たとえば、君に ――

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  02. 過去の残像  

 自動販売機が小さく振動し、音を立てていた。練習室とはフロア違いのこの場所は出演者や監督、脚本家たち専用の場所だからスタッフたちも通らないし、静かだった。他の出演者たちは予定より遅れている練習計画を監督と打ち合わせしているか、この時間を使って、自分たちの場面を練習しているかもしれない。
 もうすぐ休憩が終わってしまう。早く戻らないといけない。そんな内心の焦りをできるだけ出さないように気をつけながら、隣に座って黙り込んだままの彼に話しかけた。

 「……えっちゃん。用事があったんでしょう?」

 返事はなくて、仕方がなく横を向くと、えっちゃんは上半身を壁に預けて、目を閉じていた。何かを考えているのか、纏う空気は重くて ―― それがとてつもなく怖く感じる。今から口に出されることは、絶対に私にとっていいことじゃない気がした。悪い予感 ―― それは必ず当たってしまう。急にこの場所にいることが不安になって、立ち上がろうとした。

 「ちひろ」
 その気配を感じたのか、えっちゃんの大きな手の平に引き止められた。手を繋がれて、伝わってくる温もりに泣きたくなる。あんなに大好きで、嬉しくて、幸せだったはずの温もりが、こんなにも心を不安にさせて、胸を苦しく押し潰させるものになるなんて、想像もしてしなかったのに。それでも、まだ、えっちゃんのちひろ、と呼ぶ声は優しく響いてしまう。

 名前を口にしたえっちゃんは、諦めたように長いため息を吐き出して、ようやく目を開けた。同時に、逃がさないとでもいうように、ただ繋いでいた手から滑らすように腕を掴まれる。こっちを向いて、と身体ごと向き合う形になった。

 えっちゃんのダークブラウンの目にまっすぐ射抜かれる。その真剣な眼差しに、小さく息を呑んだ。

 「……高見に話を聞いた」
 はっ、と驚いて、息をするのを忘れた。時間が止まったみたいになる。考えることができなくなって、ただ頭の中にはどうして、という言葉だけがぐるぐると巡っていた。どうして、どうして。どうして、高見さんが ―― 。まるで狂ってしまったみたいに、どうして、と埋め尽くされた頭の中で、唇からも零れてしまった。

 「どっ、どうして……」
 「監督も監督の奥さんも何らかの形では知っていると思ったけど、口が堅いからね。ちひろが言わないなら教えてくれないだろう。それで突破口を開きたくて、高見にかまをかけた」
 「だけど、高見さんは何もっ!」

 えっちゃんの冷静な説明にようやく落ち着くことができた。まだ、焦りはあっても、考えることができてくる。あのとき、あそこにいたのは監督だけで、だから知っているのは私と監督と、監督の奥さん、そして ―― 。

 「彼女にちひろの電話番号を聞かれたと白状したよ」
 「っ!」
 迂闊だった。
 心の中に押し込めて、鍵をしていたものが溢れ出してくる。まるで、昨日のことのように生々しい映像になって、甦ってくる。それに負けたくなくて、ぎゅっと手の平を握り締めた。
 「会いにきたんだろう。俺と別れるように言われた?」
 「違うっ、そんなんじゃないっ!」
 確信してるように言われた言葉を反射的に否定する。えっちゃんの目が驚いたように見開かれた。彼自身、そうだと思っていたんだろう。思わず大きな声を出してしまったことを意識して、俯いた。
 「……違うの。彼女はそうは言わなかった」
 目を閉じる。一度、開け放たれてしまった記憶は、その声とともに薄れることなく容易く思い出されて突きつけられる。

 モデルをしているだけあって、キレイな女性だった。ハーフだと聞かされた覚えがある。テレビだったか、誰かの噂話だったかは忘れてしまったけれど。ふわふわの茶色い長い髪と、キメ細かく滑らかな白い肌、切れ長の色素の薄うブラウン系の瞳。スッと通った小さな鼻に、ふっくらとした頬。ベージュの唇がやけに際立っていることだけが目についた。とても華やかで、そこにいるだけで存在感があって、一緒にいると居心地が悪くなった。最も、不倫をしている相手の奥さんといることに、居心地が悪くなるのは当然だったけれど。だけど、相手はそうは思わないのかにっこりと嫌味のない笑顔を浮かべていた。
 「私たちの場所を壊したあなたにすべてを話すつもりはないわ。ただ、私と悦さんの間にあるのは愛じゃなくて、情なの。この業界ではね、ひとりで立っていると、不安になって傍にある情に縋りつきたくなるのよ。だけど、それだって大切な一つの居場所になるわ」
 彼女は遠くを見るような眼差しを見せて、ふと瞼を伏せた。
 「それでもいいと思っていたけど、悦さんは愛を見つけてしまったのね」
 そう言って笑う顔は寂しげに思えて、胸が苦しくなる。せりあがってくる何かを押し込めるために、目の前に置かれてあった水の入ったコップに口をつけた。ごくりと感情と一緒に流し込む。
 「あなたは悦さんを愛してる? 悦さんを幸せにできる?」
 立て続けに質問された言葉に、身体が強張るのを感じた。

