たとえば、君に ――

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  03. 過去の残像  

 もう、こんな時間 ―― 。
 舞台の練習は予定よりも大幅に遅れてしまった。時計の針は二時を指していることに気づいて、監督に視線を向けた。結局、あの後は監督の指導のもとで、和紀はえっちゃんが相手でも主役としての立場をちゃんと成り立たせることができた。その演技力は、もう最初の頃に比べて雲泥の差だ。自信を持って俳優だと言えそうな演技だった。仕事としてそれはちゃんと認めたのか、えっちゃんも脇役に沿った演技で練習もようやく佳境に入っていた。
 「今日はこれで終了。本番は再来週からだからなー。気合入れていけよ」
 監督の合図が入って、スタッフたちもようやく胸を撫で下ろし、ハーイ、と明るい返事が部屋の中に響いた。私も安堵して、バックに荷物を片付けるとできるだけ自然な動きでスタッフや監督に挨拶をして誰よりも先に部屋を後にすることにした。今日はもう、いろんなことがあった気がして、早く帰って休みたかった。それに練習は流れを追うだけだし、これ以上は参加しなくてもいい。後は本番のときに顔を出すくらいで ―― 。
 「ちひろ」
 呼び止められてぎくりと足を止める。振り向くと、帰り支度の終えたえっちゃんが立っていた。少し息が乱れてるのは慌ててきたせいかもしれない。どうしたの、と訊く前にマネージャーである高見さんがいないことに気づいた。
 「あれ、高見さんは?」
 「今日は別行動だったから、俺も車で来てたんだ。だから先に帰した。送っていくよ」
 「いい。今日はひとりで帰りたいの」
 反射的にそう拒否していた。すぐにえっちゃんは「ダメだ」と否定する。怖いくらい真剣な顔で、じっと見つめてくる。
 「話はまだ終わってないだろう」
 「話したくないっ」
 頑なに拒絶する私にため息をついて、更に何か言い募ろうとしてきた瞬間、遠くからえっちゃんを呼ぶ監督の声が聞こえてきた。
 「……いいから。駐車場で待ってて」
 強い口調でそう言い置くと、えっちゃんは踵を返して、監督のもとに向かっていった。私はその背中を見ながら深いため息をつく。このまま逃げても許してくれそうにない。仕方ないと、玄関口に行こうとしていた足を駐車場に続くエレベーターがある場所に向けるしかなかった。

 えっちゃんの青い車の前で待っていると、急に眩しい光が目の前で止まった。一台のバイクがエンジン音を鳴らしていた。黒いヘルメットを脱いだ姿に目を瞠る。
 「和紀?!」
 「驚いた? 今日は千尋さんを驚かそうと思ってバイクできてたんだよね」
 へへっ、と笑う和紀の笑顔に落ち込んでいた気持ちが浮上していく。
 「そうなんだ。うん、でも和紀には似合ってる」
 実際に赤いバイクに跨っている和紀の姿はそのままCMにでも使われてしまいそうなくらい、爽やかな雰囲気とかっこよさがあった。とても似合っている。素直にそう言うと、和紀は照れたように視線をはずした。バイクのハンドルを握ったり開いたりしながら、慎重な口調で問いかけてくる。
 「乗る?」
 驚いて和紀の顔を見ると、まっすぐ見つめられていた。
 「今なら先着一名サマ」
 そう言いながら、かけてあった赤いヘルメットをはずして差し出された。どきり、と胸が高鳴る。バイクのエンジン音がまるで心臓音に重なってしまっているかのように聞こえた。
 私は震えそうになる手をぐっと堪えながら、そのヘルメットを受け取る。
 「乗りたい」
 小さく呟くと、和紀は緊張していたのか、安心したように笑った。ヘルメットを被って、和紀の後ろに跨る。スカートじゃなくてよかった、とそう思ったとき、声が聞こえてきた。

 「ちひろっ!」

 えっちゃんの声だ、とそう思った瞬間に、バイクは走り出していた。あんなに必死で、切実に呼ぶ彼の声を初めて聞いた気がして、一瞬振り返りそうになったけれど、勢いを増したスピードにそれもできず、ただ目の前の和紀の背中にしがみついていることしかできなかった。


