たとえば、君に ――

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  03. 届かない想い  

 泥だらけで汗まみれのコロッケと和紀を放っておくことができず、別荘に誘った。舞台中に風邪を引かれたら困ると言って、半ば強引に。浴室で一緒にコロッケを洗って、私がリビングで乾かしているうちに彼はシャワーを浴びることになった。
 「はい、終わりよ」
 そう言ってコロッケを放すと、嬉しそうにわんっ、と一声吠える。私はそれに満足してキッチンに足を向ける。珈琲メーカーをセットして、時計を確認するとまだ九時にもなっていない。少し遅い朝食の準備をすることにした。

 「……あれ。味噌汁? いい匂いだね」
 髪をタオルでガシガシと乱暴に拭きながら、浴室から出てきた和紀はくんくんと鼻をならした。
 「今日、パン一枚と牛乳一杯しか食べてなかったから。和紀も食べる?」
 鍋の中でおたまをかき回しながらうなずく。
 「いいの? やった、お腹空いてたんだよね」
 期待に満ちた顔で言って、キッチンカウンターの前の席に座ると、肘を突きながら見つめてくる。なに、と促すように訊くと、彼は懐かしそうに目を細めた。
 「なんだか久しぶりだなーと思って。女の人が料理を作ってるところを見るの」
 「彼女いないの?」
 「忙しいしね。芸能界に入ってからはぱったり。新人はつらいよ」
 そう笑って肩を竦めた。つらい、と言うわりには、その口調はなんでもないことのようにさっぱりとしている。
 「あー、千尋さん。オレ、卵焼きは甘いのは苦手!」
 ボールに入れた卵に砂糖を加えようとしたところで、急に制止をかけられて手が止まる。了解、と頷いて再び手を動かした。
 「私も昔は甘いの苦手だったなー」
 お祖母さんの作ってくれる卵焼きは砂糖は使わない。だけど、ふわりとしていて、秘伝の隠し味と教えてくれた味噌で作られたソースがかかっていた。
 「オレ子どものころからそうなんだけど、味覚って変わる? 今は大丈夫なんだ?」
 不思議そうに訊いてくる和紀に曖昧に笑って、久しぶりにお祖母さんのやり方で作ることにした。
 和食でそろえたテーブルに和紀は感激の声を上げて、目を輝かせた。その素直な反応を見ていると照れてしまう。誤魔化すように、彼の前に腰を落ち着かせて食べるように促した。
 「いっただきまーす」
 早速卵焼きに箸をつけて口の中に放り込んでいく。まるで、子どもに食べさせているみたいで、私は苦笑した。それに気づいて、和紀は眉を顰める。
 「久しぶりなんだよ。こういうの食べるの」
 「手料理?」
 うん、と頷かれて、次の瞬間には再び料理に箸をつけていく。美味しいと連呼されて、嬉しくなりながら、栄養のバランスが取れてるのかつい、心配してしまった。

 「それにしても、ここってダンボール多いね」
 食後の珈琲を飲みながら、和紀は部屋の中を探索し始めた。別に見られて困るものもなかったし、私はその後に続いて、うなずいた。
 「今回の舞台が終わったら、自宅マンションを売ってここに越してこようと思ってるの。少しづつ荷物を移動中」
 まだ誰にも言ってないんだけどね、と何気ない口調で釘を刺しながらそうこたえると、ふーん、と曖昧な相槌が返ってくる。ダイニングに戻ってくると、テーブルの下でコロッケは転寝していた。
 「なんだか、この別荘ってさ。懐かしい匂いがする」
 そう言いながら、和紀はベランダに移動していく。
 すっかり太陽は昇りきり、その光が遠くに見える海の水面を煌かせていた。柵に身体を乗り出しながら、それにいい景色だね、と彼は目を細める。私はデッキチェアに座って、そうねと相槌を打った。
 懐かしいのは、きっと風が運んでくる海の匂いだと思う。小さい頃からこの別荘がお気に入りだった私には、やっぱりこの光景も、別荘の雰囲気も、海の匂いも、故郷のようなもの。和紀は時折、手に持っている珈琲を啜りながらそう話すのを黙って聞いてくれていた。
 「オレもかな、海の側で育ったから。海の匂いは懐かしいよ。だからつい、コロッケを散歩に連れてくるのかな」
 最近は特に、建物だらけの中にいることが多いから、と肩を竦める。後は、移動で車には乗るけど、景色見る間もなく寝ちゃってたりするしね。そう言って苦笑する和紀の言葉を今度は私が黙って訊く。手に持っている珈琲を口にしなくても、和紀の話している姿を見ているだけで、心がほんわりと温かくなっていくような気がしていた。

