚いた顔で見つめてくる。
「さっき監督と話してたんだけど、見込みはあるって。じゃなかったら、休憩なんて取らずに公演中止にしたって言ってたわ」
真っ黒い目が大きく見開かれて、次第に嬉しげな光が宿っていく。それを見て、私も嬉しくなってくる。最初あの脚本を書いたときに、あの内容が実際に動いたりするのを見るのは恥ずかしくて、居た堪れなくて嫌だと思っていたけれど、和紀が演じているのを見て意外にも受け止めることができた。
(そう。私はこういう感じで書いたんだ ―― 。)
和紀の動きが、場面のひとつひとつでの登場人物の気持ちを甦らせる。主役の男が現実の中で曝け出されてくる感情とどう向き合っているか、ということを。まだ和紀の不器用な演技の中ではそれが全部とは言えないけれど、演技している最中に同じ空間にいれる程度には受け入れられていた。そう思わせることができたのは、やっぱり和紀の演技力がゼロではないということで、監督もちゃんとそこは見抜いていたみたいだった。
「あとは和紀の努力次第よ」
私が言うと、急に生き生きとした輝いた顔になって、和紀は頷いた。
「負けないって約束したもんね。よっしゃあ。元気出てきたっ」
ガッツポーズを作った和紀は、再び脚本を手に取り練習を再開させようとして、ふと思い出したように私を見た。
「そうだった。明後日、オレね。仕事が午後からで朝早くコロを散歩に連れて行くけど、千尋さんも一緒に行く?」
目を輝かせて訊いてくる和紀に、遊んで遊んでとじゃれついてくるコロの姿が重なって、思わず頬が緩みそうになった。久しぶりにまた、あの懐かしい海の匂いの中で、思いっきり身体を動かすのもいいかもしれないと思った。きっと、いろんなことを忘れられる。それに ――― 。
「千尋さん?」
「行く。行きたいわ」
私がそう答えると、和紀はじゃあ約束、と嬉しそうに笑った。今度こそ、練習を続ける。その様子を見守りながら、私は気持ちがあったかくなっていくのを感じていた。
今、えっちゃんはこの海の向こうにいるんだ、と遠く地平線を眺めながら思った。雲ひとつなく、すっきりと澄んだ青空が広がり、海の青と混ざり合って、心に燻っている感情のすべてを流していってくれるような気がした。それでも、えっちゃんのことを思い浮かべてしまって、そのことを自覚した途端、傷ついてしまう。その傷が、また、ぞろりと心の奥深くに押し込めた暗くてじめじめしたものをうごめかせる。忘れてしまいたいのに。このまま、奥深くで眠っていてくれればいいのに。
――― わんっ!
犬の吠える声が聞こえて、私は地平線に背中を向け、浜辺を全力疾走で走ってくるコロッケとその後を必死に追いかけてくる和紀を見つけた。
「コロッケ! 久しぶりっ!」
私が両手を広げて待っていると、走ってきた勢いのままコロッケは飛びついてきた。流石に耐え切れなくて、べしゃりと尻餅をつく。だけど汚れることがわかっていたから、今日は古着を履いてきていた。ジーパンに長袖の白いTシャツと厚手だけど大き目で動きやすい上着。
コロッケはぺろぺろと嬉しそうに顔を舐めてくる。
「コロ……。おまえよっぽど千尋さんがお気に入りなんだな」
呆れたように言う和紀に「私もコロッケが好きよ」と笑ってぎゅっと抱き締める。ふわふわの毛がくすぐったくて、爽やかな石鹸の匂いがした。
「はいはい。両想いでよかったですね」
苦笑するような、少し拗ねたようにも聞こえる和紀の口調に顔をあげる。ふてくされた子どものようなその表情が、なんだかとても可愛らしくて吹きだしてしまった。
「コロッケを取られて拗ねてるの?」
