たとえば、君に ――

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  01. 過去の残像  

 それまでわずかなりとも雑音がしていたのに、一気に静まり返り、その場にいたスタッフ全員が息を止めたかのように動かなくなってしまった。練習室にピンと糸を張ったような緊張感が漂っていて、まるで唾を飲み込む音さえ響き渡り睨みつけられそうな雰囲気がある。誰もがその視線を釘付けにされていた。

 「……まずいな」
 唸るように監督がぼそりと言葉を発っする。そう言いながらも、やっぱり監督の視線は目の前で演技を繰り広げている二人の姿に縫い止められているようだった。私も身動きができずに、息をひそめて見ていることしかできない。
 これまで練習してきて確立されてきていた和紀の演技が乱され、ちぐはぐになっていた。台詞もほとんどが棒読みになっている。それほどに、高幡悦の演技に引きずり込まれて、飲み込まれてしまっていた。続いているのは、脇役であるはずの彼がほとんどムリヤリ引っ張っているからに過ぎない。普通は、そのちぐはぐな空気が目立って異様な雰囲気が漂ってしまうのに、自然な流れとして受け止められてしまっているから、余計に違和感を覚えてしまう。その証拠に、監督の歪んだ表情とは裏腹に、スタッフたちは素晴らしいとばかりに目を輝かせ、感嘆のため息をついている。
 (主役がかすんで見えてしまう……。)
 このままだと、舞台を見に来た人たちの心には高幡悦しか残らないだろう。和紀の印象は主役にも関わらず、薄れてしまい、批評家たちはこぞって、主役の力不足を口にし、書きたてるはず。これまで頑張ってきて、少なくとも他の事務所の後ろ盾で主役を得たタレントたちよりも上手くなった和紀が非難されてしまう。
 そう思った瞬間、ぎゅぅっと心臓がつかまれてしまったかのように痛んだ。その瞬間、ばさりっと場違いな音が大きく鳴った。
 はっ、と我に返ったようにスタッフの人たちの視線が私に注目して、手にしていた脚本を落としてしまっていたことに気づいた。慌てて拾い上げると、監督もようやく呪縛がとけたかのように立ち上がった。
 「おいっ、とりあえずそこまでだ。悦、ちょっとこい」
 その声に二人は演技を止めた。和紀はほっとしたように息をついて、マネージャーがもっていたタオルを取りに行った。その隙に、監督が丸めて持っていた脚本でえっちゃんの頭をはたいた。
 「おまえ、仮にも先輩俳優なんだぜ。しかも今回の役は脇役だ。自覚しろっ」
 「彼はまだ主役を演じるには力不足に感じました。脇役が引っ張らないと成り立たないと判断しただけです」
 礼儀正しい口調でありながら、棘がこもっている言葉に、監督がため息をつく。 周囲のスタッフたちも彼の言葉に納得するように頷いていた。恐らく、これが異様だと気づいているのは私と監督だけかもしれない。気にかかって和紀に視線を向けると、マネージャーにさえ「もっとしっかりしろ」と声をかけられている。タオルを頭にかけて俯いているから、顔が見えない。不安な気持ちが大きくなる。
 「だが、おまえ ―― 」
 更に監督が注意しようとすると、和紀が二人の前に駆け寄ってきた。

 「すみませんっ、オレの力不足です。少し休ませてください!」
 頭を深々と下げて、そう謝罪する。あまりにも痛々しく見えた。

 監督がため息混じりに「十五分休憩だ」と告げると、その言葉に御礼を言って、和紀は足早に練習室を出て行った。私はその姿にたまらなく胸が痛くなって、つき動かされるように後を追いかけていた。


 和紀がいたのは、通しが行われるための舞台がセットされている場所だった。舞台上に膝を抱えて座り込んでいる。照明がついていないから、真っ暗で和紀の顔は見えなかった。和紀、と声をかけて近づいていくと、俯いていた彼はゆっくりと顔をあげた。泣いてはいなかったことに、ほっと胸を撫で下ろす。

 「ガツンとなった。正直、きつかった……」
 あーあ。苦笑いを零して、和紀はくしゃりと真っ黒い自分の髪をつかんだ。切り裂かれた心をつかみとるように。

 纏わり付く影は容赦なく和紀を、私をも飲み込もうとする。たまらない。心が悲鳴をあげる。泣かないでと言いたかった。実際には泣いていなくても。苦しまないでと労りたかった。だけど、そのすべてが必要ないものにも思えた。ただ虚しく立ち尽くしているしかない。

 どれくらいそうしていたかはわからない。和紀はその場で何かに耐えるように疼くまっていた。彫刻にでもなったかのように身動ぎ一つしなかったし、私はギリシャにある神殿の大きな、冷たい石の柱になったみたいにぴくりとも動かないままだった。