 午後はダンボールの片づけをすることにした。今はまだ、舞台があるから自宅マンションにいる必要があるけれど、そのうち荷物を全部運んでくることになる。少しづつ整理しておこうと思った。これまでは別荘として使っていたから、掃除していない場所もあって、すべてが終わったときには外は真っ暗になっていた。
 窓は開けっ放しで、入ってくる風は肌寒かったけれど、波の音が聴きたくてそのままにしておいた。ソファに膝を抱えて座ると、溜息が零れた。朝からコロッケと走り回って、引越しの片づけをして身体はすっかり疲れてる。いつもは眠れないこの時間も、今日はぐっすり眠れそうな気がした。それに、夜が深まるにつれて静けさを増していく自宅マンションとは違って、この場所は波の音が規則正しく包み込んでくれる。小さい頃から慣れている私にとっては、なによりも懐かしくて安心する音だった。

 ――― 千尋にとってここは逃げ場所ね。

 いつだったか、私がここを好きだというと、お祖母さんは仕方なさそうに笑った。そんなつもりはないけど、と不満げに頬を膨らませると、くしゃりと髪の毛を撫でられた。学校で嫌なことがあったとき、悪戯をして叱られたとき、私はいつもここに来る。ここで、それまで我慢していた悲しさとか苦しみとか、もどかしさを吐き出すように泣きじゃくる。聴こえてくる波音が、嫌な感情は全部包み込んで引き取ってくれるような気がしたから。我慢して、我慢して、心の奥底に閉じ込めて、それでも鍵ができなくなったら、この場所にきて、泣いた。
 そんなことを思い出したせいか、それとも、泣くための言い訳にしたかったのかわからなかったけれど、頬を涙が伝っていった。抱え込んでいた膝頭が冷たく濡れていく。
 堪えようとしても零れ落ちる嗚咽は、波音に優しく紛れていく。それを聞いていると、まだ大丈夫だと思える。それでも今は、心の奥に溜まったすべてを吐き出すために、泣き続けていたかった。


 練習が始まる前、スタッフ全員に明後日から高幡悦が練習に入ることを告げられた。士気があがって、より一層の熱がこもる。脇役であったとしても、彼の演技を見ることができると期待に満ちていることがわかった。何度間近で見ても ―― いや、見るたびに惹かれてしまう。そんな俳優だから。

 「まあ、アレならなんとかなるだろう」
 疲れきったため息をついて、監督が隣の椅子に深く座り込んだ。ちらりと見て、再び前で演技を続けている和紀に視線を戻してから、頷いた。
 「今までの高幡悦の共演者と同等にはあがってますよ」
 「ああ。あとは、悦が脇役だと自覚を持ってくれればな」
 そう言った監督の何かを含んだ口調に気づいて、顔を向けると複雑な視線を向けられていた。なんですか、と首をかしげると、溜息を返される。
 「…………橘和紀に惹かれてるのか?」
 あまりに直球すぎる問いかけに、息が止まった。答えを返せないままでいると、監督は肩を竦めた。視線を和紀に向けて、周囲に聞こえないように声の音量を下げる。
 「俺の奥さんは鋭いからなー。あいつが言ったんだよ。千尋ちゃんは誰か好きな人がいるんじゃないかってさ。最近おまえと関わってるのは、あの男くらいだろ」
 「奥さんが……」
 そんなにわかりやすかったかな。
 急に恥ずかしくなって、持っていた脚本で顔を隠した。
 「もしそうなら、早目に決着をつけろよ」
 え、とあまりに真剣な口調で言う監督に視線を向けると、怖いくらい真面目な顔をしていた。その顔には気遣うような表情が浮かんでいる。
 「おまえも、限界じゃないかと思ってさ」
 随分、寝不足で疲れた顔をしている、と指摘されて、ぎくりと顔が強張るのを感じた。化粧でできる限り誤魔化しているのに。そうぼやくと、ばかやろう、と呟かれた。
 「そんなんで誤魔化せるのは、おまえに興味のないスタッフたちと、まだまだ経験の浅いお子さま橘和紀だけだ」
 その言葉はつまり、えっちゃんは気づくと言っているようなもの。謝罪するのは間違っているような気がして、それだったら確かに監督の言う通り、早く決着をつけることが一番いい。だけど、舞台が始まるときにそんなことを持ち込んでもいいものかと思ってしまう。私の危惧に対して、監督はあっさりと一蹴した。
 「あいつらは役者だ。仕事にプライベートは持ち込まないし、俺の舞台である以上、持ち込ませない。だから遠慮は要らんぞ」
 その自信満々な言葉に吹きだしかけて、再び慌てて脚本で顔を隠した。監督が言うのなら、そうなんだろう。
 「やっぱり、女は笑ってないとな」
 苦笑しながらそう零されて、今度こそ笑い出してしまった。


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