 ――― この業界ではね、ひとりで立っていると不安になって傍にある情に縋りつきたくなるのよ。

 たった今言われた言葉が脳裏に響く。

 祖父母も亡くなって、家族もいない、友達も少ない私はひたすら脚本を書くという仕事に夢中になった。夢中になっても、文章を打つ仕事は限りなく独りで、寂しかった。孤独で、寂しくて、そんな自分がみじめだった。だから、えっちゃんに手を差し伸べられたとき、迷わず取ってしまった。縋りつける人が欲しかった。寂しさを包んで、抱き締めてくれる人がほしかった。あの温かな手を放したくないと思った。
 (それが愛っていえる? 私はえっちゃんを愛してる? 幸せにできる?)
 離婚するといったえっちゃんの愛情を拒絶したのは私。本当にえっちゃんを愛していたのなら、あの時に別れるべきだったのに。それとも受け入れてしまうべきだったかもしれないのに。そのどちらもできなかった。

 「あなたがそれを自信を持って言えるなら、悦さんと別れてあげる。もともと、そういう約束だったしね」
 「それはどういう意味 ―― 」
 問いかけようとする言葉を遮って、彼女は席を立った。
 「言ったでしょう。あなたにすべてを話すつもりはないって」
 決然と言い放った彼女はもう用事はないとばかりに踵を返して離れていった。きれいな立ち姿で去っていく背中を呆然と見つめていた。
 「おい。あれは、悦の奥さんじゃねえか?」
 ぽんっ、と頭を叩かれて顔をあげる。監督の怪訝そうな顔があって、私は小さく息を呑んだ。そういえば、舞台の打ち合わせが入ってたんだ、と思い出して ―― 急に監督がギョッとなった。
 「おっ、おい。相模っ。おまえ、泣いて……」
 「えっ ―― 」
 焦ったような監督の言葉に我に返った。頬に触れると、とめどなく涙が溢れ出していた。その冷たさに、心が苦しくなる。大丈夫です、と俯いて嗚咽混じりに言いながらも、涙が止まらなかった。今まで愛だと信じていたものが崩れてしまって、やっぱり一人ぼっちだと気づかされたことが悲しいのか、誰かを本気で愛せない自分を知って苦しいのかわからなくなった。幸せだと感じてきたすべてのことが、偽りだったような気がして ―― 。


 気がついたときには、えっちゃんは目の前にしゃがみこんで、覗き込むように私を見ていた。その目は温かくて、いつものように愛情が滲み出ていた。どきり、と胸が高鳴る。両手で優しく手を握られた。
 「俺も最初は誰かを愛するってことがどういう意味かわからなかった。彼女が言うように、情でしか動けなかった。だけど、千尋に出会って、愛されて、だから俺はこんなにおまえを愛するようになったんだ。これが愛だとわかった」
 唐突な ―― でも想いがこもった言葉に、戸惑う。初めて、聞いた気がする。動揺している私に構わず、えっちゃんは更に続けた。
 「俺はちゃんと千尋に愛されていたよ。ただ ―― 」
 「ただ?」
 途切れた言葉尻を繰り返して、まっすぐえっちゃんを見つめ返すと、彼は寂しげに笑って、言った。

 「おまえは怖がってるだけなんだ。俺と新しい関係を結んで、築いていくことを。幸せになることを」

 その言葉が重く胸に圧し掛かる。怖くて、たまらなくなって、首を左右に振る。違うのに。そんなことないのに。どんなにそう思っても、彼の言葉を否定できるだけのものがなくて、思いつかなかった。それだけに、重かった。
 愛しげに見つめてくる視線に耐え切れなくなって、握られた手を振り払って立ち上がる。
 「ちひろ、俺は ―― 」
 「休憩はもう終わりよ。私は先に戻ってるわね」
 言葉を続けようとするえっちゃんを冷静な口調で遮って、踵を返す。それ以上は聞きたくなくて、足早に彼から離れた。見つめてくる視線は感じたけれど、えっちゃんは引き止めることもなく、私は本当は降りるはずの階段を急いで駆け上り、手摺りにもたれた。
 小さく震えてしまう身体を自分の腕でぎゅっと抱き締める。
 きっと、彼の言う通りだと思う。想像もしたことなかったから。えっちゃんとの未来なんて。時が来れば、やがて別れてしまうものだと思っていた。どんな流れであっても。だからえっちゃんが二人の将来を視野に入れ始めたとき、怖くて堪らなくなった。そんな臆病になった心を温かく包んでくれ始めているのが和紀の存在だった。まっすぐ気持ちをぶつけることができるの情熱を羨ましいと感じた。たちまち惹き付けられて、目が離せなくなった。
 「和紀……」
 あの笑顔が今すぐ見たい。人懐っこい笑顔。そうして、あの諦めないと言った強い口調で、大丈夫だと言って欲しい。弱気になっていく気持ちを誤魔化すように和紀の笑顔を思い浮かべて、まるでお守りのようにその名前を呟いていた。  


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