 「……千尋さん」
 やがて、二人の間にまっすぐな声が落ちた。まっすぐだった。落ち込んだ気配もなく、悲しむ含みもなくて。決意のこもった、まっすぐな。その声につまりそうになりながら、なんとか返事をした。
 「なに?」
 「諦めないよ」
 えっ。
 聞き返す声に重なって和紀はまっすぐに立ち上がるとあの生意気な笑顔を見せた。諦めないよ。繰り越し告げる言葉は自分に言い聞かせているみたいだった。力強く、少しだけ悲しい。
 諦めない。
 その笑顔と言葉は二人を取り巻こうとしていた闇を打ち払う。

 「傍にいてよ、傍にいて見ててよ。俺はいい役者になるから。みんなが認めるような」

 「……できるよ」

 自然に零れ落ちていた。小さく零れた声を今度は和紀が聞き返してくる。

 「できる。和紀ならすぐに追いつけるわ。そして追い越せる」

 慰めるためでもなく、持っている好意からでもなく、これまで間近で見てきた経験から言った。どん底に落とされて更に踏みにじられてきても、和紀は諦めないと言った。素質があるのはわかって、更に強さも。必要なのはその、しなやかな強さだった。だから私もできる、と言い切ることができた。

 和紀はニッコリと笑って、とんっと照明のついていない舞台の中央に飛び乗った。

 「ぼくは君を諦めることはできない!」

 全身で叫ぶ。
 心が震える。自分で書いた脚本の台詞が、ただの文字が、書いたときのイメージそのまま、風景として目の前に現れてくる。友一だ。私の前で寂しく、力強く叫んだのは、南を必死に引き止めようとする友一だった。
 私は誘われるように舞台に立つ和紀の傍に向かった。そうして続く、友一が愛する女性、南の台詞を口にする。
 「私はあなたの傍にはいられません」
 「それはぼくを愛していないってこと?」
 南は首を振る。切なく友一を見つめながら。
 友一は引き止める言葉を口にしようと開きかけて、何かを訴えようとする南の切ない瞳にぐっと掌を握りしめる。唇を強く噛み締めて、顔を逸らしてしまう。

 その目には涙が。

 「和紀……」
 思わずそう零してハッとなった。和紀も驚いたように私を見る。
 「千尋さん……」
 てっきりダメだしでもされるかと思ったのに、和紀の瞳は真剣だった。胸が苦しくなる。真っ黒な目には甘やかな光が浮かんでる。好きだと。情熱が訴えてきていた。逸らせない。そっと、和紀の手の平が頬に触れる。甘く、苦しい痺れが走り抜けていく。心も身体も伝わる熱に従ってしまいそうだった。和紀の親指がゆっくりと唇を撫でていく。背筋がぞくりとした。熱い吐息が近づいて、 ―― 重なる、とその瞬間、がんッと大きな音が鳴り響いた。

 「 ――― っ!」
 慌てて和紀から離れる。

 「高幡さん……」
 和紀の声に驚いて振り向くと、入り口にいつも纏っている余裕が欠片も見えない、苛立った顔つきをしてえっちゃんが立っていた。睨みつけるような視線が責められているように思えて、足を引いてしまう。それに気づいたのか、和紀が背中に庇ってくれた。
 「高幡さん。オレに用事ですか?」
 「ちひろ」
 ぎくりと身体が強張った。絶望が押し寄せてくる。和紀の言葉を遮るように呼ばれた名前に息が止まった。どうして ―― 。その甘く、優しい声が今ほど恨めしく思ったことはない。そんな呼び方を仕事場でするなんて。
 えっちゃんを凝視していると、和紀が怪訝そうに「千尋さん?」と呼ぶのがわかった。
 「ちひ ―― 」
 「あっ、えっと。今すぐ行きますっ!」
 繰り返し呼ばれる前に私はわざとらしくても大きな声を出して、隠れていた和紀の背中から飛び出すと、舞台を降りてえっちゃんに駆け寄っていった。今は暴走している彼を止めることが先決だと思った。心のどこかで、えっちゃんとの関係を知られたくないと思ったのかもしれない。まだ、誤魔化せる。これ以上は ―― 。
 「行きましょう、高幡さんっ」
 えっちゃんの腕を掴んで引っ張る。動こうとしない身体を両手でムリヤリ連れていこうとすると、和紀をまっすぐ睨んでいたえっちゃんは、諦めたようにため息をついて踵を返してくれた。
 「千尋さんっ!」
 「和紀、さっきの調子なら大丈夫!」
 扉の前で振り返ってそう笑う。一瞬目を瞠り、すぐに和紀は嬉しそうに笑顔を見せてくれた。その笑顔に心が温かくなりながら、先に出て行ったえっちゃんの後に続いて、扉を閉めた。

 外で待っていたえっちゃんは、無言で後をついてくるように促して歩き出した。広い背中は怒りと、苦しみを背負っているように見えて、私はため息をついた。

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