 誰かの後ろでも、バイクに乗るのは随分と久しぶりだった。私を取り巻くすべてのことが流れていく風に吹き飛ばされていくかのようで気持ちいい。それに、和紀の背中は温かくて、頬をつけるとなぜか泣きたい気持ちに駆られた。ぎゅっ、と回している腕に力を込めると、それを受け入れてくれるかのように、ぐっとバイクのスピードが速まった。
 和紀が連れてきてくれた場所は、いつもコロッケを散歩に連れてくるあの海辺だった。ガードレールに止めて、ヘルメットを脱ぐと懐かしい潮の香りが風に流れて届いた。思いっきり深呼吸して、胸いっぱいに吸い込む。気がつくと、和紀は横でそんな私を面白そうに見ていた。なによ、と睨むと別に、と肩を竦めて、ヘルメットを片付けてから、二人で砂浜まで降りることにした。
 しゃり、しゃりっ、と波の音に紛れて、砂を踏む音が鳴る。隣を歩く和紀は私より少しテンポを遅らせて踏みしめる。しゃり……しゃり、しゃりっ……しゃりっ、まるでマラカスを振ったときの音のように、楽しくなっていく。何も言葉は交わしていないのに自然と頬が緩んでいて、いつのまにか手を繋ぎながら歩いていた。

 「……卵焼き」
 不意に和紀は歩くのを止めて、海へと身体を向き直すと遥か遠くに視線を投げながら呟いた。波の音よりも小さな声に聞き取れず、私は「え?」と少し寂しげに思える横顔を見つめる。
 「高幡さんって甘い卵焼きが好きなんだ?」
 ふと、あの朝の和紀とのやり取りを思い出して、笑った。
 「そう。甘いもの苦手なのに、卵焼きだけは別みたい。甘いのじゃないと一日機嫌が悪いのよ」
 「機嫌が悪い高幡さんってイメージわかなかったんだけどな。今日のあの態度を見るまでは」
 クスッ、と悪戯っぽい、少年のように幼い笑みを浮かべて言う。
 私もあんなふうに感情の起伏が激しいえっちゃんは付き合ってから初めて見るけど、子どもみたいに悪戯が好きで監督と結託しあっては、私と監督の奥さんを呆れさせて、高見さんを困らせたりする。周囲が思い込んでいるように穏やかに見えるのは、機嫌が悪くても態度に出さないだけ。静かに機嫌を低下させて、ひっそりと根回しして真綿を包むように八つ当たりしていく。八つ当たりされた張本人も気づかないくらいのやり方は見事で、芸能界は態度に出したら終わりだと笑って言うえっちゃんにひやりと背筋を冷たいものが走った覚えがある。
 「あーっ!」
 急に和紀が大きな声を上げたから、びっくりして我に返った。どうしたの、と聞く前にしゃがみこんで、髪の毛をくしゃくしゃにかき回す。
 「まさか、千尋さんと高幡さんが付き合ってるなんてなー。オレってばか……」
 ひとり自嘲を込めて呟く和紀に、胸がぎゅっと締め付けられる。それを誤魔化すように、詰まりそうになる声を無理矢理出して、訊いた。
 「不倫よ。えっちゃん、奥さんがいるの有名でしょう」
 「うん、知ってる」
 和紀はしゃがみこんで、頭を抱えたまま頷いた。その声は穏やかで、責める響きはどこにもないような気がする。和紀は唐突に立ち上がって、私に真剣な目を向けてきた。
 「それでも、千尋さんは高幡さんを愛してる?」
 「わからないの。最初は、そうだと思ってた。えっちゃんを愛してるって。だけど、本当は ―― 一人でいることが寂しくて、あの手に縋ってたんじゃないかな」
 首を振って、私は和紀の真剣な目から逃げるように海へと視線を動かした。まだ夜の気配に包まれている海は、穏やかで静かに凪いでいる。規則正しい波の音に、悲しくなる。