大人気ないご主人様ですね、と同意を求めると、わんっ、とコロッケが楽しそうに吠える。やっぱり面白くない顔で和紀は、はいと手を差し伸べてきた。その手に捕まって、立ち上がる。ぐいっと引き寄せられた瞬間、その強さにバランスが取れず、和紀の腕の中に倒れこんでしまった。ふわり、とコロッケと同じ、石鹸の匂いが鼻腔を擽り、急にぬくもりに優しく包み込まれて、戸惑う。
「ゴ、ゴメンっ!」
慌てて離れようとして、そのまま和紀の両腕が身体に回される。
「 ――― 和紀?」
怪訝に感じて名前を呼ぶと、耳元で囁かれた。
「拗ねてるのは、千尋さんを取られたからだよ」
「和紀っ?!」
囁かれた言葉に驚愕する。そんな、まさか。なんで、いきなり ―― 頭の中が真っ白になった。
「って、言ったらどうする?」
不意に身体を離されて、顔を覗き込まれる。
「は?」
真っ黒い目が悪戯っぽく煌いているのを見つけて、ようやくからかわれたことに気づいた。途端に、怒りがわきあがってくる。
「オレをからかったお返しだよ。ほらっ、逃げるぞ。コロッケ!」
前回、私が和紀に海水をかけたときとは逆に、今度は彼がコロッケと一緒に駆け出した。一瞬でも本気にしたことが恥ずかしくて、ばかばかしくて、そんな自分自身に呆れ返りながら、その全てを誤魔化すために怒ったふりをして、逃げていく和紀たちの後を追いかけていった。
少し冷たさを含んでいる風は、動かしたばかりの身体には心地よかった。汗をかいたまま、この風に当たっているのは危険かもしれないと思いながら、まだ帰ろうという気にはなれなくて、二人で浜辺に並んで座っていた。
――― よかった。
ほっと胸を撫で下ろして言われた言葉に、私は首を傾げる。
「元気出たみたいで」
「だれが?」
不思議に思って訊くと、和紀の黒い目がじっと私を見つめてきた。その目が「千尋さん」と言っているようで、苦い思いがこみあげてくる。私は強張りそうになる顔で無理やり微笑みを浮かべた。
「よくわかったね」
「千尋さんって顔にでてるのに、誤魔化そうとしてるから無理が出るんだよ」
だから実は丸わかり、とにっこり笑顔を向けられる。つい最近にも言われた言葉だと、胸が痛くなった。和紀の言葉はより直球で、溜息が零れてしまう。
「……散歩。だから誘ってくれたの?」
「少しでも千尋さんの力になりたかったから。いつもオレばっかり励ましてもらってるし」
――― そんなことない。
和紀の笑顔や、一生懸命さや、言葉に私も救われている。そうじゃなかったら、私はいつまでたっても、えっちゃんに言えなかった。距離を置こうとも。別れようとも。言葉にできなかった。ただ誤魔化しながら、少しづつ少しづつ離れていくだけしかできなかったと思う。実際には、また関係を持ってしまったとしても、言葉にできたことと、黙ったままでは、気持ちが違う。きっと、向かう方向も ―― 。
「私も元気を貰ってるわ。でも、―― 有難う」
心を込めて言うと、和紀は「どういたしまして」と自分の胸に手を置いてかっこつけた仕草で口にした。何も聞こうとせずに、こうして気にかけてくれて励ましてくれる和紀の存在をありがたいと思った。
「ああっ!コロ!!」
和紀が急に叫んで立ち上がり、駆け出した。視線で追い掛けると、コロッケが子供の作った砂の城にダイビングしようとしてるところで。
べちゃ。
止める間もなく、コロッケは見事なダイビングを果たした。更にその場所でごろごろと楽しそうに寝転がっている。呆然としている子供たちに困った顔で和紀はごめんなさいと謝り、だけどすぐに彼は子供たちと打ち解け、一緒に砂の城を作り直すことになったみたいで、最終的には子供よりもはしゃいでいた。
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