 「オレは千尋さんが好きだよ」

 突然の言葉に、私は驚いて和紀を見た。あまりに自然な口調で、あまりに唐突で、絶句してしまう。それを面白そうに見てから、和紀は海に視線を向けた。
 「最初に会ったときから千尋さんがもつ空気に惹かれたんだ。それから笑顔が好きになった。ほとんどオレにじゃなくてコロッケに向けられてたけどね。怒った顔も、拗ねた顔も好きだし、あっ、オレはあの味噌味の卵焼きを作れる千尋さんも好き」
 「かっ、和紀?!」
 とりとめもなく始まった和紀の告白に戸惑って、声をあげる。恥ずかしくて、頬に熱が集まっていく。だけど、和紀は更に続けた。
 「あんな素敵な脚本が書ける千尋さんも素直に凄いと思うし。あと、オレが落ち込んだときいつだって励ましてくれる」
 優しく包み込んでくるその声に泣きそうになる。温かい言葉は胸の中にゆっくりと落ちて、染み渡っていく。胸が苦しくなった。
 「千尋さんが高幡さんと付き合っていてもそれは変わらないよ。オレの気持ちはそんなことで変わらない。だから、伝えておきたいんだ」
 まっすぐに見つめてくる目に気づいて、私は今度こそ逸らせなくなった。真剣に想いを向けてくる和紀に、私もゆっくりと想いを確かめながら言葉を口にする。
 「私は、今までえっちゃんとの関係は曖昧なままでいいと思ってた。いつか別れるものだからって。だけど、和紀に会って、惹かれて、ちゃんと答えを出そうって決めたの。私、ちゃんとえっちゃんに向き合う。向き合ってみるわ」
 それまで待ってて欲しいと、願いながらも言葉にしてしまうのは、きっとずるい。だから、その望みは溢れてきそうになる想いと一緒に飲み込んで、ただ伝わればいいのにと手を繋ぐと、そっと、優しく握り返される。伝わってくるその手の温もりが、大丈夫だと励ましてくれているような気がして、胸が熱くなっていくのを感じた。


 送っていくよという誘いを断って、私はひとりで海辺に残ることにした。汚れることも構わずに砂地に座って海の向こうの地平線をぼんやりと眺めていると、微かな光が一直線に輝き始めていた。目を細めてそれを見ながら、ふと昔もこんなふうによくお祖母さんと朝日が昇る瞬間を見ていたことを思い出した。場所は別荘のベランダだったり、海辺でおにぎりとお味噌汁、お茶を持参しながらだったり。太陽が出てくるのを待つ間、いろんな話をしてくれた。たとえば、恋の話。
 お祖母さんは私よりもまだ若い、十九歳のときに二人の男性に愛されてしまったと教えてくれた。ひとりは、とても激しい熱情を胸の内に抱えていて一緒にいるとその熱で身体も心もとかされてしまうの、と言った。もうひとりはまるで海のようにすべてを穏やかに包み込んでくれたわ。若かった私の怒りも悲しみも愛さえもすべて包み込んで抱き締めてくれる人だったわ、と遠く、まるでその二人の魂がこの海の果てにでもあるかのように、視線を投げていた。ようやく恋心というものを中学の同級生に持ち始めていた私は、お祖母さんがロマンス小説のヒロインみたいに思えた。ふたりの、それも対極のような男性たちに愛されるなんて。小説の結末が近づいて、頁を捲るたびにどきどきする、あの胸の高鳴りを感じながらお祖母さんに訊いた。
 『お祖母さんはどっちの男性を選んだの?』
 私の問いかけに、遠く海を見ていたお祖母さんは私へと視線を動かしてきた。ふっ、とその目が柔らかく細まる。
 『私は私が愛したお祖父さんを選んだわ』
 とても大切な話をするように声を潜めて、そう言われた。それ以上は教えてくれなかったお祖母さんに、私はずるいと拗ねた。そして、この話を思い出すたびに想像した。お祖母さんと、ふたりの男性。お祖父さんはどっちだったんだろう。若かったお祖母さんの身体も心もとかしてしまったひと? それとも、すべてを優しく包み込んであげたひと?
 お祖父さんに聞けばわかるとは思ったけれど、内緒よ、というお祖母さんとの約束を破るわけにはいかなかった。だから、お祖父さんの若かった頃を想像する。だけど、どちらとも言えないような気がした。お祖父さんは熱情を持っているようにも思えるし、優しく包み込むような雰囲気もある。きっと、どっちも持っている。益々わからなくなって、私はいろんな想像をしては、朝日を眺めるお祖母さんの横顔に答えがあるような気がしてじっと見つめたりしていた。そんな私に向かって、千尋も、愛されるよりは愛しなさいとそう強い光を浮かべた瞳でまっすぐ見ながら口にした。いつもは優しく穏やかなお祖母さんもその一瞬だけは、強い意思に輝いていた。

 ――― 愛されるよりは、愛しなさい。

 返ってくる波の音に紛れてしまうように、そう懐かしい声が聞こえたような気がした。

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